雨読






読経記 三(二)

 ― 『大正新脩大蔵経』読書記 ― 
《第三巻 本縁部上》



    凡例
  • 経典番号・経典題名・内容紹介の順で記述した。
  • 経典番号は、原本の通し番号に従った。
  • 経典題名は、常用漢字の表記に従った。
  • ( )内は頁数であり、aが上段・bが中段・cが下段を表す。
  • 記述に際しては、『大蔵経全解説大事典』(雄山閣1998)・『閲藏知津』 (北京・綫装書局2001)等を参照した。
  • 機種依存文字や、日本語文字コードにない漢字等は、「大正新脩大藏經テキストデータベース」(SAT)の表記に従った。
  • なお私見により、特に重要と思われる経典や巻を太字で示した。



  【目次】   ⇒【三(一)目次】   ⇒【総目次】

No.0184 修行本起経 二巻 竺大力訳
No.0185 仏説太子瑞應本起経 二巻 支謙訳
No.0186 仏説普曜経 八巻 竺法護訳
No.0187 方広大荘厳経 十二巻 地婆訶羅訳
No.0188 異出菩薩本起経 一巻 聶道真訳
No.0189 過去現在因縁経 四巻 求那跋陀羅訳
No.0190 仏本行集経 六十巻 闍那崛多訳
No.0191 仏説衆許摩訶帝経 十三巻 法賢訳





  No.0184[cf.185,188] 修行本起経 二巻 竺大力訳    ⇒【目次】

No.0184[cf.185,188] 修行本起経 巻上

 現変品 第一(461a)
 釈尊が迦維羅衛国の釈氏精舍にいた時、三十二相から大光明を発したので、みな仏がどのように修行し、こうした功徳を得たのか疑問に思った。そこで釈尊は、過去世から成道するに至った経緯を、詳しく説かれた。
 古に錠光仏の時、無垢光儒童が献花して仏に見え、百劫後に娑婆世界で釈迦如来になると授記され、能仁(釈迦文)菩薩と名づけられた。そこで菩薩は仏道に励み、兜率天に転生してからも、衆生を救うため転輪聖王などとなり下生をくり返した。九十一劫の間、こうして精進した後、時機が到来して一生補処の菩薩となり、最後の生を送る土地を視察した。
(2003/6/6)
 菩薩降身品 第二(463b)
 能仁菩薩は、白象に変化して天上から下生した。そのとき白浄王の夫人も空中に白象が現れる夢を見て驚き、占師に諮るとそれは吉祥で、転輪聖王か仏陀が生れる前兆であると告げた。それから十月が過ぎて臨月を迎え、四月七日に夫人が外出先の樹下で、右脇から出産した。太子は、直ちに七歩進んで「天上天下。唯我為尊。三界皆苦。吾当安之」と宣言した。王はその報せを聞いて喜び、群臣と諮って悉達(財吉)と名づけた。太子の生誕を知った阿夷道士が訪れ尊顔を拝したところ、三十二相などが備わり、必ず開悟し成仏するものだった。そこで王は四時殿を建立し、五百人の妓女を選んで大切に養育させた。しかし七日後に母親が命終し、仏を懐妊した功徳で忉利天へ転生した。(2003/6/11)
 試芸品 第三(465b)
 太子が十七歳になり、終日憂いに沈んでいたので、白浄王は妃を迎え気分を紛らわすことにした。そこで天下の美女として有名だった裘夷との縁談を、善覚王へ申し入れた。しかし諸国から求婚の話が来ており、対応に窮したので、武芸の競技会を開き、勝者へ娘を与えることにした。この時、太子をはじめ優陀・難陀・調達・阿難などが出場すると、いずれの試合でも太子が勝利を収め、ついに裘夷をもらい受けることになった。ただ後で彼女が嫁いできても、太子の憂いは少しも晴れなかった。(2003/6/12)

No.0184[cf.185,188] 修行本起経 巻下

 遊観品 第三(466b)
 王は太子の憂いを晴らすため、城外へ視察に行くことを勧めた。そこでまず東門から出ると老人に出会い、人間は誰でも老いることを痛感した太子は、前にも増して憂いに沈んでしまった。次に、南門から出遊すると病人に会い、人間の病について、深く考えることになった。さらに西門から出遊すると死人に会い、人生の無常をつぶさに悟って、大いに悲嘆した。最後に北門から出遊すると沙門に会い、彼らが欲を断ち憂苦から免れていることを知って、自分の進む道はこれしかないと確信した。またある時、農耕の有様を観察して、衆生が弱肉強食の世界に生きていることを憐れみ、瞑想が進んで第一禅に至った。(2003/6/14)
 出家品 第五(467c)
 太子は十九歳になると、意を決して出家した。四月七日の夜、愛馬に跨り城門を出て、阿奴摩国で下馬し、それから衣服を替え諸国を遊行した。摩竭提国に至り、瓶沙王と会見して、成道後に教えを授かるよう懇願された。その後、本格的に苦行を始め、斯那道士の元で娑羅の樹下に坐し、一日に一麻一米を食するだけで、六年間瞑想に励んだ。それでも得道できなかったので、二女が奉げる乳糜を食べて精気を養い、再びある樹下に安座し入定した。四禅行・三十七道品を行じ、十二因縁を観じて、生老病死が滅尽する道を見出した。
 この時、魔王が菩薩の成道を阻もうと企んで、三女に誘惑させた。それが一言の下に退けられると、今度は鬼神の大軍を派遣して来た。しかしどのように攻撃しても、累劫に及ぶ修行で得られた定力の前には効果なく、魔王は敗退してしまう。そしてこの日の夜半に四神足を得、明星が出た時、菩薩はついに無上正真道を大悟し、仏の十八法・十神力・四無所畏が備わったという。
 この経典の異訳として『仏説太子瑞応本起経』(No.0185)『異出菩薩本起経』(No.188)などがある。(2003/6/21)




  No.0185[cf.184,188] 仏説太子瑞應本起経 二巻 支謙訳
   ⇒【目次】

No.0185[cf.184,188] 仏説太子瑞応本起経 巻上(472c)

 釈尊が無数の劫を経て、凡夫から成道するに至った経緯を、詳しく説かれた。
 古に定光仏の時、儒童菩薩が瞿夷王女から買った花を献じて仏に見え、九十一劫を経て釈迦如来になると授記された。そこで菩薩は仏道に励み、四天王に転生後も、下生して転輪聖王などになった。
 そうして道を修めつつ九十一劫が過ぎ、時機が到来して一生補処の菩薩となり、白浄王の家へ産まれることに決めると、菩薩は白象に変化し天上から下生した。これを夫人も夢に見て驚き、占師に諮ると吉祥で、菩薩を孕んだ前兆であると告げられた。四月七日になり、太子が右脇から産まれると、直ちに七歩進んで「天上天下。唯我為尊。三界皆苦。何可楽者」と宣言した。そこで王は、悉達と名づけた非凡な子の行く末を占うため、阿夷道士を訪ねたところ、三十二相が備わる体を具に見て感激し、転輪聖王か仏陀になると約言した。これを聞いて王は三時殿を建立し、五百人の妓女を選んで大切に養育させた。しかし七日後に母親が命終して、仏を懐妊した功徳から忉利天へ転生した。
 太子が十四歳の時、王に勧められ、城外へ視察に行くことになった。そこでまず東門から出ると老人に出会い、人間は誰でも老いることを痛感すると、前にも増して憂いに沈んだ。次に南門から出遊すると病人に会い、人間の病について深く考えることになった。さらに西門から出遊すると死人に会い、人生の無常をつぶさに悟って、大いに悲嘆した。そうこうする内、太子が十七歳になると、妃を迎えることになり、前世の因縁から天下の美女として有名な、瞿夷をもらい受ける。それから最後に北門より出遊すると沙門に会い、彼らが欲を断ち憂苦から免れていることを知って、自分の進む道はこれしかないと確信した。
 太子は十九歳になると、意を決して出家した。四月七日の夜、愛馬に跨り城門を出て、衣服を替え諸国を遊行した。これを知った王は、五人の使者を派遣し、太子に仕えるよう命じた。それから摩竭提国に至り、瓶沙王と会見して、成道後に教えを授かるよう懇願された。
 その後、本格的に坐禅を始め、一日に一麻一米を食するだけで、六年間瞑想に励んだ。この時、魔王が菩薩の成道を阻もうと企み、三女に誘惑させた。それが一言の下に退けられると、今度は鬼神の大軍を派遣して来た。しかし、どのように攻撃しても、菩薩の定力を崩すことができず、魔王は敗退してしまう。
 この経典では、上巻で『修行本起経』(No.0184)の全段にわたる説話が、簡潔に叙述されている。(2003/6/29)

No.0185[cf.184,188] 仏説太子瑞応本起経 巻下(478a)

 菩薩が累劫にわたって、修めてきた定力により、魔王の大軍はなす術もなく退散した。その夜に四神足を得て、明星が出たとき大悟し、正覚に至って仏の十神力・四無所畏などが備わった。
 この時、ある長者の娘が乳糜を備えたのでそれを食べ、さらに七日瞑想を続けた。その間、龍王が雨風から守るため七重に囲んだ。釈尊は世間の九六種に及ぶ思想を省察すると、みな快楽を求め、この世が一切皆苦であることを少しも知らない。そんな人々へ仏道を説いてもむだであり、このまま涅槃に入ろうと思惟した。これを梵天が悲しみ、なんとか衆生へ説法してくれるよう、懇ろに嘆願したので、ようやく釈尊は聞き入れた。
 そこで誰に説教しようか思いを巡らせたところ、以前に従者だった五人の比丘が適当であると考え、彼らの所へ行き帰依させた。次に高名な婆羅門だった優為迦葉と、弟子五百人に教えを説くことにした。その居所を訪ねて、火龍を調伏し、諸天が来訪するなど様々な神通力を示すと、頑迷だった彼も帰依した。それから、弟の那提迦葉・竭夷迦葉と弟子五百人も兄に続いて帰依し、たちどころに千人の弟子を擁する教団となった。このように下巻では、成道から迦葉三兄弟の帰依までが説かれている。
 この経典の異訳として、『修行本起経』(No.0184)『異出菩薩本起経』(No.188)などがある。(2003/7/5)




  No.0186[cf.187] 仏説普曜経 八巻 竺法護訳    ⇒【目次】

No.0186[cf.187] 普曜経 巻第一

 論降神品 第一(483a)
 釈尊が舎衛国の祇樹給孤独園にいた時、諸天の願いを聞き入れて、普曜大方等典を説くことにした。ここでは釈尊が兜率天から母胎に下生し、菩薩行を修めて成道し、衆生救済の法門を開示するに至った、経緯が説かれている。
 釈尊が兜率天にいた時、一生補処の菩薩となって、無数の諸天を教化していた。そんなある時、諸天の集いで菩薩が最後の生を過ごす国土の可否を議論していた。議論が纏まらず、菩薩の意見を聞きに行ったところ、その国には六十種の功徳を満たす必要があり、白浄王の迦維羅衛が適当であると説かれた。(2003/7/8)
 普曜経説法法門品 第二(486c)
 菩薩は降誕する国土を選んだ後、高幢宮で諸天のために法曜道門を説いた。これは「至誠法門」以下、八百法門にも及び、逐一その名が列挙されている。この時、法門を聞いた諸天の多くが、菩提心を発して随喜した。(2003/7/10)
 所現象品 第三(488b)
 菩薩は経法を説いた後、諸天へ降誕する際に、どんな形が良いか諮ったところ、強威梵天は梵典によるなら白象が最もふさわしいと述べた。こうしていよいよ菩薩は、白浄王宮へ下生する決意をした。(2003/7/11)

No.0186[cf.187] 普曜経 巻第二

 降神処胎品 第四(489a)
 その時、諸天が集会し、降誕から滅度まで菩薩を陰から守護するよう決議した。それから諸方の天子も菩薩降誕の時節を知り、送別の供養をするため集ってきた。こうして晩春初夏の穏やかな季節を選び、いよいよ菩薩は白象と化し、母后の右脇へ下生することになった。母胎に降りると、鏡のようにその姿がはっきり見えたという。(2003/7/13)
 欲生時三十二瑞品 第五(492c)
 十月が過ぎて出産の時期に近づくと、まず三十二の奇瑞が現れた。その時、母后は園遊に出たいと思い、王の許しを得て隣鞞樹の下に至るとすぐ右脇から出産した。すると直ちに菩薩は七歩進んで「我当救度。天上天下。為天人尊。断生死苦。三界無上。使一切衆。無為常安」と宣言した。
 母后は産後すぐ快復し、その場で多くの人々が集い七日にわたり祝宴を開いた。しかしここで宿命のため、臨終を迎え兜率天へ転生した。そこで王は皆と相談し、大愛道に乳母を命じた。
 菩薩生誕の奇瑞を見て、阿夷梵志が太子へ面会に訪れた。そこで全身に備わった三十二相を見、感激のあまり涙を流し、太子は転輪聖王か仏陀になると予言した。これを聞いた王は、太子のため三時殿を建て伎女を選び、大事に養育することにした。(2003/7/16)

No.0186[cf.187] 普曜経 巻第三

 入天祠品 第六(497a)
 釈氏の名士がみな諮って、太子に天祠(諸神の宮)へ参詣させた。(2003/7/17)
 現書品 第七(498a)
 太子が七歳になると、白浄王は共に書師を訪ね、文字を習わせようとした。しかし太子は、すでに六十四種の書法に通じており、師の及ぶところではなかった。(2003/7/18)
 坐樹下観犁品 第八(499a)
 太子が成長したある時、父王に申し出て村落へ視察に行った。そこで農耕者を見、なぜ働いているか尋ねたところ、国王へ税を納めるためと知り、人々の労苦を思って深く憂いに沈んだ。それからあたりを遊行し、樹下で一心に坐禅していたら、その功徳で上空を飛行中の神仙が進めなくなったという。(2003/7/19)
 王爲太子求妃品 第九(500a)
 白浄王が妃を迎えるよう相談すると、太子は工師に金の像を作らせ、自分の望む条件を示したので、諸臣がくまなく国中を探した。その中で、執杖釈種の娘である倶夷が、全ての条件を満たしていた。さっそく勅使が父親に求婚の話を伝えたら、諸芸に秀でた者を婿としたいと答えた。そこで王は全国へ触れを出し、七日後に太子を交え、競技会を開くことになった。(2003/7/21)
 試芸品 第十(501b)
 調達や難陀をはじめ腕自慢の者たちが集った中で、相撲や射的など様々な競技を行った。しかしどの種目においても、太子に及ぶ者がおらず、めでたく倶夷を妃に迎えることができた。(2003/7/22)
 四出観品 第十一(502c)
 ある時、太子が居城の東門から出遊すると、耄碌した老人が立っており、誰もがこのように老いることを深く憂えた。また南門から出遊すると瀕死の病人がいて、自分もいつか病むことを痛ましく思った。さらに西門から出遊すると死人がおり、親族が集い嘆き悲しんでいた。これを目撃し人はみな老い病んで、最後は必ず死ぬものだと痛感した。そうして北門から出遊すると沙門に出会い、彼らが心静に修行する姿を見て感激し、自分も出家することを決心した。その決意を王へも告げ、いよいよ太子が出離する時機が到来した。(2003/7/24)

No.0186[cf.187] 普曜経 巻第四

 出家品 第十二(504c)
 太子が妻や後宮の女たちの寝姿を見ると、外は飾っても内の醜さは隠せず、無常を感じざるをえなかった。そこで女たちに対して不浄想を観じ、執着の心を断ってから、車匿へ命じて白馬を用意させ、出家の決意を語った。(2003/7/27)
 告車匿被馬品 第十三(506a)
 太子は続けて車匿へ、衆生を救うため出家する決意が、須弥山の如く堅固であると説いた。それから人々が寝静まった頃を見計らい、愛馬の揵陟を連れてこさせ、夜半に城門から出立した。
 明朝、倶夷は夫の姿が見えないことに気付き、王へ告げて城中が大騒ぎになった。しばらくして太子は身につけた宝物を車匿へ渡し、それを持って帰国し、父王や妻へ成道するため家を出たと、伝言するよう命じた。車匿からこれを聞いた倶夷はさらに悲嘆し、なぜ太子を連れ帰らなかったかと詰ったので、車匿は涙を流しながら、諸天の加護で事が運んでおり、自分にはなす術がなかったと答えた。そこで王は太子を苦難から守るため、大臣の子弟を五人選び、侍者として派遣した。
 太子は沙門の姿となって諸国を遊行し、托鉢のために羅閲城へ入った。三十二相の備わった威容は街の人々を感嘆させ、神々しい人物が現れたと伝聞した瓶沙王が、面会を求めて訪れた。そこで王と出家の理由について問答し、成道後再来して、教えを授けると約束した。(2003/7/30)

No.0186[cf.187] 普曜経 巻第五

 異学三部品 第十四(510a)
 菩薩(太子)は諸国を遊行し、著名な修行者を尋ね、欝頭藍弗に有想無想定、迦羅無提に無用虚空三昧を学んだ。しかしどれも満足できる行法でなく、また憂為迦葉・那提迦葉・竭夷迦葉三兄弟の拝火教などは、論外だった。その他、当時の様々な学派を見ても、仏道から乖離し採るべきものはなかった。(2003/7/31)
 六年勤苦行品 第十五(511a)
 そこで菩薩は独りで六年間、苦行を修めることにした。四禅法により出入息を数えて瞑想し、一日に一粒の胡麻と米しか食べず、露天で結跏趺坐し続け、微動もしなかった。しかし六年経たある時、菩薩はこの痩せ衰えた体のままでは、後の者が飢餓により悟ったと勘違いするから、柔らかい物を食べ、体を快復させて成道しようと考えた。その時、修舍慢加村の長者の娘が、菩薩の威容に感激し、乳糜を奉げた。これを食べて気力が充実し、仏樹の下へ行って過去仏と同じく如法に修行したところ、その夜ついに成仏した。(2003/8/4)
 迦林龍品 第十六(514b)
 菩薩から発した光明が迦林龍王宮を照らすと、龍王は目を覚まし、それが過去世で見た諸仏の光と同じものなので、必ず近々仏が現れると感嘆した。その時、菩薩は過去仏と同じく草蓐に坐して成道しようと考え、たまたま道端で草刈りしていた吉祥から柔らかい草をもらい、座を敷いた。ここで肌破れ骨枯れ、体が腐り落ちても、成道できなければこの座から立たないと誓い、菩薩がいよいよ菩提樹下に坐した時、その場から大光明が放たれ、十方の諸仏土を照らした。(2003/8/7)
 召魔品 第十七(516c)
 その時、菩薩が発した消魔宮場という光明は、三千世界の隅々まで届き、魔王の宮殿も照らし出した。魔王は釈迦族の太子が六年の苦行を経、菩薩樹下で成道したと聞き、その教化を阻もうと企て、眷属の者たちを呼び方策について議論を重ねた。(2003/8/9)

No.0186[cf.187] 普曜経 巻第六

 降魔品 第十八(519a)
 そこで魔王・波旬は四人の娘へ、菩薩の所に行き、愛欲で清浄行を破戒するよう命じた。しかし菩薩は、美しい彼女たちに誘惑されてもまったく動じず、むしろ世の無常を説き、その魔力を封じ老け込ませてしまった。この一件を見て、諸天が讃嘆するのを聞いた魔王は、怒って十八億の兵を集め菩薩を襲おうとした。彼らが猛獣・毒蛇などに変身し迫ってきたのに、菩薩は少しも動揺することなく、むしろ慈悲心により相貌はますます輝き、誰も危害を加えられなかった。(2003/8/12)
 行道禅思品 第十九(521c)
 菩薩は菩提樹下で魔王を退けた後、四禅行を修めた。深い禅定に入り、大慈悲心を起し、三十七道品行に通じた。それにより諸苦の根源を知り、これを滅するには八正道を行うべきであると覚った。そうして明星が出た時、廓然として大悟するに至り、同時に仏の十種神力と四無所畏十八法が備わった。(2003/8/13)
 諸天賀仏成道品 第二十(523a)
 その時、諸天は菩薩が降魔成道し、如来となって菩提樹下に坐しているのを見て、次々に訪れ讃嘆した。(2003/8/15)

No.0186[cf.187] 普曜経 巻第七

 観樹品 第二十一(524c)
 如来は成道してから七日間、禅定に入って一心に菩提樹を見つめ、瞬きすらしなかった。そこで七日後に普化天子がその禅定名を尋ねたところ、如来は悦食と答えられた。そして諸天へ説法し、あまたの仏弟子を教化した後、ようやく座から起きられた。(2003/8/16)
 商人奉麨品 第二十二(526b)
 如来が禅定へ入って七日の間、誰も食を施しておらず、梵天が心配し商人の前に現れて、蜜を奉げるよう命じた。如来はこれを受け、彼らを祝福した後、人々を教化するかどうか思索された。しかし、愚昧な衆生を導くのは難しくて、このまま涅槃へ入ろうかと考えられた。それを天帝が察知して悲しみ、衆生のため経を説くよう、懇願しに行った。(2003/8/17)
 梵天勧助説法品 第二十三(528a)
 次に梵天も正法輪を転じるよう願いに訪れると、ようやく如来も了承し、波羅奈国の鹿苑でかつての侍者だった五人の比丘に、初めて法輪を転じると決められた。彼らは以前に太子が苦行を放棄したと思っており、挨拶もしないと申し合わせていた。しかし、如来の威儀を見ると、思わず席を立って歓迎し、非礼を詫びてその教えに帰依した。(2003/8/18)
 拘隣等品 第二十四(530a)
 如来は拘隣(憍陳如)等五人へ十二因縁法を説いたところ、みな法眼浄を得て、ここに仏・法・僧の三宝が成立した。こうして初転法輪が成就した時、諸天も集り、そこで説かれた『普曜大方等法経』を聴いて、受持することにした。(2003/8/19)

No.0186[cf.187] 普曜経 巻第八

 十八変品 第二十五(530c)
 如来は五比丘の後、五百人の弟子を持つ優為迦葉を教化しようと考え、彼の居所を訪ねられた。そこで火龍を調伏し、諸天の来臨を迎えるなど、十八の奇瑞を示した。しかし迦葉は自分の優位性に固執していたので、如来はその頑迷な態度を叱責し、ようやく帰依させた。それから彼の弟である那提・竭夷も、兄の説得で直ちに沙門となった。(2003/8/22)
 仏至摩竭国品 第二十六(532b)
 その時、摩竭国の瓶沙王は、釈迦族の王子が成仏したと聞いて大いに喜び、国を挙げて歓迎することにした。王をはじめ臣民が如来に拝謁すると、傍らに優為迦葉がいるのを見て、どちらが師か疑問に思った。そこで如来は迦葉に命じ神通力を発揮させた上で、仏法に帰依していると宣言させた。それから王へ、世界は無常であり、苦であることを説かれ、併せてこれを克服する、縁起の法も教えられた。ここで王は法眼浄を得、直ちに帰命し五戒を受けた。またこの時、迦陵長者が竹園精舎を寄進している。(2003/8/24)
 化舍利弗目連品 第二十七(533c)
 仏弟子の安陛が托鉢していたところ、舎利弗がその威容に感動し、誰に師事しているか尋ねた。そこですぐさま如来に見え、出家することにした。また学友の目連も誘い、二百五十人の弟子が一挙に得度した。
 父王は如来が成道したと聞いて以来、六年の間、渇仰の思いが絶えず、優陀耶を派遣し招来することにした。如来も父母を得度させようと考えて、すでに出家した優陀耶を先触れとして帰国させた。(2003/8/25)
 優陀耶品 第二十八(534c)
 その時、如来は優陀耶へ、神通力で空を飛び、父王に帰国の報を伝えるよう命じた。王は如来の帰国を聞くと、悲喜の念に溢れ、国を挙げて歓迎することにした。七日後に如来が迦維羅衛へ到着すると、王は直ちに豪族等へ命じ五百人を出家させた。その中に、仏弟の難陀も含まれていた。(2003/8/26)
 歎仏品 第二十九(536c)
 如来は以上のように法輪を転じ、十方の衆生を救済した。そこでふたたび釈尊は大神妙天子に告げ、この経典を『普曜大方等典』と名付けられた。次にこれを受持することで得られる功徳について、八種毎に分け逐一列挙している。(2003/8/30)
 嘱累品 第三十(537c)
 最後に釈尊は大迦葉・阿難・弥勒等へこの法を委嘱し、広く人々に説くことを命じられた。
 この経典の異訳として、『方広大荘厳経』(No.0187)などがある。(2003/8/30)




  No.0187[cf.186] 方広大荘厳経 十二巻 地婆訶羅訳    ⇒【目次】

《参考文献》
 『国訳一切経 印度撰述部37 本縁部九 方広大荘厳経 僧伽羅刹所集経』
  常磐大定譯 大東出版社1984(1930)

No.0187[cf.186] 方広大荘厳経 巻第一

 序品 第一(539a)
 釈尊が舎衛国の祇樹給孤独園で、夜分に仏荘厳三昧へ入っていたところ、諸天が訪れて衆生のため『方広神通遊戲大荘厳法門』を説いてくれるよう懇願した。そこで釈尊は彼等を哀れみ、この経を説くことにされた。(2003/9/1)
 兜率天宮品 第二(540a)
 その時、釈尊は比丘たちへ『方広神通遊戲大厳経典』を説かれた。それは菩薩が兜率天において、数多くの諸天から供養されつつ仏法を修行し、無数の衆生を教化していたところから始まる。(2003/9/2)
 勝族品 第三(541b)
 菩薩は下生しようと思い立ち、天宮から時機や氏族などを観察していた。菩薩が生誕すべき氏族には六十四種の徳が求められ、また母親となる女性には三十二種の徳を要した。諸天は皆これらに合致するのは、釈迦族の輸頭檀王と、妃の摩耶夫人だけであると認めた。(2003/9/4)
 法門品 第四(543c)
 菩薩は下生するにあたり最後の説法をするため、兜率天の高幢殿に十方の諸天を集会させた。そこで百八法門について逐一列挙し、諸天を教化した。(2003/9/5)

No.0187[cf.186] 方広大荘厳経 巻第二

 降生品 第五(545c)
 その時、菩薩はどのような姿で下生するべきか諸天に諮ったところ、勝光天子は象形が囲陀の論説にかなっている言うので、これに従った。そうして菩薩が下生の時機を窺っていると、まず輸檀王宮に八種の瑞相が現れた。同時に無量の諸天が集って、菩薩を受胎から涅槃に至るまで守護すると誓い合った。いよいよ菩薩が降誕する時、十方の菩薩が供養のため一斉に兜率天へ集合した。(2003/9/10)
 処胎品 第六(548c)
 春になり草花が茂って、気候も良くなった頃、菩薩は白象の形で兜率天から母胎へ入った。母后もこれを夢み、さっそく王へ報告したところ、喜んで子のため大施会を開いた。
 この時、阿難が障りの多い女身へ入ったことで、穢れはなかったかと尋ねたら、釈尊はその母胎に巨大な宝殿が収まっており、菩薩の居所は清浄そのものであったと答えられた。また菩薩が胎内にいる時、母后は体が軽快で心も平安であり、天候が良く国民も平和であったという。(2003/9/12)

No.0187[cf.186] 方広大荘厳経 巻第三

 誕生品 第七(551b)
 菩薩がまさに誕生しようとした時、三十二種の奇瑞が現れ、摩耶夫人もこれを察して、出産のため龍毘尼園の至波叉宝樹へ行った。臨月になり菩薩は、母后の右脇から生まれ、直後に立って十方へ七歩進み「我得一切善法。当為衆生説之」等と宣言した。ここで釈尊は阿難へ、後世の比丘等は愚かにも誕生時の奇跡を信じられない、などと言うに違いない。しかしそれでこの大乗経典を誹謗するなら、阿鼻大地獄へ落ちることになると説かれた。
 さてこの時、輸檀王は菩薩にすべてを成就するという意味で「薩婆悉達多」と名づけた。龍毘尼園で生誕後、祝賀の行事が催されていたところ、七日目に母后が逝去して三十三天へ転生した。そこでさらに七日を過ごし、ようやく迦毘羅城へ帰った。王はただちに親族と諮って乳母を選び、摩訶波闍波提に養育を委ねた。また菩薩が生誕した時、阿斯陀仙人が訪れ人相を観たところ、成仏すべき相が具備しており、自らの老齢を思い涙を流した。それから王の問に答え、この聖子は三十二相が分明顕著であるのみならず、八十種好も見えるので必ず出家し成道すると教えた。(2003/9/15)

No.0187[cf.186] 方広大荘厳経 巻第四

 入天祠品 第八(558a)
 釈氏の長老たちが太子を天廟へ連れて行き、吉祥を祈るよう進言した。そこで王は自ら太子を抱き天廟へ入ったところ、神像がみな立ち上がって迎え敬礼した。(2003/9/16)
 宝荘厳具品 第九(558c)
 また優陀延大臣が星宿を観て、太子に宝荘厳具を造るよう進言した。王はすぐに許可し、跋陀羅が装身具を着けたところ、太子の体が発する光で、宝物の輝きは奪われてしまった。(2003/9/16)
 示書品 第十(559a)
 菩薩が七歳になり、諸々の児童と共に学堂へ昇った。そこで輸檀王に連れられ毘奢蜜多博士に会って、学問を授けてもらうことになった。しかし菩薩は、すでに六十四種の書体に通じており、博士から学ぶものは何もなかった。(2003/9/17)
 観農務品 第十一(560b)
 菩薩が大きくなり、釈氏の諸子と遊観に出かけたところ、農夫が勤労する様を見て慈悲心を起し、閻浮樹の下で結跏趺坐し瞑想を始めた。すると上空にいた五仙人が、その定力のため飛行できなくなった。驚いた彼等は、菩薩を讃嘆しつつ、礼拝して去った。(2003/9/18)
 現芸品 第十二(561a)
 釈迦族の長老たちは、太子を在俗のまま転輪聖王にするため、妃を迎えようと計った。輸檀王もこれを許し、菩薩に相談して望む妃の条件を出させた。そうして王の命令で大臣たちが、迦毘羅城中をくまなく探し、条件にかなう者を求めた。その結果、執杖大臣の娘・耶輸陀羅しか該当する者がおらず、彼女も同意したので、太子と見合いさせることにした。その日は国中の美女も参集して、妃になろうと容姿を競った。しかし誰も耶輸陀羅には及ばず、太子も一目で気に入って、身に着けていた宝物を与えた。
 しかしいよいよ婚儀を進めようとしたところ、執杖大臣が家訓により自分の娘は、技芸に優れた者でなければ与えられないと言った。そこで王は菩薩に諮り、七日後に競技大会を開くと布告した。当日は釈迦族の若者が五百人集り、競技することになった。まず作文・算術においてまったく及ぶ者はおらず、みな太子が弁才智慧第一であることを認めた。次に競走・相撲・射弓なども試したところ、やはり太子に敵う者がいなかった。そこで最後に執杖大臣は会衆へ向い、耶輸陀羅を太子に与えると宣言した。(2003/9/21)

No.0187[cf.186] 方広大荘厳経 巻第五

 音楽発悟品 第十三(565b)
 その頃、諸天等は菩薩がまだ深宮に留まり、出家しないのを訝しく思っていた。するとある時、十方諸仏の神通力で宮中の音楽が仏法を説きはじめ、速やかに出離することを勧めるようになった。(2003/9/22)
 感夢品 第十四(569c)
 諸天が出家を勧めた頃、輸檀王も菩薩が髪を下ろし、宮中から去る様子を夢みるようになった。そこで王は太子が自由に外遊するのを禁じ、三時殿を建設して宮女たちに相手をさせた。
 そんなある時、菩薩は王の許可を得て、東門から出遊したところ、浄居天が化けた老人に会い、誰もが老いを免れないと思い知り、憂いに沈んだ。また南門から出遊したら病人に出会い、病気を逃れる術のない無力さに煩悶した。また西門から出遊すると葬儀の一行に遭い、人間はみないつか死ぬことを目の当りにし絶望した。そして北門から出遊した時、比丘に出会ったので、出家の利益について尋ねると、生老病死など一切の苦から免れる道が得られると答えた。これを聞いて菩薩は歓喜し、自分の進むべき道はこれしかないと覚った。
 その時、父王はさらに七種の夢を見て、これが何を意味するか占わせたところ、太子の出家成道を予告するものだった。また耶輸陀羅も二十二種の同様な夢を見て驚き、太子も五種の夢を見た。(2003/9/25)

No.0187[cf.186] 方広大荘厳経 巻第六

 出家品 第十五(572a)
 菩薩は父王に出家の意思を告げなければ道義に悖ると考え、王宮へ行き心中を打ち明けた。しかし明朝、王は親族を招集し、太子が出国しないよう方策を練った。これに対し、帝釈天たちは菩薩の出家を助けるため、警備の兵士を眠らせるなどの手を打った。諸天の働きにより、宮中は墓所の如く静かになり、また美しかった宮女たちが、醜い寝姿を晒すようになった。そこでいよいよ菩薩は、渋る車匿へ命じて愛馬・乾陟を連れ出させ、城中から出立した。それからしばらくして皆ようやく眠りから覚め、宮中は大騒ぎになった。
 菩薩が弥尼国に至ると夜が明け、仙人の苦行林前で下馬し、髪を下ろし衣を替えて沙門となり、車匿に伝言を託して王城へ帰した。彼の姿を見ると乳母や妃らが取り囲み、号泣しながら太子をどこへ連れて行き、なぜひとりで戻ったかと詰問した。そこで車匿は諸天の加護により事が運んでいたため、止めることは不可能であったと報告した。王もこれを聞いて悲嘆しつつ、太子の行く末を心配して大臣の息子を五人、侍者として派遣した。(2003/9/29)

No.0187[cf.186] 方広大荘厳経 巻第七

 頻婆娑羅王勧受俗利品 第十六(578c)
 菩薩は毘舎離城へ行き、三百人の弟子を持つ阿羅邏仙人に無所有処定を学ぶと、すぐにこれを会得し、仙人から共に弟子を指導するよう誘われた。しかし、この禅定ではいまだ苦を滅することができないと考え、仙人のもとを去り摩伽陀国の王舍城へ行った。
 次に偈文で、頻婆娑羅王との会見の模様を叙述する。ここで王から、共に国を治めようと誘われたにもかかわらず、これを断り、自分の出自と出家の目的を告げたところ、歓喜した王の帰依を受けることになった。(2003/10/1)
 苦行品 第十七(580a)
 王舎城には七百人の弟子を持つ烏特迦仙人がおり、非想非非想定を説いていた。菩薩は彼に就いてこの禅定を学んだところ、速やかに修得し、他に教えがないか尋ねた。しかしこれ以上の法はないと言われたので、それに満足することができず、彼のもとを去った。ここで、烏特迦仙人に師事していた釈迦族の五比丘も、菩薩と行動を共にした。
 それから菩薩は、尼連河のほとりで苦行を始めた。当時の外道たちが修していた行法を批判し、独自に瞑想して制息や断食などを行じた。この時、一日に米一粒か胡麻一粒しか食べず、身体は痩せ細り、枯木のようだった。(2003/10/4)
 往尼連河品 第十八(582b)
 菩薩が六年苦行していた時、魔王波旬が付きりで監視していたにもかかわらず、少しの落度も見つけられなかったので、あきらめて去って行った。そこで菩薩が、改めて自らの苦行を反省したところ、最も厳しく修めながら、決して菩提を証することができなかった。これは誤った方法であり、他に苦を断じる道があると考えた。そうして痩せ衰えた身体を癒すため、美食することにしたところ、五比丘は菩薩が堕落したと勘ちがいし、見限って鹿野苑へ去った。菩薩は優婁頻螺村長・斯那鉢底の娘であった善生から、乳糜の供養を受け、尼連河のほとりでこれを食し、ようやく体力が元通り快復した。(2003/10/5)

No.0187[cf.186] 方広大荘厳経 巻第八

 詣菩提場品 第十九(584b)
 菩薩は、身体を洗い乳糜を食べると、気力が充実し、無量の光明を放ちつつ菩提樹へ詣でた。その時、梵天は菩薩のために周辺を清め、諸天も空中で散華するなどの供養をした。菩薩が大光明を放つと、悪趣に落ちた衆生の苦しみが解消し、悪心を懐く者がなくなった。迦利龍王もこれを見ると、過去三仏の光明に等しいと讃嘆し、必ず間近に仏が出現すると確信した。
 ここで菩薩は、古仏がどんな座で成道したか思惟し、浄草座であったと知り、ちょうど近くで草刈りをしていた吉祥から、きれいな草をもらって敷き詰めた。その上で結跏趺坐し「我今若不証 無上大菩提 寧可砕是身 終不起此座」と宣誓して、菩提を証するため禅定へ入った。(2003/10/9)
 厳菩提場品 第二十(588a)
 この時、菩薩は開発菩薩智という名の大光明を放ち、あまねく十方の諸仏土を照らした。これを見た十方世界の菩薩たちは、それぞれ供養するために、この菩提場へ来集した。(2003/10/11)

No.0187[cf.186] 方広大荘厳経 巻第九

 降魔品 第二十一(590b)
 菩薩が菩提座に就いた時、いま正覚を得ようとするに際し、まず魔王波旬を降伏しようと考え、眉間の白毫から降伏魔怨という名の光明を放って、魔宮を照らした。その夜、魔王は種々の悪夢を見て、菩薩の成道が間近であると知り、大臣に諮って大軍を派遣し、妨害しようとした。さらに千人の息子たちを呼んで、菩薩を攻撃させようとしたら、半分ずつ賛否が分かれ、結論が出なかった。そこで娘たちを菩提樹へ送り、三十二種の手練で誘惑させようとしたのに、逆に諄々と道理を諭され、まったく効果がなかった。
 この時、魔王は怒り狂い息子たちの諫言を聞かず、菩薩と直接対決して、その座を離れなければ魔軍を送り、攻撃させると警告した。しかし菩薩は少しも動じず、魔軍の攻撃を神通力で無力化し、傷ひとつ受けなかった。魔王はますます怒り、刀を抜いて走ってきたのに、菩薩へ近づくことさえできなかった。そこでようやく自分の非力をさとり、空しく魔宮へ帰って行った。(2003/10/15)
 成正覚品 第二十二(595a)
 菩薩は魔王を降伏した後、禅定へ入り、第四禅に至った。その初夜分に天眼通を得、一切衆生の生態を知り、生老病死苦の原因を思惟した。そうして苦・苦の集・苦集の滅・苦集を滅する道を発見し、後夜分に明星が出た時、正覚を成じて如来となった。これを知った諸天は、歓喜して成道したばかりの仏に天花を散し、一切の諸仏は讃嘆し宝蓋をかざした。(2003/10/16)

No.0187[cf.186] 方広大荘厳経 巻第十

 讃歎品 第二十三(597a)
 この時、浄居天子・遍光天子・梵衆天子・右面魔王子・他化自在天王・化楽天王・兜率天王・夜摩天王・帝釈天・四天王・虚空諸天・地神なども訪れ、それぞれ種々の供物で新しい如来を供養した。(2003/10/19)
 商人蒙記品 第二十四(599b)
 如来が初めて正覚を成じた時、そのまま解脱の喜びに満たされながら七日の間、菩提樹を見つめ座から起きなかった。そして二週目にはあたりを経行し、三週目には菩提場を見つめ、四週目には近所を経行した。その時、魔王波旬が訪れて、苦行の末に成道し目的を果たしたのだから、すぐ涅槃へ入るよう誘惑した。しかし如来は、一切衆生の救済を発願し、大菩提を求めたのであり、ここで涅槃へ入るわけにはいかないと断った。魔王が意気消沈したので、三女が代わりに如来を誘惑すると、神通力で退けられてしまった。五週目には目真隣陀龍王の居所で風雨を避けて、六週目には尼連河へ趣いた。七週目には多演林中の一樹下で結跏趺坐し、衆生の煩悩について思惟した。
 如来はすでに四九日間も絶食していたので、護林神が商人の前に現れて、食べ物を供養するよう勧めた。彼等は如来の相好を見ると感激し、ただちに美味を調えて差し上げた。ここで四天王から栴檀鉢を寄進され、その器で食を受けた。また商人のため幸福を祈り、後生において成仏することを受記した。(2003/10/21)
 大梵天王勧請品 第二十五(602c)
 如来が正覚を成じ多演林で独坐していた時、禅定しながら世間を観察した。その結果、自ら悟った内容があまりに深遠であり、衆生へ説いても理解されないだろうと考え、このまま沈黙していようと思った。梵天がこれを察知して、衆生を救済するため説法するよう慫慂した。しかし如来は応じなかったので、再び帝釈天たちを連れて勧進に訪れた。その時、如来は仏眼で衆生の根機を観察すると、邪定の者はどうしようもなく、正定の者ならそのままで良いとしても、不定の者には法を説かなければ、迷いが覚めないと知り、この不定聚を対象として説法することに決めた。そして最初に説法する地を、波羅奈国の仙人墮処鹿野苑と定めた。(2003/10/23)

No.0187[cf.186] 方広大荘厳経 巻第十一

 転法輪品 第二十六之一(605b)
 如来が煩悩を捨て、外道や魔軍を破り、十力・四無所畏などを成就した後で、誰に仏法を伝授しようか思惟したところ、以前に瞑想法を習った羅摩之子が良いと考えた。しかし彼は七日前に亡くなっており、また阿羅邏仙人も三日前に世を去っていた。そこで苦行中によく世話をしてくれた五跋陀羅へ法を説くことに決め、彼等が住む迦尸国波羅奈城の鹿野苑へ赴くことにした。ただし五跋陀羅は菩薩が成道以前、苦行に耐えられず堕落したと勘ちがいしており、如来が訪れても敬意を表しないと、頑なに思い込んでいた。しかし実際に、その威容を目の当りにすると歓迎せざるをえず、非礼を懺悔し教えを乞うことにした。
 ここで如来は、初めて法輪を転じ、まず出家における二障から説法する。その二障とは欲望に耽ることと、苦行を求めることであり、正しく修行するためには、この二極端から離れて中道を歩む必要があると教えた。そしてその中道とは、具体的に八正道を意味すると説いた。また、苦諦・苦集諦・苦滅諦・苦滅道諦の四聖諦があり、それぞれの内容を明らかにしている。この四聖諦を発見して如来は成道し、さらに外道が理解できない、無常や縁起の法も覚ることができた。こうして三転十二行法を詳説すると、憍陳如などの五比丘はたちどころに阿羅漢となった。またここで初めて仏・法・僧の三宝も、成就することとなった。
 その時、弥勒菩薩が大衆を代表し、法輪の性質について尋ねた。そこで釈尊は、まず法輪の性質について詳しく述べ、またそれを体現する仏の名称について数多く列挙された。(2003/10/31)

No.0187[cf.186] 方広大荘厳経 巻第十二

 転法輪品 (第二十六)之二(611b)
 如来が五比丘を教化した後、五百人の弟子を持つ高名な優楼頻螺迦葉に説法しようと考えた。彼を尋ねて、わざと毒龍がいる石室に一夜の宿を借り、神通力でこれを調伏した。その他、様々な奇跡を見せたにもかかわらず、頑なに自分の優位性を主張したので、彼を叱責し阿羅漢の資格はないと批判した。そこでようやく迦葉は自らの過ちを認め、弟子と共に仏法へ帰依した。彼の弟であった難提と伽耶も、兄の説得で弟子たちと出家を誓い、合わせて千人に及ぶ初期の教団ができた。
 それから如来は摩伽陀国へ行き、かつての約束通り、頻婆娑羅王へ説法することにした。ここで王と国民たちは迦葉等の姿を見て、誰が師か疑問に思ったので、如来は彼に命じて神通力を現し、仏法に帰依していることを宣言させた。そして如来は王へ、この世の無常や因果応報・縁起の法について詳しく説き、一同は感嘆して五戒を受け仏法へ帰依した。ここで迦蘭陀長者が、教団に精舎がないのを見ると、竹園を寄進している。また、舎利弗が舍婆耆の托鉢している姿を見かけ、その威儀に感動して師は誰か尋ねた。そこで仏の出現を知り、ただちに面会して出家し、教えを受け阿羅漢となった。そして彼は親友の目乾連にも出家を勧め、弟子二百五十人を連れ教団に入った。
 その頃、輸檀王は太子が成道後、すでに六年経ったと聞いて、喜びに堪えず懐かしさのあまり優陀夷へ命じ、帰国を請うことにした。如来も古の誓いを思い出して了解し、出家した優陀夷を使者に立て、帰国の報を知らせた。それから七日後に、弟子を連れ迦毘羅城へ着いた仏は、盛大な歓迎を受けた。またこの時、仏の弟であった難陀や息子の羅睺羅も、仏法に帰依している。(2003/11/3)
 属累品 第二十七(616a)
 そうして以上を総括し、釈尊はこの経典に触れることで得られる功徳を逐一列挙され、最後に弥勒菩薩・大迦葉・阿難へ、その流布と受持を委嘱された。
 この経典の異訳として、『普曜経』(No.0186)などがある。(2003/11/3)




  No.0188 異出菩薩本起経 一巻 聶道真訳(617b)    ⇒【目次】

 釈尊が前世で摩納という名の菩薩だった時、鉢摩訶城へ行くと、仏が来るという話を聞いた。そこで今日こそ自分の願を聴いてもらおうと思っていたところ、倶夷が優鉢華を持って歩いていたので、なんとかそれを分けてもらおうとした。仏が訪れるため城中に花はなく、ふだん二・三銭に過ぎないものを五百銭で買い求めた。これを奇特に思った倶夷が理由を聞くと、献花のためというので、自分の分も与え後生で妻になることを仏へ願ってくれるよう依頼した。菩薩が散華すると、他の華はみな落ちたのに、彼の華だけ仏の頭上に留まった。そこで仏は菩薩の願を知り、九十劫の後、釈迦文仏になると授記した。その後、転生を繰り返し兜率天に生れて、いよいよ最後の生を過ごす国土を選んで、迦維羅衛国に下生した。
 四月八日に母の右脇から生まれると、太子は七歩進んで右手を挙げ「天上天下、尊無過我者」と宣言した。悉達と名づけられた太子には、三十二相が備わっており、常人と思えなかったので、阿夷道人に見てもらったら、成道することを約束された。そこで王は出家を阻むため、国中から妓女を四千人選んで太子に侍らせ、宮殿の門を完全に閉ざした。また太子が生れて七日目に、母が亡くなっている。太子が十歳になり、出遊するため東門から出ると、帝釈天が化けた病人に出会い、人は病から逃れられないと知って、深く憂いに沈んだ。また南門から出ると熱病人に出会い、命が短いことを身に染みて感じた。西門から出ると老人に出会い、誰もが老いさらばえ終には亡くなると思い知った。北門から出ると死人に会い、死という現実を突きつけられ激しく悩んだ。ところで太子が二十歳になると、王の勧めで妃を迎えることになった。前世の因縁で国中の娘から一目で倶夷を選び、即座に成婚する。
 そんなある時、四天王が訪れ出家の時機が到来したことを知らせた。そこで彼等の助けを受け、愛馬を駆り宮殿を出て、山中へ入り修行を始めた。太子の出家を知って倶夷や王は嘆き悲しみ、国中の賢人から五名を選びその子息を侍者として派遣した。太子は深山の樹下で独り坐禅し「今日飢骨筋髄皆枯腐。於此不得仏不起」と念じて瞑想に入った。その夜、第四禅に至り、宿命通・天眼などの神通力を得て、衆生が生死する有様を如実に知り、明方頃ついに得仏する。それから七日間、成道の喜びに浸って坐禅を続けた。そうして悟った教えを、誰に説こうか思い巡らし、かつての侍者だった五人を訪ねて、ただちに帰依させた。その後で、三道人にも説教してその弟子を帰依させ、およそ千人に及ぶ初期教団が出来あがった。
 この短い経典は、他の本生経と大きく内容が異なる。四門出遊の故事で出家者が現れず、外道の師に就き瞑想を修めた故事もなく、魔王の誘惑もない。物語がごく簡潔に展開され、釈尊が成道するまでの、特に重要な出来事のみが描かれている。(2003/11/10)




  No.0189 過去現在因縁経 四巻 求那跋陀羅訳    ⇒【目次】

《参考文献》
 『国訳一切経 印度撰述部32 本縁部四 過去現在因果経 衆許摩訶帝経
  仏所行讃』 常磐大定 寺崎修一 平等通昭 訳 大東出版社 1971(1929) 

No.0189 過去現在因縁経 巻第一(620c)

 釈尊が舎衛国の祇樹給孤独園で比丘たちへ、みずから成道へ至る過去の因縁について説かれた。
 古に善慧という名の仙人がおり、生死輪廻の苦から解脱する法を求めていた。その頃、灯照王に初めて太子が生まれ、三十二相を備え威徳に満ちていた。この普光太子は占師から、転輪聖王か如来になると予言されており、二万九千歳になって王位を捨て出家した。山中に籠もり苦行を修めること六千歳で、とうとう菩提を成じる。それから教化のため、母国へ遊行することになり、父王から国を挙げての歓迎を受けた。
 善慧仙人はこの頃、夜に五夢を見て街へ降りたところ、普光如来が現れたと聞き、感激する。そこで供養のため華を求めようとしたら、王命によって城中の名花は、すべて回収されていた。たまたま通りかかった少女が華を持っていたので、仏へ供養するために五本を五百銭で買いたいと言った。彼に一目惚れした少女は、後生で妻にしてくれるなら、分けてあげると答えた。善慧はしぶしぶ了解し、彼女の願をかけた二本の華と共に、七本をもらい受けた。普光如来が到着して王以下諸大臣が散華し、最後に善慧が華を投じると、彼の華だけが空中に留まった。仏はその願を知り、これから多くの劫を経た後、釈迦牟尼如来になると授記した。しばらくして普光如来が涅槃に入ると、彼は正法を護持しながら二万年も衆生を教化し、命終の後、四天王に転生した。

 善慧菩薩は無数の輪廻を経て功徳を積み、兜率天に生れ一生補処となった。そこで次に最後の生を過ごす国土を観察すると、三千大千世界中、閻浮提・迦毘羅旆兜国が最適で、その白浄王と摩耶夫人も父母として好ましいと分った。菩薩は、すぐに下生する決意をし、諸天に宣言した。
 それから誕生の時節をうかがい、四月八日の明星が出る頃、六牙の白象に乗り母胎へ降りた。その時、夫人も白象が右脇から入る夢を見て、受胎したことを知った。王はこれを聞いて歓喜し、占師に話したところ、転輪聖王が生まれる吉祥と言われた。順調に十月が過ぎ、二月八日になって夫人は、園遊中に無憂樹を見て産気づき、右脇から太子を産み落とした。彼は直ちに七歩進み右手を挙げて、
「我於一切、天人之中、最尊最勝。無量生死、於今尽矣。此生利益、一切人天」
と宣言した。王はこの報告を受けて喜びに堪えず、すぐ婆羅門を呼んで協議させ、太子の名を薩婆悉達とした。

 また王は、子の将来を占ってもらうため、阿私陀仙人を呼ぼうと考えた。仙人もそれを察知し、みずから神通力で飛行し王宮へ現れた。そうして太子の人相を見ると涙を流したので、王が驚き理由を尋ねた。これに答え、不祥な相を見たせいでなく、太子には三十二相が完備しており、二十九歳になると必ず出家し成道する。しかし自分は百二十歳に達しており、その教えを聞くことができないので悲しんだと語った。王は仙人の予言を聞くと、出家を恐れ、三時殿を造って美しく飾り、太子を外へ出さないようにした。
 太子が生れて七日目に摩耶夫人は命終し、菩薩を産んだ功徳により忉利天へ転生した。そこで摩訶波闍波提が乳母となり、太子を実子と変わらず養育した。七歳になり王は太子に学問を始めさせようとして、碩学の跋陀羅尼婆羅門に頼んだ。しかし彼は太子の質問に答えることができず、逆に教えを受けるありさまで、慚愧に堪えず辞退した。
 他の諸技芸・典籍・議論・天文・地理・算数・射御などでも同様であり、太子はみな自然に知り尽くしていた。(2003/11/22)

No.0189 過去現在因果経 巻第二(628b)

 白浄王は太子の射芸なども人民に披露させたいと考え、五百人の若者を集め、競技会を開催することにした。当日、提婆達多や難陀など腕に自信のある者が射的を行ったところ、太子に遠く及ばなかった。後日、太子は王の許しを受け、農園へ出遊した。閻浮樹下で百姓の営みを見ながら瞑想し、第四禅の境地に至った。
 太子が十七歳になった時、王は群臣と諮り妃を迎えることにした。才色兼備の名が高い耶輸陀羅が候補に挙がり、婚礼の儀を調えた。しかし太子は彼女と生活を共にしながら、夫婦の交わりをもとうとせず、王は息子の不能を疑うほどだった。

 その頃、太子は王に許され国内を出遊することになり、まず王宮の東門から街へ入った。この時、浄居天が老人の姿になり、太子の前へ現れた。そこで従者にこれは何者かと尋ねたら、老人であり誰も老いを免れないと聞いて、ひどく苦悩した。次に太子が南門から出ると浄居天が化けた病人に出会い、人は病から逃れられないと知り深く憂えた。
 また太子が西門から出た時、浄居天はここで死人に化けると、管理の不備を問われて、担当者が厳罰に処せられると考え、太子と友人の優陀夷だけが見えるように計画して現れた。そうして死人を目撃した太子は、死が回避できない人生を哀れみ、深刻な不安に襲われた。最後に太子が北門から出た時、浄居天が化けた比丘と出会い、煩悩を断ち解脱を求めていると聞いて歓喜し、自らの進路を決めた。

 太子は十九歳になって、出家の時機が到来したことを知り、許可を願いに出た。しかし父王はこれを聞いてひどく嘆き、許しがもらえそうもなかった。父が聞き入れてくれないのは、嫡子がいないからだと考え、太子はすぐ左手で妃の腹を指すと、ただちに妊娠した。
 後夜に至り、諸天がこぞって出家を勧めるので、あたりを見回したところ、宮中の誰もが眠り呆けており、太子の外出に気づく者がいなかった。そこで決意して車匿を呼び、愛馬の揵陟を牽かせ城門から出た。この時もし自分が成道できないなら、二度と生きて父王に会わないと誓願を立てている。そうして跋伽仙人の苦行林に到着すると揵陟から下馬し、宝冠などを添え家族への伝言を託して、車匿を城中へ帰した。
 その頃ようやく夜が明け、耶輸陀羅は太子がいないことに気づき、号泣して宮中が大騒ぎになった。王も報告を受けて驚愕し、なすすべもない状態だったところへ、車匿が独りで揵陟を連れ帰って来た。皆が取り囲み問い質したので、彼は一連の経緯を詳しく述べ、これらは天意であり、人力で抗うことなどできなかった、と釈明した。(2003/11/30)

No.0189 過去現在因果経 巻第三(636b)

 太子の出家後、大臣たちが軍勢を率い連れ戻すため跋伽仙人を訪れると、すでにここを辞し、阿羅邏・迦蘭仙人を訪ねて行ったところだった。彼等が跡を追うと、途中の樹下で太子が瞑想しているのを見つけた。そこで言葉を尽して説得したにもかかわらず、太子は決意を翻そうとしなかった。ようやく大臣も連れて帰ることをあきらめ、代わりに五人の従者を付けて太子を守ることにした。
 それから道中で王舎城へ入り、頻毘娑羅王の訪問を受けた。ここで太子の人格にうたれた王から、国を譲るとまで言われたのに、少しも心を動かされず、世の苦しみを断つため、求道する決意を告げた。これを聴いて、王はますます感動し、成道後は必ず教えを授けてくれるよう、懇願して別れた。

 阿羅邏仙人を訪問した太子は、さっそく苦を断つ方法について質問した。仙人は戒律を守り、禅定を修め、第四禅の境地を経てから、非想非非想処へ至れば解脱できると説いた。しかしその説明に満足しなかった太子は、非想非非想処が有我か無我か質したら、仙人は答えることができなかった。次に迦蘭仙人を訪ねても、同様な答えしか返ってこなかった。ここでは非想非非想処の境地とその難点について、詳しく述べられている。
 そこで太子は、自ら求道のため苦行に入る決心をする。五人の従者と尼連禅河のほとりで戒律を守り、一日に一麻一米しか食べず、六年の苦行を修めた。しかし、どうしても解脱が得られなかったので、ついに苦行を捨て閻浮樹下で瞑想しなおすことにした。この時、牛飼の娘・難陀波羅が、浄居天の勧めで乳糜を捧げたので、これを食べると体力・気力が充実した。

 菩薩(太子)は、それから畢波羅樹下へ行き、
「坐彼樹下。我道不成。要終不起」
と宣言し、結跏趺坐して深い瞑想に入った。
 この時、第六天魔王は沙門瞿曇が成道すれば、魔界が壊滅しかねないとひどく憂えた。そこで自ら宮殿を出て、菩薩の前に立ち、弓を射て座禅の妨害をした。しかし矢は途中で止まったり、蓮華に変わったりして、なんの役にも立たなかった。次に魔王の三女が、その美貌で菩薩を誘惑すると、却って説教を受け、老婆に変えられてしまった。
 最後に魔王は軍勢を呼び出し、取り囲んで脅迫したにもかかわらず、菩薩はこれを児戯に等しく見なして、武器を無力化し、傷ひとつ付けられなかった。そこでようやく魔王も屈服して、慙愧しつつ魔宮へ帰って行った。
 このように菩薩が降魔した夜、天眼を得、一切衆生が輪廻する有様を如実に知ることができた。そうして第三夜に至って十二因縁の法を覚り、夜明と共に無明を破り、一切種智を成じて、大悟するに至った。

 その時、如来は八正聖道を思惟し、これが三世諸仏の涅槃へ至る路であると確信した。それから七日間、瞑想を続けて、いま悟った法がひどく難解で、衆生へ説いても理解されないから、このまま黙っていようと考えた。大梵天王が如来の心を察知して、憂いを懐き、天宮から降りて来ると、衆生のため法輪を転じてくれるよう懇願した。
 再三の要請でようやく翻意した如来は、誰にまず法を説こうか考えた末、かつての従者だった五人が適当と結論した。そこで座を立ち、婆羅櫞国の鹿野苑へ向うことにした。
 途中で商人たちと出会い、食物の供養を受けて、仏・法・僧への三帰依を許した。また七日間風雨に遭った際は、龍王が身を挺して守ってくれた。

 そうこうして鹿野苑へ着いたところ、はじめ五人は歓迎しないでおこうと申し合わせたにもかかわらず、如来の威容にうたれ、そそくさと迎え入れた。
 それから懇ろに中道について説教されると、以前の頑なな心を捨て去り、歓喜して聴き入った。次に四聖諦十二行法について述べると、まず憍陳如が法眼浄を得た。残りの四人も道跡を得て、出家を望んだので、これを許可した。さらに五人に対し、五陰が空である真理を説くと、彼らはたちどころに理解して阿羅漢となった。
 この時、初めて僧宝が成じ、仏宝・法宝と共に三宝が具足した。(2003/12/8)

No.0189 過去現在因果経 巻第四(645a)

 その時、長者の子・耶舎が出離の念を起こし問法に来たので、如来は無常などの真理を説いたところ、ただちに悟り阿羅漢となった。そのまま彼は出家したため、父が行方を探しに訪れた。そこで如来は長者にも法を説くと、感激して三自帰を受けた。
 こうして彼は、最初の優婆塞となり、三宝を供養した。

 ところで釈尊は広く衆生へ教えを広めるため、摩竭提国の優楼頻螺迦葉三兄弟に説法する決心をされた。そうして彼の居所を訪ね、制止を聞かず毒龍のいる石室へ一宿した。その夜、釈尊はなんなく毒龍を調伏し、持鉢の中に入れて迦葉へ示した。彼は驚嘆しつつも慢心を捨てきれず、弟子たちへ、
「年少沙門、雖復神通、然故不如、我道真也」
と語った。その夜、四天王たちが聴聞のため降臨し、辺りが真昼のように明るくなった。
 このように幾つも奇跡を見せる内、迦葉の機縁も熟してきたので、そろそろ釈尊が調伏しようと考えられた時、すかさず魔王がやって来た。そしてなぜ成道したのに涅槃へ入らないか質したので、比丘・比丘尼・優婆塞・優陀夷の四部衆が、まだ具足していないからと答えられた。これを聴いた魔王はなすすべもなく、懊悩しながら魔宮へ帰って行った。
 迦葉が依然として、自分は阿羅漢であるとうぬぼれていたので、釈尊は彼の心を見ぬき、その傲慢さを批判した。内心に思っていたことを知られ、迦葉は総毛立ち、畏れを懐いてようやく釈尊へ帰依した。それから四諦について教えられ、真の阿羅漢となった。ここで五百人の弟子も、迦葉に従い出家している。
 また優楼頻螺迦葉には那提迦葉・伽耶迦葉の二弟がおり、各々二百五十人の弟子を率いていた。彼らは兄が釈尊に帰依したと聞いて驚き、その理由を尋ねたところ、生死の苦を断つ法は、如来しか知らないためであると教えられ、自分たちも帰依することにした。ここで彼等が擁していた五百人の弟子も、同時に出家した。

 その時、釈尊は頻毘娑羅王が成道したら、自分も救済してほしいと言っていたのを思い出され、千人の弟子を連れ王舎城へ赴いた。
 人々は僧団の中に優楼頻螺迦葉がいるのを見て、どちらが弟子か疑問に思った。これを察知した釈尊は、迦葉へ命じ神通力を現した上で、自分が弟子であると表明させた。そこで大衆がもう疑わず心が熟したのを見て、釈尊は五陰が無常であることや、諸法が無我であること、苦の生滅などについて説法された。
 彼等は直ちに法眼浄を得て仏法へ帰依し、王も竹園を寄進して僧団の供養を約束した。

 その頃、舎利弗は路上で乞食中の阿捨婆耆に出会うと、その威儀を見て感激し、誰が師で何を教えているか尋ねた。そこで阿捨婆耆は、如来の弟子となってまだ日が浅く、
「一切諸法本 因縁生無主 若能解此者 則得真実道」
という偈のみを示したところ、舎利弗はたちどころに法眼浄を得た。そこで阿捨婆耆と別れ居所へ帰ると、目揵連が舎利弗の輝く顔色を見て、何か悟ったに違いないと思い、教えを乞うことにした。舎利弗の話を聴いた目揵連もたちどころに悟り、二人で二百人の弟子を連れ、出家するために竹園を訪ねた。
 釈尊は彼等を歓迎して、舎利弗は智慧第一・目揵連は神通第一であり、二人は僧団の中で上弟子になると説かれた。
 また、偸羅厥叉国の迦葉婆羅門が、巨大な富に恵まれながら在家の生活に満足できず、出家したいと願っていた。その時、彼のもとへ諸天が訪れ、釈尊が成道し王舎城の竹園で、僧団を擁していると教えた。迦葉はこれを聞いて歓喜勇躍すると、ただちに釈尊を訪ねて帰依し、仏法を授けられ阿羅漢となった。

 最後に釈尊は比丘たちへ、過去世における善慧仙人とは自分のことであり、無量の劫を経て善業を修めたので、大願を発し成道することができたと教えられた。
 この経典では、物語の各場面が、前後の脈絡を計算しつつ細かく補筆されており、今日周知の仏伝に近い説話で構成されている。(2003/12/18)




  No.0190 仏本行集経 六十巻 闍那崛多訳    ⇒【目次】

《参考文献》
 『国訳一切経 印度撰述部29・30 本縁部一・二 雑宝蔵経 仏本行集経上』
  岡教邃 常磐大定 美濃晃順 訳 大東出版社1971(1931)

No.0190 仏本行集経 巻第一

 発心供養品 第一[上](655a)
 釈尊が王舎城の迦蘭陀鳥竹林にいた時、目揵連が托鉢の前に天上へ行き、諸天から過去に無量の仏が出現していたと聞いて驚愕した。そこで釈尊に尋ねたところ、自分が過去世で転輪聖王だった時、無数の仏に供養しながらも授記されなかった故事を説かれた。ここで善思仏の時、弥勒菩薩が最初に発心し、四十余劫を経て釈尊も発心した、とされている。また菩薩の四種性行(自性・願性・順性・転性)にも言及している。
 それから釈尊が舎衛国の祇樹給孤独園で、七日間入定した後、阿難へ無量劫において、過去の諸仏が一菩薩へ授記した系譜を逐一説かれた。(2003/12/28)

No.0190 仏本行集経 巻第二

 発心供養品 [第一]中(658c)
 ひき続き釈尊が阿難へ、過去仏の系譜を終りまで列挙された後、過去世で善見が転輪聖王であった頃の、宝体如来について説かれた。
 ある時、善見王の閻浮檀城外に住む村人が、結婚のため城中へ入ると、あまりきれいに掃除されていたので驚き、住人へそのわけを聞いた。すると、宝体如来が入城する準備のためと言うので、会いに行き、まず自分に声をかけてくれるよう願った。如来はその心を知り、願いを叶えたので、彼は歓喜して一行に施食することを申し出た。食事が終り、如来が説法したところ、彼は仏を恭敬する心が篤く、ただちに出家し比丘となった。その後しばらくして宝体如来が入滅しても、道心は揺るがず、戒律を護持し仏を供養していたので、死後も永く悪趣へ落ちることがなかった。その比丘は無量の劫を経て、また能作光明如来に会い、将来は然灯仏になると授記された。
 然灯仏は菩薩として兜率天から下生し、産まれる時に大光明を発しつつ、自然に合掌していた。端正な容貌で、まだ子供の頃から出離の心が篤く、大きくなると出家し正覚を成じた。そうして衆生のため、布施・持戒・離欲・漏盡法・出家功徳や、四諦法等について具に説法した。(2003/12/30)

No.0190 仏本行集経 巻第三

 発心供養品 [第一]下(663b)
 釈尊が舎衛城で阿難の問に答え、過去世でどの仏へどんな供養をして来たか詳しく教えられた。過去仏の名前を逐一列挙した後、降怨王の時、日主婆羅門に然灯菩薩が産まれ、出家成道した故事として「然灯菩薩本行経」が説かれている。
 日主婆羅門は降怨王から国を半分譲られ、国王として善政を布いていた。然灯菩薩は誕生後、転輪聖王の道を選ばずに出家し、正覚を得て衆生へ説法していた。その噂が降怨王まで届くと、なんとか仏に会って供養したいと切望し、日主王へ招請の使者を派遣して来た。そこで悩んだ日主王が直接どう応えるべきか尋ねたところ、然灯仏は他国へ遊行し、衆生を教化する意志を告げた。(2004/1/4)
 受決定記品 第二上(665a)
 その時、雪山の南面に珍宝梵志(弥勒菩薩の前身)が住んでおり、五百人の弟子の中、雲童子が最も優れていた。彼は十六歳で師から学ぶものがなくなり、これまでの学恩に報いるため財宝を得ようとして、輸羅波奢城・祭祀徳婆羅門の無遮会を訪ねた。そこで上座の婆羅門を論破し、多くの財宝をもらった。この雲童子とは釈尊の前身で、敗れた婆羅門が提婆達多の前身であり、彼は怨みを結んで以後転生するたびに釈尊を妨害している。
 それから蓮華城に行くと、城内が美しく荘厳されている様に驚き、住人へ理由を尋ねた。すると然灯仏が教化に訪れると言うので歓喜し、先に仏へ成道を願った後、師恩に報じることにした。そこで供養のため華を買おうとしたところ、王命で誰も売ってくれなかった。しかしある少女が、ひそかに持っていた優鉢羅華を見つけ、五百金銭で購おうと申し出た。それでもなかなか売ってもらえず、後世で妻にする約束をして、ようやく五本の華を入手した。これをさっそく然灯仏へ散華すると、願いが通じて華は空中に留まり、華蓋に変じて仏を飾った。 (2004/1/8)

No.0190 仏本行集経 巻第四

 受決定記品 [第二]下(667c)
 然灯如来は雲童子(釈尊)の心を察知して、泥上に投地した身髪を踏んで渡り、左右の比丘たちへその由来を説いた。それからこの童子が、身命をかけて仏を供養した因縁で、無数の劫を経て釈迦牟尼仏になる、と授記した。以後、釈尊は菩薩行を怠ることなく、梵天・帝釈天や転輪聖王など輪廻転生をくり返し、善根を積んだおかげで、いま成道し法輪を転じることができた、と説かれた。然灯仏の故事は、以上の通りであった。
 それから釈尊は阿難へ、十万劫前の蓮花上仏へ金華を散華したことなど、過去の諸仏へ様々に供養し授記された故事を説かれた。その中には、釈尊と全く同じ名前と父母を持つ仏もいたという。また、弥勒菩薩や多数の過去仏を供養した事績にも言及している。最後に然灯仏は没後七万歳で末法の世が訪れ、自分は正法・像法が各五百歳であるとされている。(2004/1/11)
 賢劫王種品 第三上(672a)
 釈尊が王舎城で比丘たちへ、現在の賢劫において、大地ができ上がってから最初の王である衆集置が現れ、その子孫が転輪聖王として天下に君臨した系譜を、逐一列挙された。(2004/1/14)

No.0190 仏本行集経 巻第五

 賢劫王種品 [第三]下(672c)
 釈尊はひき続いて、大転輪聖王の治下、代々褒多那城に住した小転輪聖王の系譜を列挙し、さらにその治下の粟散諸王にも言及された。こうした系譜の最後に現れた大茅草王には子がなく、白髪が生じた時、諸臣に譲位して出家し仙人となった。彼は山中で弟子たちと住んでいたところ、誤射されて亡くなり、流した血で甘薯が二本生じ、その実から一男一女が産まれた。
 この童子は出生の因縁で善生・甘薯生・日種と名づけられ、童女は善賢・水波と名づけられた。幼少の頃に彼は灌頂を受け、諸臣より王位を継承した。それから王は第二妃に四子をもうけたのに、善賢妃には長寿一子しかいなかった。そこで彼女は、王が自分に執心であることを利用し、長寿を王位に就かせ、四子を国外に追放する約束をさせた。四子はやむなく母や眷属たちと共に北へ向って出国し、雪山の麓で良い土地を見つけ、定住することにした。ここで父王の命に従い、他の種族と通婚せず、甘薯種の血を守り釈迦族と号した。迦毘羅仙人の居所にちなんだという迦毘羅婆蘇都城を建設し、代々善政を布いた。
 時代が下り師子頬王が現れ、四子の内から長子の閲頭檀(浄飯)を王位に就けた。彼は自国の大富豪であった善覚の八女から、長女の為意と八女の大慧(波闍波提)を妃に迎え、あい睦みあって善く国を治めていた。(2004/1/20)
 上託兜率品 第四上(676b)
 護明菩薩は迦葉仏の下で修行し、命終後に兜率天へ往生した。ここで一生補処の菩薩として、諸天をはじめ衆生の教化に努めていた。そうこうする内に天寿が満ち、自然に天人の五衰が現れた。これを見た諸天が嘆き悲しむ中、菩薩は平静を保ち、彼等へ優しい声で、これから人間に下生すると宣言した。(2004/1/21)

No.0190 仏本行集経 巻第六

 上託兜率品 [第四]下(677c)
 それから護明菩薩は、かつて閻浮提へ度々行ったことのある金団天子に、どの国の王族が下生するにふさわしいか意見を求めた。彼が摩伽陀国などいくつかの種族を紹介しても、菩薩は納得せず、苦心して最後に迦毘羅婆蘇都の釈迦族を挙げると、ようやく同意を得た。ここで、一生補処の菩薩が誕生する家の持つ六十種の功徳と、母が備える三十二相について、逐一列挙されている。そうして菩薩は、今回の転生が自分の快楽を求めるためでなく、衆生の苦悩を哀れんでのことであると宣言した。
 護明菩薩の下生を知った諸天がひどく悲しむので、彼等のため世の無常を説き、さらに百八の法明門を挙げて受持するよう教示した。(2004/1/25)

No.0190 仏本行集経 巻第七

 俯降王宮品 第五(682b)
 護明菩薩は、早春になって木々が華を咲かせた頃、心を定めて兜率天から下り、摩耶夫人の右脇より受胎した。その時、全世界が光明に照らされ、大地も六種十八相の振動を起した。また受胎の夜に、夫人は六牙の白象が右脇から入る夢を見て、翌朝すぐ浄飯王へ告げ、夢占いを頼んだ。そこで占夢婆羅門は、この夢が聖人の産まれる瑞祥であると答えると、王はひどく喜んだ。
 ところで阿私陀仙人も山中で大光明を目撃し、大聖が産まれたことを知って歓喜した。また帝釈天や四天王は生誕後、菩薩を守護すると誓った。さらにここでは、菩薩の受胎で母親に現れた瑞相を、逐一列挙している。(2004/1/30)
 樹下誕生品 第六上(685b)
 摩耶夫人の懐妊から十月が過ぎようとした頃、善覚長者は出産の便宜を考えて、娘を実家に迎えたいと王へ願い出た。それが快諾され夫人が帰省することになったので、長者は妻の意見を聞き、娘が安らかに過ごせるよう、園林を造ることにした。この園林は妻の名にちなんで嵐毘尼園と名づけられた。
 早春の二月八日になり、長者は夫人を連れて嵐毘尼園へ園遊に出かけた。そこで菩薩は時機を窺い、母親が波羅叉樹の枝を取ろうと手を挙げた瞬間、ただちに右脇より大光明を放ちながら産まれ落ちた。この時に種々の奇瑞が現れ、摩耶夫人は全く苦痛を感じず、身体に少しの傷もなく元のままだった。また菩薩は、産後すぐに母親の右脇を仰いで、これが最後の人生であり、今後再び受胎することはない、と宣言した。(2004/1/31)

No.0190 仏本行集経 巻第八

 樹下誕生品 [第六]下(687b)
 菩薩は誕生後、誰の助けも借りずに、四方へそれぞれ七歩進み、
「世間之中。我為最勝。我従今日。生分已尽」
と宣言した。また同時に大光明を放つなど種々の瑞相が現れ、一切の衆生は一時的に苦痛を癒され、悪心も懐かなかった。(2004/2/3)
 従園還城品 第七上(688b)
 その時、婆私姙大臣は婆羅門たちと共に嵐毘尼園へ向ったところ、門外に出て来た侍女から、端正な童子が誕生したとの一報を受けた。彼は、ただちに馬を駆って迦毘羅城へ行き、力の限り歓喜の鼓を打ち鳴らした。これを聞いた浄飯王が、大臣を召してその理由を質すと、夫人が無事に出産したとのことだったので、すぐ諸臣を連れ菩薩を迎えに行くことにした。
 王は嵐毘尼園に到着すると、使者を遣って夫人へ慶びの言葉を伝え、また太子に会う旨を告げた。そこで侍女が菩薩を抱いて、まず国師の婆羅門へ拝礼してから、王と面会した。この時、婆羅門は王を祝して、この子は必ず転輪聖王になると予言した。それから王は太子を迎える手筈について考え、居城の修理と清掃を命じた。いよいよ嵐毘尼園から迦毘羅城へ入ると、まず王は太子を天祠に礼拝させた。命を受けた乳母が、菩薩を抱いて御堂へ入ったところ、祀られていた女神が向こうから拝跪し、逆に合掌礼拝した。(2004/2/6)

No.0190 仏本行集経 巻第九

 従園還城品 [第七]下(692a)
 菩薩が迦毘羅城へ入ると、五百人の大臣が各々精舎を造って門前に立ち、来駕を待ちわびていた。浄飯王は彼等を憐れみ、各精舎を巡って、ようやく王宮へ戻った。それから王は、太子にどのような名前がふさわしいか考えた末 、「成利」(悉達多)と名付けることにした。(2004/2/8)
 相師占看品 第八上(692c)
 浄飯王は相師婆羅門たちを呼んで、太子の人相を占わせることにした。すると彼らは、太子に三十二相が具わっており、在家で居れば転輪聖王となり、出家すれば如来になると答えた。
 ところで菩薩が出生した際に、大光明を発し大地が六種震動したので、これを見た諸天は歓喜勇躍していた。その時、三十三天上にいた阿私陀仙人は、諸天が喜ぶ理由を尋ねたところ、浄飯王の夫人が産んだ子は三十二相を具備しており、正覚を得て無上の法輪を転じることに決まっているからという。そこで仙人はすぐに天上を降り、迦毘羅城へ行って浄飯王に見えた。王から歓迎を受けた仙人は、さっそく太子に面会することを願った。
 摩耶夫人が太子を抱いて、仙人に礼拝させるため頭を向けると、逆に仙人の方がその足に頂礼した。それから童子を両手で戴き、膝に置いてよく観察した。阿私陀仙人はひと通り見終わると、自分は年老いており、この子の出家を見届けることができない、と嘆いた。王はこれを聞くと驚いて、太子は転輪聖王になる筈でないのか、と問い質した。しかし仙人は、決して転輪聖王の相でなく、三十二相の他にも八十随形がはっきり具わっており、如来となる者であると断じて、その相好を逐一列挙した。(2004/2/11)

No.0190 仏本行集経 巻第十

 相師占看品 [第八]下(696c)
 阿私陀仙人は、三十二相が具わりさらに八十種好を有する者は、必ず正覚を成じ無上の法輪を転ずる、と断言した。それから仙人は自身をふり返ると、この年齢ではとてもその教えに接することができないと思い、満面の涙を流して悲嘆にくれた。これを見た浄飯王等も不安にかられて泣き出したので、仙人は自分の薄幸を嘆いただけであり、この子に不吉な相が見えるわけではないと諭した。(2004/2/14)
 私陀問瑞品 第九(698a)
 阿私陀仙人は、童子が母胎にいたとき現れた瑞相を、みな教えて欲しいと願った。そこで浄飯王は、受胎のとき夫人の夢に白象が現れたこと、母親の右脇より光明を放ちながら誕生したこと、相師婆羅門が予言したことなどをすべて語った。
 仙人はこれらを聞いて歓喜しつつ、王宮を辞した。それから侍者の那羅陀童子へ、今に仏が出現するので、その近辺に従事すれば大利が得られると遺言した。しかし結局、彼は仙人の莫大な遺産で放逸に暮らし、修行になど留意しなかった。また、仙人の予言を聞いた国師婆羅門等は、逆に太子を引き止めるため、その欲望を煽るように進言した。(2004/2/18)

No.0190 仏本行集経 巻第十一

 姨母養育品 第十(701a)
 太子の誕生後に七日が過ぎると、摩耶夫人は体力が衰えて、臨終を迎え忉利天へ転生した。そこで浄飯王はただちに親族を集め、誰が乳母にふさわしいか諮った。長老たちは皆、摩訶波闍波提をおいて他に適任者がいないと推挙したので、すぐに王は太子を彼女へあずけることにした。この頃は太子の威徳が国中に及び、王は心穏やかであり、天候も良く穀物は実り、疫病もなかったという。(2004/2/20)
 習学技芸品 第十一(703b)
 浄飯王は太子が八歳になったので、諸臣と諮り、毘奢婆蜜多羅大師に就学させることにした。そこで太子は初日に彼へ書板を示し、六十四種の梵書中、どれを教えるつもりかと質した。毘奢婆蜜多羅はそれらについてよく知らず、慢心を挫かれ、ただ慚愧するばかりだった。
 また王は太子へ、二十九種に及ぶ武芸や兵法を、忍天に就いて学ばせようとした。しかし太子は、それらに用いる武器をみな熟知しており、教えられることなどなにもなかった。(2004/2/23)

No.0190 仏本行集経 巻第十二

 遊戯観矚品 第十二(705b)
 太子は王宮で八歳から学芸を学び、四年を経て十二歳の頃には、あらゆる分野に精通していた。そんなある時、浄飯王は一族の童子を連れて野外へ遊びに出かけた。そこで太子は、汗水流し農耕する人や牛の姿を見て、大慈悲心が起り、このような衆生の生病老死にまつわる苦から解脱する方法はないかと考え、樹下で瞑想した。その際、太子は初禅に至り、上空を飛行していた仙人たちが通過できなくなるほどだった。(2004/2/28)
 捔術争婚品 第十三上(707a)
 太子が十九歳になると、浄飯王は冬・夏・春秋用の三時殿を建設して与え、多くの侍者を付けた。また王は親族を呼んで太子の妃に誰がふさわしいか諮り、釈迦族の娘を悉く集めて、太子から宝物を授け、その際のやり取りを見て妃の候補を捜すことにした。この時、御触れを聞いて集まった娘たちに宝物を与えていたところ、最後に訪れた耶輸陀羅は太子と目が合っても物怖じせず、まるで旧知のようだった。そこで王は彼女を妃に迎えるため、摩訶那摩大臣の家へ国師を派遣すると、父親は釈迦族の法に従い、誰より優れた技能を持つ者に娘を与えると言って、この婚姻に応じなかった。
 それを聞いた太子が、自分の力量を披露しても良いと言うので、王はすぐ七日後に諸芸の競技会を開くという御触れを出した。当日、大臣は壇上から、勝利者に娘を与えると宣言した。競技会は書写・算術から始まり、太子に勝る者は誰もおらず、審査役の大師すらその学識に遠く及ばなかった。(2004/3/3)

No.0190 仏本行集経 巻第十三

 捔術争婚品 [第十三]下(710a)
 次に武術を試すことになり、まず射的を競ったところ、太子に及ぶ者は誰もいなかった。それから利剣で木を切る技、象に乗る技などを競い、最後に相撲も行った。どの競技でも敵う者はおらず、太子を一族全員が褒め称えた。
 そこで摩訶那摩大臣は、太子の能力を疑った非礼に懺悔して、どうか娘を貰ってくれるよう懇願した。これを承諾して太子は良日を選び、大王の威儀で耶輸陀羅を迎えるため、家臣を派遣した。後日この話を聞いた優陀夷は、なぜ技芸で妃を貰うことになったか疑問に思ったので、釈尊はその因縁を説かれた。(2004/3/12)
 常飾納妃品 第十四上(713c)
 その頃、檀荼波尼大臣に瞿多弥という娘がいて、幼少よりその端正な容貌が国色とされていた。これを聞いた浄飯王は大臣へ、彼女を太子の妃にしたいと申し出た。ところが同時に、難陀の父と提婆達多も強く結婚を迫ってきた。父の苦悩を知った瞿多弥は、自分に考えがあり自ら夫を選ぶと進言した。そこで大臣は街頭で、彼女の求婚者は七日後に集るよう御触れを出した。当日、釈迦族の青年が五百人集り、各々体を清め精いっぱい着飾っていたのに、太子だけが平服のままだった。これを見た瞿多弥は、着飾るなど婦女の振舞であり、彼だけが内から滲み出る威光で男児らしく、ぜひ自分の夫にしたいと言った。五百人は面目を失い、慙愧しながら四散し、太子はすぐ彼女に宝物を贈り、宮中へ連れ帰った。(2004/3/13)

No.0190 仏本行集経 巻第十四

 常飾納妃品 [第十四]下(715a)
 成道後に優陀夷が、なぜ瞿多弥は迷わず太子を夫に選んだか疑問に思ったので、釈尊はその因縁を説かれた。ところで浄飯王は太子のため三等宮を建設し、第一宮に耶輸陀羅、第二宮に摩奴陀羅、第三宮に瞿多弥を住まわせ、多くの侍女も配した。また王は阿私陀仙人の予言を恐れ、さらに宮殿を造営して歓楽を極め、太子が外遊しないようにしむけた。(2004/3/14)
 空声勧厭品 第十五(716b)
 その時、作瓶天子は太子が宮中で歓楽に耽る有様を見ると、人生は短く速やかに出家すべきであると考え、夜半に空中から偈を説いた。また、太子の善根や福徳の力により、宮中において妓女等が奏でる楽曲も、涅槃を語り出家を促す歌曲に変化した。(2004/3/15)
 出逢老人品 第十六(719c)
 また作瓶天子は外遊へ誘おうと考え、宮中の侍女たちに歌わせて、園林の美しさを讃嘆させた。そこで太子が御者に出駕を命じると、彼の報告を受けて浄飯王は、すぐ城内を清掃し荘厳する命令を出した。
 それから太子が東門より出遊すると、天子は老人に化け道端で佇んでいた。太子はその老いさらばえた姿を見て驚き、御者へこれは何者かと質した。御者は、老人であり、誰もがこのようになることを免れ得ないと答えたので、太子は園林へ遊ぶことを止め、宮中へ帰って思索に耽った。これを聞いた王は、阿私陀仙人の予言が脳裏から離れず、出家を阻むためますます太子に歓楽を勧めた。(2004/3/16)

No.0190 仏本行集経 巻第十五

 浄飯王夢品 第十七(721a)
 また作瓶天子は、神通力で浄飯王に七夢を見せた。宮中では誰もこれを解く者がいなかったので、天子は婆羅門に変身して現れると、七夢すべて太子の出家を予言するものである、と説き明かした。これを聞いた王は、ますます太子が愛欲に耽るよう仕向けた。
(2004/3/19)
 道見病人品 第十八(722a)
 作瓶天子の神通力により、また太子は外遊したいと考え、御者に出駕を命じた。太子が南門から出遊すると、天子は病人に変身して現れたので、これは何者かと尋ねたところ、御者は病人であり、誰も病を免れることはできないと答えた。これを聞いた太子はひどく嘆いて、外遊を止め宮中で思索に耽った。浄飯王はこの顚末を知って、ますます出家を恐れ、太子に歓楽を勧めた。(2004/3/20)
 路逢死屍品 第十九(723a)
 作瓶天子の力により、また太子は外遊したいと考えた。そこで西門から出遊すると、天子が死人に変身して現れたのを見て、太子は何者かと尋ねたら、御者が死人であり、衆生の誰もが死を免れないと答えた。これを聞いた太子はひどく悲しみ、外遊を止め宮中で思索に耽った。この顚末を聞いて浄飯王は、ますます太子の出家を恐れた。(2004/3/21)
 耶輸陀羅夢品 第二十上(723c)
 作瓶天子がまた外遊したいと思わせたせいで、太子は御者に命じ、北門から出駕することにした。そこで天子は出家者に変身して現れると、太子が何者かと尋ねたので、御者は出家者であり、常に善行を修め悪行から離れ、自身を律していると答えた。関心を惹かれた太子は、出家者へ直接その行いについて質問した。彼が世は無常であり、解脱を求めて家から出たことを告げると、太子は感動して大いに褒め称えた。それからすぐ宮殿に帰り、執務中の浄飯王に面会すると、太子はいきなり出家したいと申し出た。王は驚愕し、涙を流して息子をなだめ、出家を思い止まらせた。その後、御者に外遊の顚末を報告させると、ますます王は出家を恐れ、太子が歓楽に耽るようしむけた。(2004/3/22)

No.0190 仏本行集経 巻第十六

 耶輸陀羅夢品 [第二十]下(725c)
 その時、国師の子・優陀夷が賢いと評判であり、浄飯王は侍者として招き、太子の出家を阻んで欲しいと依頼した。彼が宮中へ来たところ、太子が沈思しているのを見て、侍女たちも黙然としているだけだった。そこで彼女たちを鼓舞して、太子を誘惑させた。しかし太子は関心を示さなかったので、今度は議論により太子を諌めて歓楽させようとした。
 その夜、耶輸陀羅は二十種の悪夢を見て目覚め、太子にその内容を語った。これを聞いた太子は、出家の時機が訪れたと思いつつ、彼女をなだめ一緒に寝ることにした。そうして太子も五夢を見た。(2004/3/26)
 捨宮出家品 第二十一上(728b)
 その夜、諸天が迦毘羅城に降りて来て、城中の人々を昏睡させ、また法行天子は宮女たちの衣服をわざと乱した。太子は彼女らの醜い寝姿を見て幻滅し、いよいよ世の無常について思索を深めた。作瓶天子が夜半に訪れ出家を促したので、太子はとうとう決意し、
「此是我身。最後受於。五欲之処。従今已後。当更不受」
と宣言した。そうして車匿を呼び、愛馬・乾陟を連れてくるよう命じた。(2004/3/27)

No.0190 仏本行集経 巻第十七

 捨宮出家品 [第二十一]下(730b)
 車匿は太子の出家を察知し、他の者を起そうと思い、わざと大声で今時なぜ馬が要るのかと尋ねた。そしてやはり城から出るためと知り、どうして転輪聖王となる身を捨てるのかと諫めた。これに太子は、どのような悦楽も、生死の無常から免れ得ないからであると答え、速やかに馬王・乾陟を連れてくるよう命じた。車匿はその決心が固いことを知り、父王の禁制を破り乾陟を牽き出した。そこで太子は、
「此我最後。在家乗也。我従今去。更不復乗。如是之乗」
と宣言して、さっそく乾陟に跨り、出家の第一歩を進めた。
 その時、諸天の加護で宮城の重門が音もなく自然に開くと、太子は門外に佇み、
「若我未得。随心願求。度脱衆生。於生死海。我終不入。迦毘羅城」
と獅子吼した。これを聞いた諸天は随喜して、太子に礼拝し、その行く道を照らし出した。
 その頃、ようやく宮女は太子の姿が見えないと騒ぎはじめ、耶輸陀羅も独りで寝ていることに気付き、大声で嘆いた。またその報告を聞いた浄飯王はいきなり絶句して卒倒し、しばらくして回復すると将兵を呼び、直ちに太子の行方を捜させた。しかし諸天の加護により、太子はついに発見されなかった。(2004/3/31)
 剃髮染衣品 第二十二上(733b)
 日の出の頃、跋伽婆仙人の居処といわれる山林に到着すると、太子は馬から降りて、
「此今是我。最後所乗。所下処也」
と宣言した。そして車匿をねぎらって、解脱を求めるためこれから山林へ入り出家するので、このことを王宮へ帰って報告するよう頼んだ。しかし車匿は、まだ太子が出家する時機でなく、予言通り転輪聖王になるべきであると諫めた。これを聞いた太子は叱責して、阿私陀仙人が成道を授記した秘事を知っていると言ったので、車匿は驚き説得を諦めた。(2004/4/2)

No.0190 仏本行集経 巻第十八

 剃髮染衣品 [第二十二]下(735a)
 その時、太子は車匿へ摩尼宝の髪飾を渡し、衆生の救済を志して出家したので、嘆くべきことではないと浄飯王へ伝言してくれるよう頼んだ。しかし車匿は諸天が出家を促しており、誰も阻むことはできなかったといえ、太子と同日に産まれた縁もあり、別れ難い心情を切々と訴えた。太子はこれに応えて、一切の衆生はいつか別離するものであり、それに捉われるべきでないと諭した。それでも彼はこのままおめおめと独り帰れば、王族に打ち据えられると言って嘆いた。太子はそんなことをする者などおらず、自分は王位に就くよりむしろ荒野で独居する方がましであると告げた。車匿は太子の決意を知り、ようやく帰還することに同意した。
 そこで太子は、宮中へ帰ったら、父王をはじめ親族の皆へ、成道の暁には必ず戻って来るという伝言を頼んだ。また宝刀を取り出して、自分の髪を切り落とした。ここである猟師が袈裟を持って来るのを見ると、自分の着衣と交換し、出家者の姿になって、山林へ独り入って行った。これを見た車匿は大声で号泣し、気を失ってしまい、しばらくして目覚めると太子が去った跡を見てまた泣きながら、ようやく帰路についた。(2004/4/8)
 車匿等還品 第二十三上(738b)
 車匿が太子と別れ迦毘羅城に帰ると、城中は寂寞として空家のようだった。彼の帰還を知った住民が取り囲んで太子の所在を質したので、出家し独り山林へ入ったと告げた。これを聞いた者たちは、その貴い行いを讃嘆しながら、太子に会えない悲しみに涙を流した。宮中において浄飯王が太子の無事を祈念し、斎堂で苦行を修めていると、車匿が泣きながら乾陟を連れ、独り戻ってきた。(2004/4/10)

No.0190 仏本行集経 巻第十九

 車匿等還品 [第二十三]中(739b)
 乳母の摩訶波闍波提は、太子の髪飾を見て驚き懊悩しながら、車匿へなぜ独りで帰ったかと詰問した。彼はこれに応じ、太子は求道のため出家入山したのであり、母を慰めるため、所願が叶えばすぐ帰還すると伝言された、と答えた。
 妃の耶輸陀羅は泣き叫んで車匿へ、なぜ出家の夜に自分を起さなかったか等々、口を極めて罵った。彼も涙を流しながらこれに応じ、自分や乾陟を責めるの間違いで、その夜、我々は大声で騒いだのに誰も起きてこなかった。これは諸天の強い促しによるもので、それに従うしかなかったと答えた。
 第二妃の瞿姨は、苦悩に襲われ身をよじって泣きながら、乾陟の頭を抱き、お前は太子をどこへ連れ去ったのかと詰り、また車匿へもなぜその夜、自分を呼んでくれなかったのかと責めた。彼はこれに応じ、そのように嘆くことはなく、太子は遠からず成道した暁には、ただちに帰還すると約言された、と答えた。
 浄飯王は、太子の装飾品を見ると大声で哭し、子を思うあまり悶絶してしまった。しばらくして目覚めると、車匿へなぜ太子を連れ帰らなかったか問い質した。彼はこれに応じ、太子は世俗から厭離する意志が強く、山林で隠棲することを切望しており、色々諫めても聞いてはもらえなかったと答えた。(2004/4/14)

No.0190 仏本行集経 巻第二十

 車匿等還品 [第二十三]下(744a)
 それから浄飯王は四方の諸神へ息子の加護を祈り、速やかに成道するよう願った。この時、王の苦悩を察して大臣と国師が太子を呼び戻しに行こうと申し出たので、直ちに派遣された。ところで馬王・乾陟は、太子を去らせた件でたびたび叱責され、苦悩のあまり死去して、三十三天へ転生した。(2004/4/15)
 観諸異道品 第二十四(744c)
 ところで、菩薩(太子)が剃髪した場所や、袈裟を着た場所、車匿と別れた場所などには、後に塔が建立された。また、菩薩が黙然と歩んでいるのを見て、人々は釈迦族の仙人に違いないと語り合い、その頃からすでに釈迦牟尼と呼ばれていた。そうして菩薩は古に跋伽婆仙人が住んだとされる山林へ入り、婆羅門たちの歓迎を受けて、解脱を求め修行することにした。
 そこで、諸々の仙人たちと林内を巡り歩いていたところ、苦行を日常とする者がいたので、修行法について問答した。彼が苦行の目的を、来世で天上や人間に転生することとしていたので、菩薩は満足できず、後の楽を願い苦を修めるようでは、真の行ではないと反論した。
 そうこう議論している内に日が暮れてきたので、菩薩は一夜この林内で宿泊した。明朝、ここでの修行にあき足らず、他の道場を求めて旅立とうとしたら、ある梵志が阿羅邏仙人に就くよう勧めたので、これに応じることにした。(2004/4/18)
 王使往還品 第二十五上(748a)
 その頃、国師大婆羅門と大臣は、浄飯王の命を受けて菩薩(太子)を捜すため、跋伽婆仙人の居所を訪ねた。しかし菩薩はここの修行に不満を覚え、阿羅邏仙人を訪ねて出立したところだった。二人はただちにその後を追い、ようやくある林の中で独坐する菩薩を見つけ、話を聞いてもらうことができた。(2004/4/19)

No.0190 仏本行集経 巻第二十一

 王使往還品 [第二十五]下(749a)
 大臣と婆羅門等は菩薩に諫言して、父王が悲嘆にくれており、これを癒せるのは太子しかおらず、ぜひとも帰還して欲しいと懇願した。菩薩は二使の話を聞いて、しばらく考えた後、居住まいを正して、こう答えた。父王の恩情はよく知っており、離れ難い気持も分る。しかし自分は生死の苦しみを免れておらず、父王を本当に救うこともできないので、解脱するため出家するのだ。古い伝説のように、在家で法を修め解脱できたと言うのは嘘であり、五欲に満ちた王宮で心が定まるわけがない。二使はこれを聞いて、解脱を求めると言うけれども、それがいつどのように得られるか分るものではないと反論した。しかし菩薩は、そうした不確実さを耐え忍び、もうどのような目にあっても退かない決意があると宣言し、独り座から立って歩みはじめた。種々の説得も空しく、その意志の牢固さを思い知り、二使は泣きながら別離するばかりだった。(2004/4/21)
 問阿羅邏品 第二十六上(751c)
 菩薩が阿羅邏仙人を訪ねると、歓迎の挨拶を受け、すぐさま座について問答を始めた。まず仙人が発心の由来を質すと、菩薩は衆生を苦から解脱させる道を求めて出家したと答えた。仙人は感嘆してその器量を認め、奥義である解脱の法門を説き明かした。衆生が流転する原因は愛心であるから、これを遠離し心の諸根について見極め、分別知を捨て去るよう教示した。菩薩はこの説を聞いて感動し、ようやく真の教えに出会えたことを感謝した。(2004/4/24)

No.0190 仏本行集経 巻第二十二

 問阿羅邏品 [第二十六]下(753c)
 また阿羅邏仙人は、衆生に本性と変化があり、煩悩に無信・著我・有疑・無定の四種あるとし、各々について詳しく説明した。そこで菩薩は、これらの教えに対応した具体的な修行法を尋ねたので、仙人は次のように答えた。修行をするならまず出家して、乞食を行い、誓願を発し、戒律を持した上で、閑静な場所を選び、独坐する。その禅定中、諸欲から離れ、分別心がなくなれば初禅に達する。さらにこの境地を捨て去って精進すると、二禅に至り、大歓喜が起る。この歓喜も遠離すると三禅に入り、諸天のような快楽が得られる。しかしこれも顧みなければ、一切を捨て去った第四禅に到達する。
 しばらくして菩薩は、仙人が説いた行法を悉く自証し終わった。しかしこれは、まだ我を捨て切っておらず、究極の境地でないと考え、この点について質問した。そこで仙人は、我の本態とは世界の創造者であり、不生不滅で離れられるものではないと説いた。しかし菩薩は反論して、その解釈なら輪廻応報が説明できず、例えば劫の末に世界が崩壊する時、我の本態や果報はどこにあるのかと質した。
 阿羅邏仙人はこの質問に答えられず、菩薩の境地を認め、自分と共同で弟子たちを指導しないかと誘った。しかし菩薩は、仙人の教えが「非想」を説くだけであり、涅槃に至るものではないと考え、ここから去る決意をした。(2004/4/28)
 答羅摩子品 第二十七(757b)
 それから菩薩は、王舎城の近くに住む、高名な優陀羅羅摩子を訪ねた。彼は日頃、「非想非非想法」が最高の修行法であると説いていたので、さっそくこれについて詳しく教えてもらった。すると菩薩は聞いて直ちに理解し、この法を体得することができた。それを優陀羅に告げると讃嘆して、自分と一緒に弟子を指導しようと持ちかけた。しかし菩薩は断り、この法も究極のものでなく煩悩を滅し切れていないので、輪廻してしまうと考え、彼のもとを去ることにした。(2004/4/28)
 勧受世利品 第二十八上(758a)
 菩薩は優陀羅羅摩子のもとを去ると、般荼婆山の麓で独坐し、いつこの煩悩を断って成道できるだろうかと思索に耽った。(2004/4/30)

No.0190 仏本行集経 巻第二十三

 勧受世利品 [第二十八]中(758b)
 菩薩は夜明に般荼山を降り、王舎城へ托鉢に出かけた。住民はその威容を見て、どこの神人が来臨したのかと疑った。この時、頻頭娑羅王も高楼から菩薩を目に止め、この端正な人物は何者かと家臣に聞いた。するとある者が、彼は迦毘羅城に住む釈迦族の太子で、姓は瞿曇・名は悉達多であり、出家すれば必ず仏陀になるとも予言されている、と報告した。そこで王は、菩薩がどこに住んでいるか突き止めるため、家臣を派遣した。
 それから頻頭娑羅王は、知らせを受けて駕を整え般荼婆山へ赴き、丁重に菩薩へ挨拶した後、懐いていた疑問を投げかけた。まずあなたはまだ若く端正な容貌で、遊興に耽りたい年頃なのになぜ出家したのかと問い、さらにもし父へ遠慮して王位に就かなかったのなら、わが国を半分ほど譲与し、決して不自由はさせないと申し出た。菩薩はこれに答え、自分は生老病死の苦から解脱するため出家したのであり、そうした者へ五欲にまつわる事柄で勧誘するのは誤りである。もし王が友として諫めてくれるとするなら、むしろそれは大願成就のため早く煩悩を断つことであろう、と説いた。(2004/5/2)

No.0190 仏本行集経 巻第二十四

 勧受世利品 [第二十八]下(763a)
 頻頭娑羅王は菩薩の返事を聞いて感動し、改めてその出自を尋ねたので、釈迦族の浄飯王と摩耶夫人の子・悉達であると答えた。そこで王はさらに、今なにを求めているか尋ねたところ、菩薩はただ成道することのみであると答えた。王はこれを聞いて合掌し、あなたは遅からず悟りを開くに違いなく、その際すぐ自分を弟子にしてほしいと嘆願した。菩薩はこの願いを受け入れ、優しく王を諭してからこの場を去った。(2004/5/3)
 精進苦行品 第二十九上(764c)
 菩薩は般荼婆山林から降りて伽耶城へ向い、伽耶尸梨沙山に登ると、凡そ修行者は心中の欲望を一切滅尽しなければ、正定を得ることができないと思惟した。その後である村へ托鉢に入り、難提迦(自喜)村長の娘・須闍多(善生)の帰依を受け、食物を供養された。
 そこからしばらく歩いて坐禅に適した場所を見つけ、草を敷き座を定めると、誰でも解脱を求める者は、必ず苦行に励んだことを顧みて、自ら厳しく修行する決意をした。そこで菩薩は気を引き締め、舌を上顎に着け、身心を整え、不動三昧に入った。それから呼吸を止める行へ移り、全身が焼けるような苦しみに耐えた。さらに食事を節し、六年間も一日に一粒の胡麻と米などを摂るに留め、そのせいで菩薩の身体は、八・九十歳の老人のように痩せ衰えてしまった。(2004/5/5)

No.0190 仏本行集経 巻第二十五

 精進苦行品 [第二十九]下(767c)
 その頃、浄飯王は太子が去ってから六年経過し、元気かどうか何の音沙汰もないので、歎息していた。そこで国師の子・優陀夷は、自分が彼を捜して帰還を促すと申し出た。王はすぐにこれを許し、約束を果たさなければ一生面会しないと告げた。やがて優陀夷は菩薩を見つけ、その土色と変わらないやつれ切った体に接して驚愕し、修行が徒労ではなかったかと嘆いた。菩薩はこれに答えて、自分は文字通り命を賭け、成道を目指し精進している。決して無為に過ごして来たわけでなく、近頃夢で諸天が訪れ、七日以内に願いが叶うと予言しているので、一緒には帰れない、と話した。
 魔王・波旬のたび重なる誘惑も退けて、苦行に勤しんでいた菩薩は、ある時ふと思惟し、これまで誰にもまねできないほど修行してきたのに、まだ菩提を得ることができない。むしろこうした行を捨て去り、昔のように樹下で禅定を修めた方が良いのではないかと考えた。ただ禅定を修めるには、体力がひどく消耗していたので、断食を止めて、栄養のある食事を摂ることにした。ちょうどその時、軍将斯那耶那婆羅門の二姉妹が菩薩に帰依し、食事の世話をしてくれたおかげで、徐々に体力が快復して行った。しかしこれを見た五仙人は、菩薩が堕落したと勘ちがいし、この地を去り鹿野苑へ行ってしまった。(2004/5/8)
 向菩提樹品 第三十上(771b)
 菩薩は苦行を始めてから、満六年経過した春二月十六日に、体力を快復させるため、美食を摂ろうと考えた。これを知ったある天子が善生へ指示して、極上の乳糜を作らせた。二月二十三日に菩薩が乞食に訪れたので、善生は金鉢に盛った乳糜を供養した。菩薩はこれを受け村から出た後、尼連河のほとりで沐浴した。そうして乳糜を食べ終わると、ようやく身体は元通りになった。(2004/5/10)

No.0190 仏本行集経 巻第二十六

 向菩提樹品 [第三十]中(772b)
 菩薩は乳糜を食べ体力が戻ると、菩提樹へ向かいゆっくり歩んだ。そこで悟りを開く座を定めるため、帝釈天が化けた草刈り人から清らかな草を一束もらい、樹下に敷いた。その時、大地が六種の震動を起こし、びっくりした迦茶(黒色)龍王が四方を観察すると、菩薩の姿が見えた。龍王はその瑞相が過去の大菩薩とそっくり同じと認めて、必ず成道するものと信じ大いに喜んだ。
 また菩薩は、この欲界を魔王・波旬が仕切っているから、彼に何も知らせず悟りを開いても、大覚とは言えないと考え、眉間の白毫より降伏散魔軍衆という光明を放った。魔王はこの光に照らされ、三十二種の悪夢を見たので、戦慄して目覚めると眷属を集め、この夢は自分の失脚を意味するのではないかと恐れた。そこで長子の反対にもかかわらず、菩薩の成道を阻むため、四種の精兵を招集し襲撃することにした。(2004/5/13)

No.0190 仏本行集経 巻第二十七

 向菩提樹品 [第三十]下(777a)
 魔王・波旬は菩薩が菩提樹へ向うのを見て、なんとか阻もうと考え、夜叉に命じ妨害させようとした。しかし夜叉は菩薩を目の前にすると恐れて逃げ出し、役に立たなかった。そうして菩薩は、十六種の功徳を持つこの地に至り、草を投げ座を作ると、
「我坐此処。一切諸漏。若不除尽。若一切心。不得解脱。我終不從。此坐而起」
と誓願して結跏趺坐した。(2004/5/14)
 魔怖菩薩品 第三十一上(778c)
 菩薩が菩提樹下で成道を誓願した時、魔王・波旬は大いに恐れて、このまま看過すればいずれ自分の領域が侵されるのは必至で、なんとか今のうちに阻止しようと考えた。そこで千人の息子たちを集め、各々意見を述べさせることにした。その内、長子の商主等五百人は菩薩に組し、次子の悪口等五百人は魔王に従った。さらに、商主は菩薩と敵対する愚について、重々諫言した。
 結局、魔王はその諫言を聞き入れず、娘たちに命じて菩薩を種々に誘惑するよう唆した。しかし菩薩はどのような媚態にも心を微動だにさせず、女たちはただ恥じ入るばかりだった。(2004/5/16)

No.0190 仏本行集経 巻第二十八

 魔怖菩薩品 [第三十一]中(782a)
 その時、菩薩は魔女を熟視しつつ、心は正念のまま微塵も動揺しなかった。女たちがさらに媚態を尽し誘惑しても効果なく、しまいに羞恥心が生じ、菩薩の足へ礼拝してから帰還した。そうして魔王へ、かつてこれほど誘惑に強い者はおらず、敵対するのは止めた方が良いと進言した。
 しかし、魔王・波旬はこうした諫言を無視し、とうとう自ら菩薩のもとに現れて、まず何を求めこんな場所で坐禅するのか問い質した。菩薩はこれに応じ、ただ涅槃を得るために独坐していると答えた。次に魔王は、予言の通り必ず転輪聖王になれるのだから、速やかにここから去るよう諭した。菩薩は元々五欲を厭離しており、そんな誘いには乗らないと断った。また魔王は、腰の利剣をかざし、その体を切り刻むぞと脅かした。しかし菩薩は、どのような妨害を受けようと少しも恐くはなく、成道するまでここを動かないと断言した。魔王はもう優しく諭しても効果がないと知り、怒り狂って、軍勢を呼び寄せることにした。(2004/5/18)

No.0190 仏本行集経 巻第二十九

 魔怖菩薩品 [第三十一]下(786c)
 魔軍は様々な異形で四面から雲集し、菩提樹の前に殺到すると、魔王の命令を仰ぐため待機していた。菩薩はこれを見ながら少しも怯まず、必ず降魔成道すると言い放ったので、魔王はついに軍勢へ襲撃の命令を下した。しかし、彼等が刀を投げたり、火を放ったりしても、菩薩の神通力により体へ触ることすらできなかった。そこで魔王が自ら剣を抜いて襲っても、すれ違うだけで菩薩に近づくことさえかなわなかった。
 この顚末を見て、菩提樹の八神は、十六種の点を挙げて菩薩を讃嘆した。また諸天等も十六種の点から、魔王・波旬を非難した。彼はこれを聞くとますます意地になって、軍勢を叱咤し襲撃させた。しかし菩薩は、世界が崩壊しようとも、この菩提樹下を動かないと宣言した。(2004/5/20)
 菩薩降魔品 第三十二上(790b)
 魔軍がどのように脅かしても、菩薩の一毛すら動かすことができず、魔王はますます怒りをつのらせながらも、内心では不安になっていた。その時、菩薩が地を指さしたところ、三千大千世界が六種に震動し、大音声を発したので、魔軍と魔王は肝を潰し退散した。(2004/5/21)

No.0190 仏本行集経 巻第三十

 菩薩降魔品 [第三十二]下(791b)
 その時、一切の諸天が空中から菩薩に向って大歓声を上げ、降魔したことを褒め称えた。また梵天・帝釈天なども合掌して菩薩を礼拝し、この聖者は必ず成道すると言いあった。(2004/5/22)
 成無上道品 第三十三(792c)
 菩薩は、降魔し金剛座に就いてから、精神統一し五蓋を除いて、初禅に至った。そうして次第に禅定を深め第四禅まで到達し、さらに精進して瞑想を続けたところ、心が清浄になり、一切の苦が滅して、その夜の初更に成身通を得た。また宿命通を得て、無数の前世で自分が何者であったか、はっきり知ることができた。菩薩は、このように精進し続け、夜半に天耳を得て、六道のあらゆる衆生の声を聞くことができ、天眼を得て、すべての衆生を自由に見られるようになった。後夜が終る頃には如意通を得て、他人の心を意のままに知ることができるようになった。
 こうして後夜に漏尽通を得ると、衆生の生老病死にまつわる苦の原因と、克服法について思索しはじめた。そこで自分の老病死の因縁を詳しく調べたところ、無明が原因であると思い当たり、これを滅すれば一切の苦が消え去ることに気づいた。この未曾有の法を発見し、縁起の実相を知ることで、菩薩に解脱の智慧が生じた。そうして明星が出ようとする頃、ついに阿耨多羅三藐三菩提を成じて、仏陀となることができた。(2004/5/25)

No.0190 仏本行集経 巻第三十一

 昔与魔競品 第三十四(796b)
 菩薩が初夜に波旬を降魔した時、大地は六種に震動して、その原因を尋ねられた仙人たちは、摩伽陀国で法王が魔王に勝利し、やがて無上の法輪を転ずるであろうと答えていた。また明星が出る頃、菩薩は阿耨多羅三藐三菩提を証し、大光明が放たれると、天上にいた摩耶夫人が地上に降りて、浄飯王へ太子の成道を告げた。
 ここで釈尊は比丘たちへ、今生で菩提を証するまで前世から非常な精進をして来た因縁を説かれた。また過去世で魔王を降伏させ、唆しに乗らず、騙されず、攻撃にも屈しなかった故事も説かれている。(2004/5/29)
 二商奉食品 第三十五上(799b)
 釈尊が初めて成道した時、菩提樹下に七日間、結跏趺坐したままで解脱の快楽を味わい、そのあと十二因縁を思惟し、生老病死の原因について整理した。次の七日間は、菩提樹を見つめながら坐禅し、この場で果てしない苦の重荷を降ろしたのだと感慨に耽った。それから招請を受け龍王の宮殿へ赴いたところ、暴風雨が起き、彼はその体で七重に囲み釈尊を守った。(2004/5/30)

No.0190 仏本行集経 巻第三十二

 二商奉食品 [第三十五]下(801a)
 釈尊は解脱後四十九日間、何も食べず瞑想していたので、林の守護神が近くを通っていた天帝梨富娑と跋梨迦の二商人へ、麨酪蜜搏を供養させた。釈尊が何にこれを受けようと考えたところ、四天王が察知し金鉢を持って現れた。しかし、それは出家に不相応であり、石鉢を捧げてようやく受け取られた。
 釈尊は石鉢で酪蜜入りの麨(むぎこがし)を食べた後、商人に三宝へ帰依し五戒を受けるよう勧めた。彼等は快諾して、ここに最初の優婆塞が誕生した。また彼等が記念のため形見となるものを懇願したので、釈尊は髪と爪を塔へ入れて供養するようにと与えられた。 (2004/5/31)
 梵天勧請品 第三十六上(803c)
 ところで羅娑耶という女が死病に罹り、菩提樹の辺りに遺棄されていた。彼女は臨終の際、菩薩の苦行を見て感激し、着ていた糞掃衣を捧げ、成道後にこれを受けて欲しいと願った。まもなく命終すると、彼女はその功徳で三十三天へ転生した。またある朝、釈尊は難提迦村主の家へ托鉢に訪れ、娘の善生から美食を供養された。これを受けた後、彼女は三宝へ帰依することを勧められ、最初の優陀夷となった。それから釈尊は遍観世間三昧へ入り、六道に生死する衆生が、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒に執着する有様を観察された。(2004/6/6)

No.0190 仏本行集経 巻第三十三

 梵天勸請品 [第三十六]下(805c)
 その時、釈尊は自分の悟った法が非常に深遠であり、煩悩に捉われた衆生の理解に及ぶものではなく、説法しても徒労に終るだろうと思われた。梵天はこれを察知して地上に現れ、仏法が説かれなければ根機の熟した者でも救われる機会が失われると心配し、衆生への教化を懇望した。釈尊はこれを聞いて慈悲心を起し、仏眼で衆生を観察すると、教えに堪える利根の者がいることを確認された。そこで梵天の勧請に応じ、甘露の法門を開くと宣言された。それなら誰に説法しようかと考え、まず優陀羅迦羅摩子が聡明だったことを思い出された。しかしこれを察知したある天子が、彼はすでに死後七日経過すると告げた。次に阿羅邏迦羅摩種が適当と考えると、また天子が昨日死去したと告げた。(2004/6/8)
 転妙法輪品 第三十七上(807c)
 釈尊は他に誰か利根の者がいないかと思惟し、かつて自分に師事していた五仙人を思い出された。そこで天眼により、彼等が波羅櫞城の鹿野苑内にいると知って、さっそく出発した。五仙人は、釈尊の姿を遠望すると、彼は苦行の落伍者であり、歓迎すまいと示し合わせていた。しかし実際に近づいて来た釈尊の威容を目の当りにして、居ても立ってもおられず、いそいそと出迎えた。釈尊はそんな彼等を再三諭して、自分は決して堕落したのではなく、菩提を証し仏陀となった。その教えを受けて修行すれば、必ず解脱できると説かれた。このように教え導かれている内、彼等の姿も外道から出家者の形に変容し、ついに心を開いて、釈尊の教えへ帰依することを誓った。(2004/6/10)

No.0190 仏本行集経 巻第三十四

 転妙法輪品 [第三十七]下(810b)
 釈尊が古の仏たちは、どんな座に就いて法輪を転じたかと思われた時、ただちに地面から五百獅子高座が出現し、その第四座上に結跏趺坐された。そこで五比丘へ、この賢劫中に五百人の仏が現れ、自分はその四番目であると解説された。それから釈尊は、古の仏が四聖諦・十二因縁の法を説法したことにちなみ、箕宿月の十二日、北面に坐して同様に法輪を転じられた。
 およそ出家者は欲楽と受苦の二処から離れ、中道を歩むべきであり、その方向で修行を重ねるなら、ついに解脱の智慧と定心を得て涅槃へ至ることができる。またこうした道とは、いわゆる正見・正分別・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八正聖道のことでもある。さらに苦・苦集・苦滅・得道の四聖諦があり、苦諦とは四苦八苦のこと、苦集諦とは苦の原因である渇愛のこと、苦滅諦とはこれを遠離すれば苦も滅尽すること、得道諦とは八正道のことを意味する。仏陀はこの法を悟って阿耨多羅三藐三菩提を証したのであり、そうしてはじめて解脱できるのである。釈尊がこのように説かれた時、憍陳如は煩悩が浄化され、法眼を得て、解脱の智慧を実証することができた。その時すかさず諸天は、今日仏が鹿野苑で無上の法輪を転じたと大唱和した。
 そこで憍陳如は、仏法へ帰依し比丘となることを誓った。他の四比丘は、また各々個別に教えを受け、六人の内、三人が乞食し、二人が法を授けられ、皆でその食を分かつという共同生活をしていた。ここで釈尊は、色受想行識が無我・無常・苦であると説き、これらを遠離するとき、解脱が得られ、輪廻から開放されると教えられた。この時、五比丘は解脱して阿羅漢となり、その最初が憍陳如だった。比丘たちが讃嘆して、その因縁を尋ねると、釈尊は過去世である瓦師が、辟支仏を介護した故事について説かれた。(2004/6/13)
 耶輸陀因縁品 第三十八上(814b)
 その頃、波羅櫞国の城外に大きな尼拘陀樹があり、神木として人々の崇拝を受けていた。この城内には善覚という長者がいて、巨万の富に囲まれながら、子供がひとりもおらず、親戚の者は再三その神樹へ、子宝が授かるよう祈ることを勧めていた。(2004/6/14)

No.0190 仏本行集経 巻第三十五

 耶輸陀因縁品 [第三十八]下(815a)
 そこで善覚大長者は何でも願いがかなうという神樹へ向かい、男の子をひとり授かりたいと望み、もし期待を裏切るなら大斧で根こそぎ切り倒すと告げた。これを聞いた樹神は驚いて、帝釈天になんとか長者へ男子を授けてくれるよう懇願した。しかし帝釈天は、もともと無理な話で神々が随意に産ませられるものでなく、当人に福因がなければ子供などできない。ただこれから、長者にそんな因縁があるか、調べてはみようと答えた。たまたまその時、忉利天のある天子が臨終を迎えていたので、帝釈天が成長後に出家の手引をするから、長者の家へ産れるように勧めたところ、快諾した。これを聞いた樹神は大いに喜び、さっそく長者を尋ね子供が授かる旨を告げると、夫人は確かに妊娠していた。
 十月が過ぎて丸々とした男児が産まれ、出生時に宝蓋が現れたことから、耶輸陀(上傘)と名づけられた。彼は御殿で快楽を尽した生活をしていたところ、釈尊が法輪を転じられたので、帝釈天は約束通り出家を勧めにやって来た。その朝、園遊していると釈尊に出会い、威容に打たれて出家の意志を固めた。深夜に帝釈天の助けで家から出ると、耶輸陀は幾多の障害を越えて釈尊を尋ねた。そうして生天の法から説教され、素質を見込まれ四聖諦に説き及んだら、たちどころに法眼を生じ解脱することができた。
 ところで長者は息子がいないことに気づくと、すぐさま方々を捜し、釈尊の居所まで尋ねてきた。しかし今すぐ耶輸陀に会わせたら、愁嘆場になると判断され、釈尊は神通力を使い彼の姿を隠された。それから懇ろに仏法を説かれたところ、長者も法眼を得て三宝へ帰依した。そこでようやく神通力を止めて、父子を対面させると、耶輸陀は在家で五欲に塗れさせるべきでなく、出家する方が善いと勧めた。長者もこれを快諾し、息子が解脱することを望んで帰宅した。そこで耶輸陀は改めて出家を願い出て、ただちに具足戒を得、阿羅漢となった。 (2004/6/17)

No.0190 仏本行集経 巻第三十六

 耶輸陀宿縁品 第三十九(819b)
 波羅㮈城の四大長者が耶輸陀の評判を聞き、仏へ帰依したいと訪ねてきたので、釈尊へお願いし種々に説法してもらった。すると彼等は、即座に一切の法を理解し、世俗を遠離する志が起って、出家を希望した。具足戒を受けて比丘となった四長者たちは、精進してほどなく解脱に至り、阿羅漢となった。また耶輸陀は、かつての朋友だった五十人の長者を、釈尊へ同様に紹介すると、彼等も仏法へ帰依し、出家して阿羅漢となった。
 さらに耶輸陀の朋友だった五百人の商人が帰郷し、彼の評判を聞いて訪ねてきた。そこで仏法のすばらしさを教えられて、ただちに出家した。しかしこの時、釈尊は外遊中だったので、具足戒を受け修行しながら、数年を経ても得道できなかった。しばらくして釈尊が帰還された際、五百人の新米比丘は色めきたち、大声で騒いでしまった。釈尊は彼らを叱り、ここから去るよう指示された。やむなく新米比丘等は釈尊に礼拝してから、精舎を出て婆羅瞿摩帝河のほとりで精進することにした。そうして無休で励む内、すぐに煩悩を断ちみな阿羅漢となった。釈尊もこれを察知し、彼らを呼んで不動三昧に入り、その悟境を確認された。
 五百比丘たちは、こうした耶輸陀の功徳を不思議に思ったので、釈尊は古に波羅㮈城で暮していたある男が、発心して那伽羅尸棄辟支仏を供養した故事を説かれた。その男は、美食を布施した後、辟支仏が炎天下で結跏趺坐するのを見て、瞑想中ずっと傘蓋をかざし陰を作った。辟支仏は出家希望の彼を哀れみ、いまは外道の師に就き修行してから、来世で釈迦牟尼仏へ帰依し、解脱することを念願するように教えた。その男が耶輸陀であり、彼は前世でこのような功徳を積んできた、と説かれている。(2004/6/23)

No.0190 仏本行集経 巻第三十七

 富楼那出家品 第四十(824a)
 迦毘羅城近郊の憍薩羅聚落に、浄飯王の国師を勤める大婆羅門が居住しており、その嫡男を富楼那弥多羅尼子といった。彼は将来、悉達太子の国師を拝受するものと考え、修練のため出家し、苦行に励んでいた。ある時、太子の様子を天眼で観察したところ、成道後に鹿野苑で法輪を転じていると知った。そこでただちに釈尊を訪ね、改めて仏法へ帰依し、出家することを懇願した。快諾され精進を重ねた結果、すぐ阿羅漢となり、釈尊から説法第一と称讃されるに至った。(2004/6/24)
 那羅陀出家品 第四十一上(825a)
 阿槃提国の獼猴食聚落に大迦旃延という富豪の婆羅門がおり、その長子は他国で長年諸師を尋ねて、ようやく学業成就し帰郷した。ところが婆羅門の第二子・那羅陀は、兄の所説を一聞しただけでみな理解し、まったく変わるところがなかった。兄は衝撃を受けて弟の才を妬み、害意を覚えるようになった。父はこれを察知して、那羅陀を親類の阿私陀仙人へ弟子入りさせることにした。彼は神通力を得た耆宿の仙人であり、残された寿命の中で度々弟子へ、今は仏が出現されておりぜひ出家すべきだと教えていた。しかし老仙人の没後、那羅陀は世俗の快楽に溺れ、その遺言には従わなかった。
 その頃、伊羅鉢龍王が金斉夜叉王へ、もう釈迦如来は出現されただろうかと尋ねていた。夜叉王はこれに答え、阿羅迦槃陀城に二偈文が伝来されており、仏でなければ読むことができないと教えた。そこで龍王は、宝物と美しい龍女を褒美とし、
「何の自在に在りて 染著を名づけて染と為し 彼云何か清淨とし 云何か痴の名を得 痴人は何の故に迷ひ 云何か智人と名づけ 何か会して別離し已り 名づけて因縁を尽くすと曰ふ」
という偈が読める者を捜すことにした。
 その噂が摩伽陀国にも伝わり、那羅陀は二偈文が読めなければ、支持者が減ってしまうと考え、龍王を訪ね七日で解読すると約束した。しかしその後、外道の六師を歴訪し偈の意味を質しても、まったく答えが返ってこなかった。そうしてようやく釈尊に尋ねると、あっさりその意味を理解され、
「第六は自在の故に 王に染まるを名づけて染と曰ひ 染無くして染有るを 是の故に名づけて痴と為し 大水に没するを以ての故に 故に尽方便と名づけ 一切の方便もて尽くす 故に名づけて智者と為す」
と答えられた。那羅陀が喜んでこの解答を伝言したところ、龍王は歓喜して如来の出現を確信し、さっそく釈尊を訪問することにした。(2004/6/28)

No.0190 仏本行集経 巻第三十八

 那羅陀出家品 [第四十一下](828c)
 釈尊は対面の際、伊羅鉢龍王が悲喜こもごもの表情をしたので、その理由を尋ねられた。そこで龍王は過去世において迦葉如来の下、出家していたにもかかわらず、仏の教戒を蔑ろにしたせいで、龍の身となってしまい、これを自責し悲泣していた。しかし今また縁があって釈尊と邂逅することができ、喜びに堪えず微笑していた、と答えた。そこで龍王は、自分がいつ人身を得て解脱できるか尋ねたところ、釈尊は遠い将来、弥勒如来が現れた時、叶えられると教えられた。それから釈尊が龍王たちのため、四聖諦を説くと、彼等は即座に煩悩から離れ、三宝へ帰依した。
 この場に居合わせた那羅陀も、釈尊の教えを聞いてただちに出家を懇願し、快諾されて修行に励み、ほどなく解脱して阿羅漢となった。釈尊はその境地を確認し、那羅陀は本姓にちなんで大迦旃延と呼ばれるべきで、教義を広説することにおいては、弟子中第一人者である(論議第一)と褒められた。比丘たちが彼の果報を疑問に思ったので、釈尊は古に迦葉仏が涅槃へ入った頃、ある篤信の優婆塞が仏の教えをよく理解し、広く世人へ解説していた故事を説かれた。(2004/7/2)
 娑毘耶出家品 第四十二上(831b)
 特叉尸羅城中のある一家に、男女の双子が産まれて、娘をある女波梨婆闍(遊行者)の養女とした。彼女は成長して美しく聡明になり、養母から種々の技能を教わった後、諸国の外道と論戦をしながら遊歴していた。その途中、最妙自在勝他という名の端正な遊行者と出会い、相思相愛の仲となって、ついに和合することとなった。しかし彼女は妊娠して、美貌を失ったせいで、男に捨てられてしまった。
 それから摩頭聚落のある村に身を寄せ、そこで息子を産み、娑毘耶と名づけた。彼も賢く成長して、様々な技能を学んでいた。ところがある日、自分の父は誰かと尋ねたので、母は自ら南天竺へ捜しに行くよう勧めた。方々を訪ねて父と邂逅した娑毘耶は、ここでさらに禅定の法などの教えを受けた。ほどなく父が亡くなり、母も臨終を迎え三十三天へ転生した。母は天子となっても息子のことを心配して、釈尊が法輪を転じられたことを知り、娑毘耶もその下で、真の阿羅漢になる道を求めるよう勧めに来ると、真の如来を見わけるための質問事項も教授した。(2004/7/4)

No.0190 仏本行集経 巻第三十九

 娑毘耶出家品 [第四十二]下(833b)
 娑毘耶は富蘭那迦葉など著名な外道の諸師を訪ね、母天が教えてくれた通り質問すると、誰も答えられる者がいなかった。それから年若いことを怪しみつつ釈尊を訪ねたら、まずその威容に感動して、この人が如来に違いないと確信した。次に何を比丘と名付けるか等の質問をすると、釈尊は即座に回答され、またそれがすべて娑毘耶の心にかなった。彼は直ちに出家を決意し、快諾され修行に励みすぐ阿羅漢となった。(2004/7/5)
 教化兵將品 第四十三上(835b)
 その頃、釈尊は独坐して、いま多くの人々が出家を希望し四方から訪れるせいで、教団が混乱を来たしている。これからは比丘を各地へ派遣し、その場で出家希望者に受戒させた方が良いと思惟された。そこで比丘を集め、具体的な受戒三帰の方法を説き、夏安居が終ってから、彼等を各々の縁に従って遊行させることにした。釈尊みずからも、優婁頻螺聚落へ向けて出発した。
 途中で三十人の男達が、持物を奪って逃げた婬女を、捜しているのに出会った。そこで釈尊は、自分自身について求めるのと、婬女を見つけるのと、どちらが良いか問いかけると、前者を選んだので、懇ろに仏法を教示して、みな出家させた。彼等はそれからまじめに修行し、ほどなく阿羅漢となった。(2004/7/7)

No.0190 仏本行集経 巻第四十

 教化兵將品 [第四十三]下(837c)
 優婁頻螺聚落へ向う途中、船師から懇ろに乗船を勧められたので、河を渡る間、釈尊は偈で彼を教示した。そこで船師はただちに出家し、具足戒を得た。それから大兵将村に着いて、兵将婆羅門家へ托鉢に向うと、難陀・波羅の娘二人が食を供養し、説法されて三帰五戒を受けた。
 提婆婆羅門は、釈尊がこの地へ訪れたことを知って、なんとか食施をしたいと願った。しかし家が貧乏で余裕がなく、兵将婆羅門に借金を頼み、返せなければ夫婦で家僕となる契約をした。この五百銭で種々の美食を調え、釈尊を供養し、説法を受けて満足した。その後、妻が家を掃除していると、部屋の一角に火が見えたので怪しみ、床下を覗いたところ、赤銅の甕があり金で一杯だった。喜んで借金を返すと、改めて釈尊を招き懇ろに供養した上で、仏法へ帰依し五戒を受けた。比丘たちがその因縁を尋ねたので、釈尊は六年の苦行中、提婆婆羅門が食物を捧げた善行の果報であると答えられた。(2004/7/10)
 迦葉三兄弟品 第四十四上(840c)
 その頃、優婁頻螺聚落に優婁頻螺迦葉・那提迦葉・伽耶迦葉の三兄弟が住んでた。各々五百人・三百人・二百人の弟子を率い、人々から阿羅漢として尊敬されていた。釈尊は、彼等を教化すれば、多くの人が仏法へ帰依すると考えられ、優婁頻螺迦葉を訪ねることにした。そこでわざと彼に頼み、毒龍が住む火堂に泊まることにした。(2004/7/12)

No.0190 仏本行集経 巻第四十一

 迦葉三兄弟品 [第四十四]中(843a)
 迦葉等の心配をよそに、釈尊は翌朝、鉢の中へ調伏した毒龍を入れて、火神堂から出てきた。迦葉は驚き釈尊の威神力を認めながらも、阿羅漢果を得た自分の境地には、まだ及ばないと考えた。それから連夜、四天王や大梵天王等が、かわるがわる釈尊のもとへ聞法に訪れた。また例祭の前夜、迦葉が大衆の前に現れないよう望んだことを察知し、釈尊はその日、遠く欝単越まで行って来られた。さらにある時、釈尊が捨ててあった糞掃衣を拾い、どこで洗濯しようかと考えると、すぐ帝釈天が眼前に池を掘った。(2004/7/16)

No.0190 仏本行集経 巻第四十二

 迦葉三兄弟品 [第四十四]下(847b)
 また釈尊はある時、迦葉を先に送ってから、天上で波梨闍多迦華を摘み、彼よりも早く火神堂へ着かれた。さらにある時は、洪水のただ中で両側に水を分け、独り乾いた道を歩まれた。こうした数々の奇跡を目の当りにしても、迦葉は自分の境地に及ばないと、頑固に思い込んでいた。そこで釈尊は、そろそろ目を覚ましてやろうと考えられ、彼の境地は阿羅漢果に達していないと直接批判された。これを聞いた迦葉は深く恥じ入って、即座に出家し仏弟子となることを誓った。五百人の弟子もこれに従い、その際に、釈尊の指示で祭祀の用具等を、悉く尼連禅河へ放擲した。
 その時、那提螺髻迦葉は、上流から種々の祭具が下ってくるのを目撃し、てっきり兄が盗賊にでも襲われたのだろうと思って、三百人の弟子を率い駆けつけて来た。しかし兄は健在であり、いつの間にか僧形へ変っているのを見、不審に思った。そこで優婁頻螺迦葉は弟へ、仏法が何より優れていると説いたので、那提螺髻迦葉も直ちに出家して、釈尊へ帰依した。またその際、多くの祭具を河へ捨てた。同様に伽耶螺髻迦葉も二百人の弟子を率いて訪れ、兄たちに説得されて沙門となった。
 それから釈尊は、千人の弟子を連れて伽耶城へ向い、象頭山頂において三種の神通力を示し、彼等を教化された。その際に「此一切法。皆悉熾燃。…」で始まる有名な説法をされた。六根は煩悩で燃え盛っており、これらを厭離し、まったく染まらないようであれば、すぐに解脱できると教えられている。(2004/7/20)
 優波斯那品 第四十五上(851a)
 迦葉三兄弟には甥がいて名を優波斯那といい、二百五十人の弟子と阿修羅山に住していた。彼は叔父たちが出家したと聞き、難詰するため訪ねてきた。しかし逆に仏法が最も優れていると教えられ、弟子たちと共に釈尊へ帰依することとなった。ここに最初の教団が結集され、その数は千二百五十人で、みな阿羅漢だった。釈尊は、この教団ができた因縁を問われたので、かつて閻浮提にいた商人である、優婁頻螺迦葉・那提迦葉・伽耶迦葉の三兄弟にまつわる故事を説かれた。(2004/7/22)

No.0190 仏本行集経 巻第四十三

 優波斯那品 [第四十五]下(852a)
 商人たちは大海へ出て、種々の珍宝を収拾し船に満載すると、帰国の途についた。その途中で、迦葉如来の仏塔が破壊されているのを見、金銭を集め修理することにした。釈尊は彼等が迦葉三兄弟と弟子千人の前身に他ならず、この功徳で今日、自分の教化を受け、速やかに悟ることができた、と説かれている。
 また釈尊は、迦葉が五百種の奇跡を見せつけられても、なかなか回心しなかったことに触れ、古の鴦伽陀王が外道の教えを盲信した故事を説かれた。ある十五夜の満月時に、王は大臣を集め、今晩寝ずに何をして楽しもうかと諮った。そこである大臣が、高徳の沙門・婆羅門を供養してはどうかと提案したので、鹿苑に住む裸形婆羅門の迦葉を訪ねることになった。王は挨拶の後、世の沙門や婆羅門の説法で、どれが真実かと質問したところ、彼は諸行に善悪の応報など、一切ないとする説が正しいと教えた。
 王が宮殿へ帰ると、意憙王女は毎月十五日に千金を散じ、あらゆる沙門・婆羅門へ布施したいと願った。しかし王は迦葉の説を信じており、そんなことをしても何の果報もないと断った。彼女は不満に思い、父王と議論していたところ、不那羅陀仙人が天上から降りて来た。王女は彼を礼拝した後で、王の誤った考えを糺して欲しいと頼んだ。そこで仙人は因果応報の理を懇切に教え、ようやく王を回心させた。ここで、不那羅陀仙人とは釈尊の前身であり、鴦伽陀王が優婁頻螺迦葉であった。以上のように、迦葉は前世でも外道の信者で、釈尊の教化により回心したと説かれている。(2004/7/26)

No.0190 仏本行集経 巻第四十四

 布施竹園品 第四十六[上](856b)
 摩伽陀国の頻頭娑羅王は、釈尊が成道し千人の弟子を率い、国内で教化しているという評判を聞き、多くの婆羅門や長者たちを連れ、聞法に訪れた。その際、僧団の中に優婁頻螺迦葉がいたので、彼等はどちらが師事しているのか疑問に思った。釈尊はこれを察知し、迦葉に命じて神通力を現させ、その上で仏法へ帰依していることを表明させた。そこで集まった人々が敬意を懐いたので、釈尊は彼等へ布施・持戒から解脱に至る、様々な法を説かれた。頻頭娑羅王をはじめ一同は、直ちに法を悟り、三宝へ帰依した。王は明日、僧団へ食事の供養を申し出て黙認され、さらに車で送ろうとしたら、釈尊はこれを遠慮された。
 比丘たちがその因縁を尋ねたので、釈尊は古に迦尸国の善意王が帝釈天の招待で天上へ赴くとき、同じく乗車を遠慮した故事について説かれた。
 翌日、釈尊は頻頭娑羅王の宮殿へ赴き、懇ろに食事の供養を受けた。この時、王は急に思い立って、僧団を安住させるため、竹園を寄進しようと申し出た。釈尊は快諾され、ここに竹園精舎が建立されることになった。(2004/7/30)

No.0190 仏本行集経 巻第四十五

 布施竹園品 [第四十六]下(860c)
 その時、阿耆毘伽道人は竹林の持ち主だった迦蘭陀長者に、頻頭娑羅王が釈尊へ、この園林の寄進を約束したと教えた。そして功徳を得るため、王より先に贈るよう勧めたので、さっそく長者は釈尊を訪ね、竹林寄進を申し出た。(2004/7/31)
 大迦葉因縁品 第四十七上(861c)
 王舎城の近くに新竪立村があり、大富豪の尼拘盧陀羯波婆羅門が住んでいた。妻が男児を産んだ際、自然に天衣が現れ、これに因みその子を畢鉢羅耶那と名付けた。彼は賢く育って適齢期になると、父母は嫁取の相談を始めた。しかし畢鉢羅耶那童子は、梵行を修めたいという思いが強く、閻浮檀金で女像を作ると、その容色に匹敵する者でなければ結婚しないと宣言した。両親が頭を悩ませていたところ、門師の婆羅門は自分が諸国を巡って、その条件にかなう少女を捜してくると約束した。
 その時、近隣の迦羅毘迦村に、大富豪の色迦毘羅婆羅門が住んでいて、娘に美女として名高い跋陀羅迦卑梨耶がいた。婆羅門は彼女の評判を聞いてさっそく訪問し、畢鉢羅耶那童子との婚姻を勧めた。すると色迦毘羅は、尼拘盧陀羯波の家風を見て判断したいと考え、彼女の兄弟を新竪立村へ偵察に遣った。彼等は牛舎の設備など、尼拘盧陀羯波の資産を見て驚き、両家の婚姻に大賛成した。
 畢鉢羅耶童子はこの話を聞いて、跋陀羅迦卑梨耶に会ってみようと思い、乞食者に化け迦羅毘迦村を訪問した。そこで話し合い、彼女も梵行を志していると知り、意気投合して結婚することに決めた。しかし、両家で万事調え嫁を迎えたにもかかわらず、新婚夫婦は寝床を共にすることさえしなかった。(2004/8/5)

No.0190 仏本行集経 巻第四十六

 大迦葉因縁品 [第四十七]中(865b)
 新婚夫婦は互いにまったく触れ合わず、十二年を過ごしたところで父母が死去し、家業の一切を引継ぐことになった。ある時、畢鉢羅耶は田地を視察し、衆生が苦役に従う有様を見て悩み、在家は清浄行を為しがたく、夫婦で出家する相談をした。そこで畢鉢羅耶が良師を求めて旅立つことになり、出家後は姓にちなんで迦葉と呼ばれていた。奇しくも彼が夜明に出立した時、釈尊も成道しており、迦葉が王舎城でたまたま出会うと、その威容を見て感激し、仏弟子になることを懇望した。それから教えを授けられ、八日目にはやくも仏智が生じた。後に釈尊は、迦葉へ自分が着ていた粗末な糞掃衣を与え、彼を仏弟子中で少欲知足行頭陀悉具足第一であると賞賛された。
 またある時、釈尊が舎衛城で比丘たちへ、自分はむかし初禅行から四禅行を経て、慈心・捨心・無辺虚空処行・無辺識処行・一切無所有処行・非有想非無想処行・八解脱行・八勝処行・十一切処行を修めた。それから遊戯神通境界・天耳・他心智・憶知宿命・天眼などの神通力を得て、諸漏が尽き解脱に至った。同様の境地を経て、摩訶迦葉も解脱に至っていると説かれた。そこで比丘たちの問に答え、多伽羅尸棄辟支仏の在世中、波羅櫞城で飢饉にもかかわらず、ある貧民が粗食を供養した。彼が摩訶迦葉の前身であり、こうした功徳で資産家に産まれ、仏法を得て解脱したと教えられている。
 またある時、迦葉が年老いてもあい変らず粗衣で過ごしているのを見て哀れみ、釈尊は自分の上妙衣を着るよう勧められた。しかし彼は、常日頃から糞掃衣を着て、阿蘭若行・乞食行等の功徳を讃嘆しており、これが自分のためだけでなく、後世の者に見習ってもらう意味もあるので、遠慮したいと申し出た。釈尊はこれを讃嘆し、望む通りにされた。
 またここで比丘たちの問に答え、古に摩訶迦葉が帝釈天だった時の故事を説かれた。 (2004/8/9)

No.0190 仏本行集経 巻第四十七

 大迦葉因縁品 [第四十七]下(869c)
 帝釈天は無仏の世で衆生が悪道へ陥るのを見、獅子王に生まれ変わると諸国を巡って、悪者に限り一日百人、食用に提供するよう要求したので、人々はすぐ悪行を改めた。摩訶迦葉は前世において、このように衆生を教化しており、現在のみならず未来でも弥勒如来が出現した時、その遺骨で比丘たちに範を示す、と説かれた。(2004/8/10)
 跋陀羅夫婦因縁品 第四十八(870b)
 跋陀羅迦卑梨耶は良師に出会えず、外道の波離婆闍迦に就いて出家し、神通力を得るまでになっていた。その頃、釈尊は摩訶波闍波提の出家を許しており、比丘尼たちも教団で暮していた。そこで摩訶迦葉はかつての妻を思いある比丘尼に頼み、自分の所在を知らせた上で、ともに仏法へ帰依することを勧めた。比丘尼の話を聞いた跋陀羅迦卑梨耶に清浄心が起り、直ちに釈尊を訪ねると出家を懇望した。快諾を受け摩訶波闍波提の元で修行していたところ、彼女はしばらくして阿羅漢果を証した。釈尊もこれを認め、比丘尼の宿命通において、跋陀羅迦卑梨耶が第一であると賞賛された。
 跋陀羅迦卑梨耶の果報について問われたので、釈尊は古に波羅櫞城で迦葉如来へ宝蓋を献じた婆羅門の娘と、自分の食物を辟支仏へ供養した下女の故事を説かれた。また摩訶迦葉に導かれて、ともに出家した因縁を尋ねられたので、古にある百姓の夫婦が、辟支仏と出遭った故事を説かれた。(2004/8/12)
 舍利目連因縁品 第四十九上(873c)
 王舎城の近くに那羅陀村があり、富豪の檀孃耶那婆羅門が住んでいた。婆羅門の長子が優婆低沙で八人兄弟中最も賢く、四韋陀に通じ人を教えるほどだった。彼は柔和な性格で世事を厭い、出離の心が強かった。また王舎城の近くに拘離迦村があって、大婆羅門の子に拘離多がおり、賢く育ち優婆低沙と親友だった。(2004/8/14)

No.0190 仏本行集経 巻第四十八

 舍利目連因縁品 第四十九下(874a)
 その頃、王舎城の近くにあった祇離渠呵山などでは、常に大会が開催され、多くの人々で賑わっていた。優婆低沙と拘離多は、美貌であり技芸にも優れていたので、皆が彼等を高座に招いた。しかし優婆低沙は、大会に集う人々を見、百年後には皆がこの世にいないのだと思うと煩悶し、そっと座を立ち、樹下で瞑想していた。拘離多も同じ考えを懐いていたので、二人で相談し出家することにした。
 それから彼等は、外道の刪闍耶に就いて出家し、一週間でその道術を修得して、五百人の弟子を教える立場になった。しかし外道の法に満足できず、良師を求めていたところ、阿湿波踰祇多比丘が王舎城で乞食しているのを見かけた。その所作に感動した優波低沙は、彼の後を追い誰の弟子か尋ねると、教義の一端でも示して欲しいと懇願した。そこで阿湿波踰祇多は釈尊の弟子であると明かした上で、
「諸法は因より生じ 諸法は因より滅す 是の如き滅と生と 沙門の説は是の如し」
という偈を唱えた。これを聞いて優波低沙は直ちに悟り、法眼浄を得た。
 阿湿波踰祇多と別れて帰った優波低沙の、顔貌が輝いているのを見た拘離多は、優れた法と出遭ったに違いないと考え、それを教えてくれるよう頼んだ。彼も偈を聞いた途端に悟り、法眼浄を得た。二人は釈尊に師事すると心に決め、本師の刪闍耶へ別れを告げに行った。しかし彼は頑固に反対したので、やむなく師と決裂し出発することになった。弟子たち五百人もそのやり取りを見て、同様に旅立ったせいで、刪闍耶は愁いのあまり、血を吐き死去してしまった。
 釈尊は近づいて来た二人を見ると、前もって比丘たちへ紹介し、ひとりは優波低沙と言い仏弟子中で智慧第一となり、もうひとりは拘離多で神通第一になると告げられた。彼等は改めて仏法へ帰依した後、半月で阿羅漢果に達した。それ以後、優波低沙は母の名から舍利弗多と、拘離多は姓から目揵連延と呼ばれるようになった。ここで比丘たちが過去の果報について尋ねたので、釈尊は古に二人が波羅櫞城で、辟支仏を供養した故事について説かれた。(2004/8/16)

No.0190 仏本行集経 巻第四十九

 五百比丘因縁品 第五十(879a)
 釈尊が比丘たちへ、舎利弗はいま刪闍耶の弟子・五百人の邪見を正しただけではなく、過去世でも彼等を危難から救っているとされ、古に馬王・雞尸が、商人等を救出した故事について説かれた。
 閻浮提の商人が五百人で、財宝を得るため大海へ出航することになった。しかし悪風に遭って羅刹国へ流れ着き、船も大破し航行できなくなった。羅刹女たちはこれ幸いと彼等を捕えた後、鉄城に軟禁して歓楽させた。しかし彼女等は、この城の南面へ行かないよう禁止したので、ある賢い商主が疑問に思い、深夜こっそりと偵察へ出ることにした。するとしばらく行ったところで、阿鼻叫喚のごとき悲痛の叫び声が聞こえてきたので、身震いし勇気を奮って高峻な鉄城へ向った。そこで彼が見たのは、喰いちぎられ散乱した、百人以上の死骸であり、まだ生きていても半身不随や飢餓状態で、互いの体から肉を割き喰いあう惨状だった。彼等は樹上の商人に気づくと救いを求め、馬王・雞尸に頼んで渡海させてもらうしか、助かる道はないと教えた。
 そこで商主は居城へ帰り、羅刹女が眠っている間に商人たちと密会し、見聞した事柄を告げると、直ちに逃げ去ることにした。ちょうどその時、馬王が来ていたので、彼等は渡海させてくれるよう懇願し、その体にしがみ付き空中へ舞い上がって対岸へ向った。彼女等は音を聞いて目覚め、商人等を連れ戻そうと、子女の姿を見せながら泣き叫んだ。しかし時すでに遅く、彼等は馬王と共に飛び去って行った。この馬王・雞尸とは釈尊の前身で、商主が舎利弗の前身であった。舎利弗はこのように過去世でも五百人を救出し、釈尊の元へ連れて来たとされている。(2004/8/19)
 断不信人行品 第五十一(882b)
 如来が多くの人々を教化し始めた頃、あちこちで比丘へ向い、子息を奪い、家を絶やすと、誹謗する者がいた。釈尊はこれを聞かれ、そうした流言は、七日で消えるものだから、惑わされてはいけないと教えられた。(2004/8/20)
 説法儀式品 第五十二上(882c)
 摩伽国王の頻婆娑羅は、外道の諸師が五日毎に集会を開き、人々の教化に大きな成果が挙がっているのを見て、仏法においてもこのような催しを行ってはどうかと勧めた。釈尊はこれに応じ、比丘たちへ五日毎に法要を開くよう指示され、その際は三宝の功徳を賛嘆して、諸法を説くべきであると教えられた。(2004/8/21)

No.0190 仏本行集経 巻第五十

 説法儀式品 第五十二下(883b)
 比丘たちが五日毎に集会を開いたら、最初は仏の功徳等を皆が唱和するだけで、人々は初学の童子なみだと批判した。そこで釈尊はこれを禁じて、弁才のある者が説法するよう指示された。また露地で集会すると、寒暑に晒されるので、堂を建て説法することも許可された。さらに在家の者から寄進を受けるのも認めるなど、種々の規則を定めて、これらをよく理解しない比丘は、和上や阿闍梨の許可なしに外遊してはならないと指導された。しかしある比丘が、これを破って勝手に外遊し、盗賊に遭って命からがら逃げ帰った。
 そこで釈尊は、彼を叱責され、古に慈者という商人が大海へ出て財宝を求めた故事を説かれた。彼は五百人の仲間と出航することになり、母親へ許しを乞うと、家に財産があるので危険を冒す必要はないと反対された。慈者は怒って母親を殴りつけ、そのまま海岸へ向った。しかし彼等は間もなく難破し、慈者だけがなんとか波に乗り、毘尸波提婆という渚へ着いた。辺りを彷徨う内に道へ出、進んで行くと美しい銀城が見えてきた。彼はこの城で四人の美女から歓待を受け、永く滞在していた。彼女たちが他の城へ行かないよう願ったので不思議に思い、夜中に抜け出して東へ向うと金城が現れた。ここでも歓待を受けたのに疑心が起こり、同様に頗梨城・琉璃城を巡ることになった。
 それからさらに東へ向うと鉄城が現れた。この城では誰も出迎えてくれず、中へ入ると城門が閉じてしまい、慈者は驚いて恐怖に捉われた。あちこち逃げ道を捜す内に、灼熱の鉄輪を被って苦悶する男に出遭って戦慄した。その時、城に婆流迦という名の夜叉がいて、問答無用でその鉄輪を、彼の頭へ被せたという。この慈者は釈尊の前身であり、母親の許しが得られず、暴力を使ってまで航海へ出た罪により、六万年も鉄輪の責苦に遭ったと説かれている。(2004/8/25)
 尸棄仏本生地品 第五十三上(887a)
 釈尊がまだ菩薩だった頃、優婁頻茖河の岸辺で、一日に穀物を一粒しか食べない苦行に励んでいた。その時、父の輸頭檀王は息子の行方を心配して、偵察のため使者を派遣した。そこで使者は具に菩薩の行状を報告したところ、妃だった耶輸陀羅は自らの安楽な生活を恥じ、夫と同じ苦行に入る決心をした。そこで釈尊は優陀夷の問に答え、古も耶輸陀羅は自分に従い苦行を修めたとされ、久遠の過去世である鹿王が、猟師の罠にはまった故事を説かれた。(2004/8/26)

No.0190 仏本行集経 巻第五十一

 尸棄[仏]本生[地]品 [第五十三]下(887c)
 その時、鹿王と共にいた牝鹿が、愛する夫と別れるに忍びず、先に自分を殺して欲しいと懇願したので、感動した猟師は直ちに彼を開放したという。この鹿王こそ釈尊の前身で牝鹿は耶輸陀羅に他ならず、過去世でも彼女と自分は苦厄を共にしたと説かれた。ところで耶輸陀羅の息子・羅睺羅は、母親が菩薩に従い苦行していたので、母胎に留まったままだった。それが釈尊の成道を聞き、普通の生活へ戻った途端に出生した。輸頭檀王はこれを聞くと、太子の出家後六年も経って、なぜ今頃子供が産まれるのかと激怒し、母子を罪に問おうと考えた。釈尊はこれを察知し、自ら手紙を書き、彼は自分の息子に間違いないと知らせた。王はこれを見て歓喜し、居城を美しく飾って母子を迎えた。その時、親族も集まり、羅睺羅阿修羅王による日食の際に生まれた子だから、羅睺羅と命名することにした。
 輸頭檀王は太子を思慕する気持がつのり、成道し波羅㮈国で布教していた釈尊を、故郷へ招請するため、車匿を使者として派遣した。彼と面会した後で、釈尊は出家後はじめて迦毘羅城の方角を向かれたので、優陀夷長老が親族のため帰郷することを勧めた。釈尊もこれを受け、優陀夷と車匿にその先触れとして、迦毘羅城へ向うよう命じた。比丘たちにも故郷へ向け旅立つ準備をするよう指示し、また舎利弗の問に答え、尸棄如来帰郷の故事も説かれている。しかし輸頭檀王は、僧形で来る二人を見て不快に思い、面会を断った。 (2004/8/29)

No.0190 仏本行集経 巻第五十二

 優陀夷因縁品 第五十四上(892b)
 釈尊はその場に応じ、三帰依法・五戒や八関斎戒法・十善法などを人々へ授けながら、迦毘羅城に向った。そこで輸頭檀王が、出家者の姿を嫌って、さきに派遣した使者と面会しなかったという報告を受けたので、再び優陀夷に王と会って教化するよう指示された。彼は宮中へ入って王の近くに立ち、発言の機会を待つと、自分が国師の子で太子の弟子であることを明らかにした。そうしてようやく座を勧められ、話し合った結果、王は仏と会うことに決まった。
 釈尊がその報せを受けると、比丘たちから因果応報について質問されたので、遠い昔、波羅㮈国にいた烏王の故事を説かれた。烏王の蘇弗多羅は、懐妊した妻から人王の食事が欲しいと懇願され困惑していた。その時、ある烏が苦心して、宮中の食事を盗み、王のもとへ運んできた。この烏王が釈尊の前身であり、食事を運んだ烏が優陀夷であったという。 (2004/9/2)

No.0190 仏本行集経 巻第五十三

 優陀夷因縁品 [第五十四]下(896c)
 輸頭檀王は釈尊が示した種々の神通力を見ると、太子が出家し大仙人になったと喜び、馬車から降りて面会に行った。その時、釈尊は同行した釈迦族の人々に、信仰心を起させるため、空へ昇りさらに多くの神通力を現された。そうして彼等の心が調えられた頃を見はからい、順次説法を始められた。人々は教義をよく理解し、苦集滅道の四聖諦に説き及ぶと、彼等のほとんどが即座に煩悩を断ち、法眼浄を得て、仏法へ帰依し優婆塞となった。しかし、王は太子を盲愛する余り、教えが理解できなかった。昔を思って憂いに沈み、釈尊を取り囲む弟子たちが気に入らず、座を立って帰ってしまった。(2004/9/3)
 優波離因縁品 第五十五上(899c)
 ある時、優波離の母が子の手を引いて来ると、釈尊の髪鬚を剃らせてくれるよう願った。そうして母の指示を受け、丁寧に仕事をこなしていた頃、輸頭檀王は釈迦族の人々を集め、太子の成道にちなんで各家最低一人は出家し、仏を取り囲むよう命じた。彼等が五百人の出家者を決め、別れを惜しんでいる内に、優波離も発心し、すぐに釈尊の許しを得て比丘となっていた。五百人の新しい比丘が生まれたところで、釈尊は輸頭檀王へ、かつて身分の低かった優波離を、その比丘たちが礼拝するよう命じた。王は慢心を克服し快く応じたので、釈尊はその行いを喜ばれ、このめでたい一事が起った因縁を説かれた。
 古の波羅㮈城に、貧しい二人の親友がいて、辟支仏と出会い菉豆を供養した。辟支仏が衆生を教化する方法は、神通力を示すしかなかったので、食を受けた後、直ちに空を飛び去って行った。(2004/9/4)

No.0190 仏本行集経 巻第五十四

 優波離因縁品 [第五十五]中(901b)
 二人が命終後、一人は波羅㮈城の王家に産まれて梵徳王となり、一人は大婆羅門の家に産まれ、優波伽摩那婆という名だった。その美しい妻が、秋節に着飾って楽しみたいと言ったので彼は喜び、金銭を工面するため炎天下に浮かれて隣村へ向った。王がこれを見て、いくらかお金を恵んでやることにし、会って話す内に意気投合して、ついに彼は最上の村を俸禄にもらって、出仕することとなった。それからも王に尽したので寵愛され、終いには国庫を折半するほどの信任を得ていた。梵徳王がある時、優波伽の膝で眠りこけていると、ふと彼に悪心が起り、王を殺して自分が全国を治めようと考えた。しかし以前からの恩義が記憶によみがえり、かろうじて思い止まっていた。王が目覚めた時、優波伽は五欲に捉われ、悪行に染まるところだったと懺悔し、直ちに出家することにした。そこで有名な仙人に就いて禅定を学び、ほどなくして四禅・五神通に達した。
 その頃、王宮の理髪師だった楡伽波羅は、梵徳王が優波伽仙人を讃嘆するので、理由を尋ね、出家に至った経緯を知って発心し、自分も彼に習おうとした。それから優波伽仙人を訪ねて出家し修行に励むと、しばらくして師と同じ境地に至った。これを聞いた梵徳王はわざわざ彼を訪問し、かつての召使に心から敬礼したという。この優波伽とは、釈尊の前身で、楡伽波羅は優波離、梵徳王は輸頭檀王のことであった。そして釈尊は優波離比丘の徳を認め、声聞弟子の中で持律第一であると讃えられた。
 そこで釈尊は比丘たちの問に答え、優波離の因果応報について、波羅㮈城にいた理髪師の故事を説かれた。彼は幼い頃、父を亡くし叔父に就いて家業を学んでいた。叔父は王の信任を誇り、他を相手にせず、ある時せっかく辟支仏が訪れたのに、髪を切ろうともしなかった。この時、彼は進んで辟支仏を散髪し、その功徳で以後二度と悪趣へ落ちなかった。またある世でも理髪師の家に産まれ、迦葉如来と出会ったのに、まだ機が熟さず、出家しても阿羅漢果に至らなかった。そこで彼は臨終時、来世で釈迦如来に出会い、解脱したいと念願した。 (2004/9/10)

No.0190 仏本行集経 巻第五十五

 優波離因縁品 [第五十五]下(905c)
 その理髪師が優波離であり、彼は昔、辟支仏の髪を調えた功徳で、常に人身を得て理髪師の家に産まれた。また迦葉如来の時、来世で釈迦如来に会い解脱したいと願ったので、いま阿羅漢果を証し持律第一の弟子になったという。(2004/9/12)
 羅睺羅因縁品 第五十六上(906a)
 ある時、輸頭檀王が仏と僧へ朝食の供養を申し出たので、釈尊はこれを許し、その場で王を教化した。それからしばらくして王は、舎利弗の導きにより法眼浄を得て、出家を願った。しかし釈尊は、王が出家しても解脱できる素質がないと見て許さず、在家で功徳を積むよう教えられた。また釈尊が迦毘羅婆蘇都城に来た時、耶輸陀羅は以前に息子のことで誹謗されたから、身の潔白を証明して欲しいと思い、仏と比丘を供養することにした。その場で釈尊が自ら、彼女に過ちはなく、羅睺羅は自分の子であると言明された。
 そこで比丘たちの問に答えられ、古に人天王の子だった、日天子・月天子兄弟の故事を説かれた。彼等は父の没後、王位継承の際に譲り合い、日天子がいったんは王位を受けて出家し、月天子へ譲るということになった。その日、仙人は出家に際して、布施されたもの以外は一杯の水も飲まないと誓いを立てた。しかしある時にふと誤り、他人の水を自分のものと勘ちがいし飲んでしまった。これを深く後悔した日仙人は、月王を訪ねて自分を罰するよう頼んだ。しかし王は、彼に与える罪がないと考え、一時自分の庭園に滞在し修行するよう勧めた。それからうっかりと六日間、日仙人のことを忘れてしまい、その後ようやく開放したという。この日仙人が釈尊の前身であり、月王は羅睺羅であった。彼はこうして日仙人を六日間放置した罪により、六年間母胎に止まったという。
 それから耶輸陀羅が息子に、俸禄をもらうよう頼みに遣ったところ、釈尊は直ちに彼を出家させた。羅睺羅は舎利弗に就いて修行し、ほどなく解脱した。釈尊もこれを認め、彼は声聞弟子中、自戒第一であると称讃された。ところで羅睺羅が出家したという報を受けると、輸頭檀王は煩悶して釈尊を訪ね、彼まで出家させては王家が絶えると嘆いた。しかしすでに後の祭りだったので、これから出家の際は、必ず父母の許しを得るように定めて欲しいと頼んだ。
 また釈尊の乳母だった波闍波提は、太子の出家後、悲嘆のあまり失明していた。釈尊はこれを哀れみ、彼女の眼を元通りに直された。(2004/9/14)

No.0190 仏本行集経 巻第五十六

 羅睺羅因縁品 [第五十六]下(910b)
 そこで、比丘たちの問に答えられ、遠い過去世で迦尸国にいた象王の故事を説かれた。欝蒸伽山である母象が端正な子を産み、長じて立派な象王となった。これを聞いた梵徳王は、猟師に命じ速やかに捕獲させた。彼は手厚く飼育されたにもかかわらず、ひどく元気ないので王が心配していたところ、ある時、山林に残してきた老父母のことを思い、憂いに堪えないと語った。王はその話を聞いて、人間でもこれほどの孝行者は稀であると感動して、直ちに象王を放免した。その頃、母象は子がいなくなった悲しみで失明し、あちこちをむやみに捜し歩いていた。象王は山林へ戻ると、すぐ母象を見つけ水浴させたところ、眼は元通りに快復した。この象王とは釈尊の前身で、母象は摩訶波闍波提憍曇彌であった。このように前世でも釈尊は、慈悲心から彼女の眼を直したという。(2004/9/15)
 難陀出家因縁品 第五十七上(911b)
 ある時、釈尊がしばしば出家を勧めたにもかかわらず、難陀は世俗の快楽に執着し応じようとしなかった。そこで釈尊は方便を用いられ、彼を僧団まで連れて来ると、すぐ強引に出家させた。しかし難陀は心中に納得できない思いが残り、如来と変らない美麗な袈裟を着るなど、戒律から外れた行いが多く、比丘たちの顰蹙をかった。また出家前に愛していた孫陀利を慕い、彼女の絵を書いて眺め、在俗の生活が心から離れず、家に帰りたいと訴えていた。そのつど釈尊はまじめに修行するよう指導し、懇ろに不浄観を説かれ、女色を誡めたりした。それでも難陀は、教えに従いながらも、依然として精進する気にならず、素行の悪い比丘六人と付き合っていた。(2004/9/17)

No.0190 仏本行集経 巻第五十七

 難陀[出家]因縁品 [第五十七]下(914c)
 釈尊は難陀へ、魚の敷物を掴んだだけで、ずっと匂いが取れないように、悪友と付き合えば悪行に染まる。香水に浸せば、しばらく芳香が漂うように、善友と付き合えば善行になじむと教えられた。また釈尊は、難陀の燃えさかる煩悩を鎮めるとき、ふつうの方法では効果なく、毒で毒を制する必要があると考えられた。そこで彼の手を執り、三十三天へ登られると、天女が歌舞する様子を見せ、まじめに修行すれば、来世で彼女たちと戯れることができると請合われた。難陀は感激し、それから戒律を守って精進することにした。釈尊は、天女と付き合うため修行する姿を目にすると、今度は彼を大地獄へ連れて来て、獄卒が釜を煮立てる様子を見せ、誰のために準備しているか問わせた。獄卒は三十三天で堕落した難陀のためであると答えたので、驚愕し深く慙愧して、以後心から真剣に修行を始めた。正信があり精進する者は必ず解脱でき、難陀もほどなくして煩悩が尽き、阿羅漢果へ至った。釈尊もこれを認め、声聞の弟子中、調伏諸根第一であると称讃された。
 そこで比丘たちの問に答えて、九十一劫の昔に毘婆尸仏の頃、槃頭摩低城に住む婆羅門の子が浴室を造って、仏と比丘僧へ供した故事などについて説かれた。その童子はさらに毘婆尸仏の入滅時、仏塔を建立して、来世でもまた如来と出会い仏法を理解して、解脱できることを願った。難陀にはこの他も多くの善業があり、釈迦族に生まれ出家して、釈尊から授記されるようになった。(2004/9/20)
 婆提唎迦等因縁品 第五十八上(918a)
 その頃、提婆達多は釈迦族の童子五百人が出家したのを見て、自分もそうしようと思い立ち父母の許しを得た。しかし釈尊は、彼の心根を観察して比丘に向かないと判断され、在家で布施などに努め、功徳を積むよう勧められた。(2004/9/21)

No.0190 仏本行集経 巻第五十八

 婆提唎迦等[因縁]品 [第五十八]中(919a)
 提婆達多は何人もの上座比丘を訪ね、出家の意思を示したにもかかわらず、皆に断られ諦めて家へ帰った。その頃、阿難も釈迦族の若者五百人が出家するのを見、これに倣おうと思って、父母に許可を願った。なんとか許しを得て親類の提婆達多へ相談したところ、彼は釈尊や高弟に受け入れてもらえなかった一件を話した。
 ところで迦毘羅婆蘇都城に摩訶那摩摩尼楼陀と摩尼楼陀の二兄弟がいて、勉学に励み素行も良く、家業が栄えていた。ある時、兄の摩訶那摩は釈迦族で勢力のある家なら、必ず一人は出家していると聞いて、自分か弟かがそうするべきだと考えた。そこで相談の結果、兄が家業を継いで弟の摩尼婁陀が出家することになり、父母へ願い出た。しかし両親は決してこれを許さず、二人とも家にいるよう命じた。その頃、輸頭檀王が隠居を希望し、後事を婆提唎迦へ託した。彼はよく国を治め、十二年間過ちがなかった。母は摩尼婁陀の意思を阻むため、新王が共に出家してくれるなら許可すると約束した。そこで彼は、小さい頃から友人だった王のもとへ行き、自分と出家してくれるよう懇願した。王は断り切れず、七年後ならそうしても良いと約束した。しかし彼は遅すぎると言って、結局七日後に出家すると決まった。
 それから婆提唎迦王と摩尼婁陀が、釈迦族の若者を多く連れて、出家する段取りをし、提婆達多と阿難も行動を共にした。しかし釈尊は、王等の出家を認めたのに、やはり二人は受け入れてくれなかった。やむなく提婆達多と阿難は、遠く雪山へ赴き、跋〓[口+耶]瑟吒長老に出家させてくれるよう頼んだ。この長老は二人の素質をよく見極めず、すぐさま具足戒を授けてしまった。(2004/9/25)

No.0190 仏本行集経 巻第五十九

 婆提唎迦等因縁品 [第五十八]下(923b)
 阿難と提婆達多は出家後、雪山を離れて釈尊の居所へ向った。そこで提婆達多は、以前出家を断られた一件に触れ、今は認めてもらえるのかと質問した。釈尊はやむなく許可し、このように提婆達多は過去世でも自分の教えに反したとして、雪山に住む二頭一身の鳥にまつわる故事を説かれた。
 出家後しばらくして、婆提唎迦長老は阿羅漢果に達し、解脱した喜びで昼夜三回「嗚呼快楽」と高唱していた。釈尊からその理由を尋ねられると、彼は在家で王位に就いていた時、厳重に身を守られながらも、夜中など物音に驚き、恐ろしくて安らげない日々だった。それが出家し解脱した今、夜間林で猛獣の声を聞いても、まったく動じることなどない。このように大きな利益を得たので、喜びのあまり快哉を唱えた、と答えた。
 釈尊はこれを称讃され、声聞の弟子中、捨家出家第一であると認められた。そこで比丘たちの問に答えて、久遠の昔、波羅㮈城にいた乞食王の故事を説かれた。彼は貧しく日々乞食して、生きながらえていたにもかかわらず、長者が落とした銅鉢を盗らずに王宮へ納めた。これに感動した梵徳王は、彼の願いを聞いて王位を譲った。その後、善賢辟支仏が空から飛んできて、乞食王の近くに降りた。その威容に心打たれた王は、懇ろに彼を供養し、来世で貧困に陥らないよう懇願した。この乞食王が婆提唎迦比丘であり、過去世の善根で釈迦族の富家に産まれ、王位を得てから出家し、解脱できたと説かれた。
 阿羅漢となってからも、婆提唎迦は仏法の教化に努め、舍婆提城で乞食たちを哀れみ、彼等が功徳を積めるように、食施を受けたりしていた。(2004/9/27)
 摩尼婁陀品 第五十九上(927a)
 ある時、釈尊が比丘たちへ説法していたところ、摩尼婁陀が居眠したので、これを叱責された。彼は以後奮起すると睡眠を削って精進し、そのため目を潰しながら、ついに天眼を得ることができた。釈尊もこれを認められ、声聞弟子中、清浄梵行第一と称讃された。後に摩尼婁陀は、衣を縫おうとして針が通らず、誰か手伝ってくれないかとつぶやいたら、釈尊が聞きつけてすぐに糸を通された。比丘たちがその因縁を尋ねたので、釈尊は無量劫の昔、燃灯如来の時、大財が仏へ燃灯供養した故事や、ある盗賊が辟支仏の舎利塔に灯油を供養した故事について説かれた。(2004/9/29)

No.0190 仏本行集経 巻第六十

 摩尼婁陀品 [第五十九]下(928a)
 摩尼婁陀は、過去世で辟支仏へ燃灯供養するなどの功徳を積み、いま仏弟子中天眼第一となった。またある時、長雨にたたられ、鹿野苑の比丘たちが飲食に困った。そこで翌朝、摩尼婁陀が波羅㮈城へ托鉢に行ったところ、親類がいたわけでもないのに、五百釜の御飯を供養され、釈尊はじめ皆が満腹した。
 摩尼婁陀はこの一件に因んで、遠い昔、波羅㮈城に住んでいた時の故事を話した。ある年に飢饉があって、婆斯吒辟支仏が城中を托鉢しても、まったく食べ物を供養してもらえなかった。そこで彼は貧しい暮らしの中、家にあった一升の稗飯を供養した。その後、道で屍が纏わり付いて離れず、家まで運んで来ると、それが黄金に変った。このように一食を辟支仏へ供養しただけで、来世で三十三天へ転生し、今生では出家して、涅槃に至ることができたという。(2004/10/2)
 阿難因縁品 第六十(929c)
 阿難は、高弟たちの勧めで釈尊の侍者を勤め、心から如来に奉仕して、その所説を悉く記憶し、永く忘れることがなかった。釈尊もこれを認め、声聞弟子中、多聞利智第一であると称讃された。
 そこで釈尊は比丘たちの問に答えられ古に波羅㮈城を治めていた、梵徳王の二太子に関する故事を説かれた。長子の喜根王子は、聡明で慈悲心にあふれ、世俗を厭離する志が深く、父母へ懇願してようやく出家した。その後、しばらくして悟りを得、辟支仏となった。父王はこれを喜び、彼を王家へ招いて懇ろに供養することにした。弟の婆奴王子は、兄によく仕え出家を勧められていたのに、父母がなかなか許可しなかった。ある時、辟支仏は彼の人相を見て、七日後に臨終を迎えると知った。そこで父母へもうすぐ別離するなら、婆奴王子の出家を認め、在家で死去することのないよう強く勧めたせいで、ようやく志が遂げられたという。この婆奴王子が阿難であり、辟支仏の元で一週間、教えを受けた因縁で、釈迦族の大家に産まれ、出家して諸々の仏法を得るようになった。また阿難は過去世で、波羅㮈城の大長者・僧薩陀那の娘に産まれ、ある辟支仏の持鉢を直し、来世で物事を忘れず記憶できるよう願ったので、今生で多聞になったと説かれている。

 この他、分那婆素・宮毘羅・難提迦などについては、出家の因縁がよく分らない。
 またこの経典については「大事・大荘厳・仏生因縁・釈迦牟尼仏本行・毘尼蔵根本」等という名が与えられている。(2004/10/3)





  No.0191 仏説衆許摩訶帝経 十三巻 法賢訳    ⇒【目次】

《参考文献》
 『国訳一切経 印度撰述部32 本縁部四 過去現在因果経 衆許摩訶帝経
 仏所行讃』 常磐大定 寺崎修一 平等通昭 訳 大東出版社1971(1929)

No.0191 仏説衆許摩訶帝経 巻第一(932a)

 迦毘羅国の尼倶陀林で釈迦族の大衆が、釈尊は過去世において何姓何族で、どのような因縁により仏となられたか、知りたいと願った。そこで釈尊が目犍連へ、大衆の疑問に答えるよう命じられたので、彼は過去世について世界の開闢から説き起こした。初め遍静天にいた衆生は、福寿が尽き人間として産まれ、自然に生じる地味を食べていた。後に不善行が蔓延しそれが消滅してしまうと、次に地餅が生じた。これも消滅すると林藤が生じ、同様に香稲が生じた。最後に普通の稲が生じ、これは苦労して耕作しないと実らないものだった。そのため不正が起こらないように耕地を治める田主が現れ、これが刹帝利でその最初を三摩達多王と言い、子孫が連綿と王位を継承していた。
 ところで迦葉如来がまだ菩薩だった頃、兜率天から訖哩吉王宮へ下生し、王位を捨てて修行し成道した。訖哩吉王の最後の子孫が迦囉拏王で、彼には瞿曇と婆囉捺嚩惹の二太子があった。瞿曇太子は世が無常であり、王家を辞して出家したいと懇望した。そこで山中へ行き、訖哩瑟拏吠波野努仙人のもとで修行に励んだ。 (2004/10/7)

No.0191 仏説衆許摩訶帝経 巻第二(935c)

 その頃、補多落迦城の弥里拏羅はある婬女に惚れ、衣服や宝物を貢ぎながら裏切られ、女が他の男のもとへ去ろうとした。激怒した弥里拏羅は婬女を刺し殺すと、瞿曇太子が住む草庵の近くに剣を隠して出奔した。衆人は凶器を見て、太子が犯人であると決め付け訴え出たので、王は激怒し彼を磔に処した。師匠の金色仙人は、これを不憫に思うと神通力で風雨を降らせ、その苦痛を癒してやった。この時、彼は王宮での生活を回想して射精し、それが卵となり、二童子が産まれた。仙人は彼らを引き取り育てていると、太子の旧臣が世継問題で訪れ、童子を連れて王位に就かせた。これが甘蔗王であり、子孫は百代続いて、みな補多落迦城を都とした。最後の甘蔗王は造園にまつわる事件で、太子を放逐した。彼は王命に従い、雪山の麓・婆儗囉河岸に住む迦毘羅仙人を訪ね、近くに都城を建設した。仙人の名に因み迦毘羅国と名づけ、子孫も代々、この場所に都を置いた。その星賀賀努王に浄飯・白飯・斛飯・甘露飯の四子がいて、王位を受けた浄飯に悉達多・難陀の二子がおり、悉達多の子が羅怙羅だった。目犍連はここまで説くと、仏に合掌し席へ戻った。
 ところで酥鉢囉没陀王は、星賀賀努王の太子が有徳であると聞いて、摩耶と摩賀摩耶の二女を嫁がせようと考えた。その時、釈迦菩薩は兜率天宮にいて、下生する国土を種姓・国土・時分・上族・母身という五種の観点から窺い、最終的に浄飯王家へ産まれることに決定した。(2004/10/9)

No.0191 仏説衆許摩訶帝経 巻第三(939a)

 その時、摩賀摩耶夫人は六牙の白象が天から腹中へ入る等、四種の夢を見て驚き、これを浄飯王へ告げた。王はさっそく相師を呼んで占わせると、懐妊の吉夢であり、産まれた子は必ず転輪聖王か仏陀になると予言した。しばらくして夫人は、園遊の最中、無憂樹を見て産気づき、瑠璃の如き男児を出産した。その太子は生まれてすぐに、四方へ七歩づつ進んだ。そこで王は、また相師へ命じ太子の人相を観させ、三十二相が円に備わっていることを確認した。しかし摩賀摩耶夫人は七日後に命終し、忉利天へ転生した。
 その頃、阿私陀仙人は菩薩の誕生による奇瑞を察知して、迦毘羅城を訪問した。そこで王の歓迎を受け、さっそく太子の人相を拝見すると、菩薩の成道までに自分の寿命がもたないことを知り、思わず涙を流した。それから太子は健やかに育ち、学齢期を迎えたので、五百人の眷属と読書を習った。しかしすでに、五百種の文字について精通しており、師匠は何も教えることがなかった。また、五種の弓射も難なく体得した。
 ここでは三十二相を逐一列挙し、その内容を解説している。(2004/10/10)

No.0191 仏説衆許摩訶帝経 巻第四(942b)

 浄飯王は吉日を選び、太子の妃を選ぶため、釈迦族の少女を一同に宮中へ集めた。その中に、福相を美しくそなえた耶輸陀羅がいて、太子は一目で気に入り、彼女を夫人として迎えることになった。
 太子は夫人をもらった後で、城外へ園遊に行きたいと思い、御者を呼んで準備させた。それから馬車に乗って城門を出ると、白髪の年老いた人に出会った。これは何者かと御者へ質すと、老人であり、誰もが老いを免れないと聞いて、憂いに沈んだ。後日、また心身の弱った病人や、木石の如き死人に出会って、ますます煩悶を深めた。ある日の外遊中、天子が化けた出家者と出会い、執着を離れ修行に勤しむ者であると聞いて、自分の歩む道は、これしかないと心に決めた。(2004/10/12)

No.0191 仏説衆許摩訶帝経 巻第五(945b)

 その頃、耶輸陀羅は夜に八種の夢を見て驚き、太子にその内容を話した。太子はそれが出家の兆であると知り、解脱を求め山中へ入りたいと語った。いよいよ出家の時期が到来し、帝釈天に厩へ誘導された太子は、驚いた馬王・迦蹉迦をなだめて、菩提を証するため雪山の修行場まで送るよう命じた。耶輸陀羅は物音を聞きつけ、浄飯王へ太子が出家してしまうと告げたにもかかわらず、帝釈天等の守護で難なく城外へ出た。目的地に着いて、迦蹉迦を帰すと、宮中では馬上に太子の姿がないので、大騒ぎになった。馬王も皆が嘆き悲しむ声を聞き、悲痛のあまりしばらくして命終した。太子は帝釈天から袈裟をもらい、比丘としての第一歩を進めた。
 またある時、菩薩(太子)は民弥娑囉王と会見し、出家の目的を説いて、成道後に教えを授けると約束した。(2004/10/13)

No.0191 仏説衆許摩訶帝経 巻第六(948b)

 菩薩は阿囉拏迦羅摩を訪ね、有想天三摩地門について教えられ、すぐにその行法を体得すると、これはまだ究極の法でないと考えて立ち去った。次に烏捺囉迦囉摩子を訪ねて、非非想處三摩地門について教えられると、これも求める法ではないと判断した。その頃、浄飯王は太子を思慕し、多くの家臣を侍者として派遣した。しかし菩薩は、五人のみ認めて残りは帰国させ、尼連河の辺で修行することにした。禅定に励んで、食事を減らし、毎日それぞれ一豆一麻一米一麦ほどしか口にせず、体が痩せ細り歩行も困難になった。そこでこうした苦行も真の法ではないと考え、栄養のある食事を採ると、五人の侍者は堕落したと勘違いして立ち去った。
 この時、童女が天子から勧められ、尼連河で沐浴する菩薩へ粥を供養し、これを食べた後、金剛座に登り結跏趺坐して、解脱するまでここを起たないと誓った。魔王波旬はこれを聞くと、自分の領域が侵されることを恐れ、三女を派遣して誘惑した。しかし何の効果もなく追い返されたので、魔王は怒って配下の軍勢を率い来襲した。これに対し、菩薩は慈心定に入って動じず、宿命通・天眼などの神通力で魔軍を退却させ、四諦を思惟して、ついに成道した。(2004/10/14)

No.0191 仏説衆許摩訶帝経 巻第七(951a)

 釈尊は七昼夜禅定に入り、その間なにも飲食されなかった。そこで天子の勧めにより、布薩婆梨迦商主が近くを通りかかり、食事を供養した。釈尊は彼へ三帰を受けるよう教え、終生仏弟子となることを誓わせた。その時、魔王が訪れて、成道後すみやかに涅槃へ入るよう誘った。しかし釈尊はその意図を察し、弟子たちへ仏法を伝えない限り、涅槃に入ることはないと断った。釈尊はさらに禅定を続けると、十二因縁について観察し、生死輪廻の原因を理解された。
 はじめ釈尊は、自得した教義が難解すぎて、衆生へ説法する気にならなかった。梵天はこれを察知し、もし如来が説法しなければ、世間は破滅すると心配し、勧請に訪れた。釈尊はそれを受けて、ようやく衆生の根機に合わせ、法を説くことにした。そこで以前の侍者だった五人を相手に選び、波羅奈国の鹿野苑中を訪ねた。五人は釈尊の姿を見かけた時、歓迎しないでおこうと相談したのに、威容に圧倒されて、そそくさともてなした。そんな彼らへ釈尊は、貪欲と苦行の両極端から離れ、中道を歩むべきであり、その際は八正道を修める必要があると説かれた。また三転十二行法輪を示されたところ、鉤抳等が法眼浄を得て、出家を懇願した。さらにここで五蘊がみな無常・苦・空・無我であると教えられ、五人はみな解脱に至ることができた。釈尊はこの時、仏・法・僧の三宝が成就したと宣言された。(2004/10/16)

No.0191 仏説衆許摩訶帝経 巻第八(954c)

 波羅奈国に住む倶梨迦長者の子・耶舍は、世俗の生活を厭離して家から出、早朝に経行する釈尊を見かけ、その威儀に感動して、四聖諦などの説法を受け、たちどころに解脱し、比丘となった。その頃、長者は息子がいないことに気付き、釈尊を訪ねてきたので、彼にも説法したところ、法眼浄を得て仏法へ帰依した。
 また耶舍の兄弟四人や友人五十人も出家を希望し、みな解脱して阿羅漢が六十人に増えた。(2004/10/18)

No.0191 仏説衆許摩訶帝経 巻第九(957c)

 摩伽陀国の著名な相師・烏嚕尾螺迦葉は、阿羅漢であると自称し、弟子が五百人いた。釈尊は彼を教化しようと考えて訪問し、一夜の宿を借りた。そこには毒竜が住んでおり、襲いかかってきたところ、釈尊の神通力に降伏し持鉢の中へ収まった。迦葉はこれを見て驚き、釈尊の法力を認めながらも、自分と同等の阿羅漢であると見なしていた。それから梵天などが夜中に訪問したり、様々な奇瑞を見せられながら、迦葉は釈尊の力量を軽んじていた。
 ようやく迦葉が劣っていると認めた時、釈尊は彼がまだ阿羅漢に達していないと批判された。これでようやく迦葉も目が覚め、仏法へ帰依して出家した。この時、五百人の弟子も同様に出家している。(2004/10/19)

No.0191 仏説衆許摩訶帝経 巻第十(961a)

 烏嚕尾螺迦葉には曩提・誐耶迦葉の二弟がいて、それぞれ二百五十人の弟子を擁していた。彼らは尼連河に兄の祭祀用具が流れているのを見て、盗賊にでも襲われたのに違いないと思い、急いで駆けつけてきた。しかし、兄が沙門の姿をしているので驚き、その訳を質した。迦葉は、釈尊から阿羅漢でないと諭され、仏法へ帰依した経緯を話した。これを聞いた二人も、ただちに弟子たちと出家した。
 後に釈尊は、阿羅漢となった千人の弟子たちと誐耶山頂にいたところ、その噂を聞き、民彌娑囉王が大勢で聞法に訪れた。そこで釈尊と烏嚕尾螺迦葉の姿を見かけて、どちらが師事しているか疑問に思った。釈尊はこれを察知し、神通力を示すよう命じられたので、ようやく迦葉の方が弟子だと認めた。皆の疑問が氷解したところで、釈尊は世の無常などについて説法を始めた。(2004/10/20)

No.0191 仏説衆許摩訶帝経 巻第十一(964a)

 釈尊は五蘊が無常・苦・空・無我であり、これを如実に観察して、あらゆるものに対し不著不捨でいるなら、解脱し輪廻を断てるようになると説かれると、その場で民弥娑囉王等は法眼浄を得た。またこのような果報を得た因縁に関し、王の前身であった羯里計転輪聖王が、阿囉曩毘如来の仏塔を供養した功徳によるとされている。民弥娑囉王はその後、迦蘭那迦竹林に精舍を造って釈尊へ寄進した。
 その頃、給孤長者は所用のため王舎城に止宿していた。その際、家人が寝ずに遅くまで、仏や比丘たちを招くため食事等の準備をしているので、自分も一度面会したいと考えた。後日、寒林を経行中の釈尊に会って、その威容に感激し、四聖諦などの教えを受け、仏法へ帰依した。それから自分の国へも来て欲しいと懇願し、僧団を居住させるために、精舎の建立を約束した。長者は帰国すると、祇陀王子の庭園を買い取ることにし、その要求通り園内に黄金を敷きつめた。(2004/10/21)

No.0191 仏説衆許摩訶帝経 巻第十二(967c)

 釈尊は寒林で給孤長者の招請を受け、まず外道を調伏して、精舎の建設を助けるため、舎利弗を舎衛国へ派遣することにした。舎利弗は、さっそく外道たちと議論の場を設け、赤眼婆羅門を神通力で屈服させた。彼は素直に負けを認め、出家し仏法へ帰依した。多くの外道もこれに倣い、教化されたので、舎利弗は長者と精舎の建設に取りかかった。釈尊は精舎が完成したと知ると、弟子たちを連れて舎衛国へ向かった。精舎に着いた釈尊は、祇陀王子の気持を汲み取り、ここを祇樹給孤独園と命名した。
 舎衛国の勝軍(波斯匿)王も仏法へ帰依して、迦毘羅城の浄飯王へ書を送ると、太子の悉達多は成道し、衆生を教化していると報告した。父王はこれを読み思慕のあまり、帰国を催促するために、烏那曳曩大臣を派遣した。釈尊も時機の到来を知ると、目犍連を先発させて、父母や親類たちの教化を命じた。それから弟子たちを率い、迦毘羅城へ向かった。この時、烏那曳曩は浄飯王へ、太子は如来となったのだから、子供扱いするべきでないと進言したので、王も素直に従い仏足へ礼拝した。(2004/10/22)

No.0191 仏説衆許摩訶帝経 巻第十三(971c)

 釈尊は法座に就いて、大衆の根機を観察した上で四聖諦を説かれると、釈迦族の多くが須陀洹果を得た。また釈尊は特別に種々の方便で教化したので、王も我心が離れ須陀洹果を得た。その時、王族たちが釈尊の左右に釈迦族の若者を侍らすべきだと考え、王もこれを許可して、家臣の子弟を選び出家させることにした。
 斛飯王の子・阿儞嚕馱は父母の勧めで出家を決意し、友人の賢王を誘った。賢王は自分が出家したら、提婆達多が王位に就くと考え、強引に彼を誘って同行させた。このように釈迦族の若者が五百人選ばれて出家した際、王の召使をしていた烏波梨は、舎利弗の助けで七日前に出家し、後に来た賢王は我心を克服して彼へ礼拝したという。(2004/10/23)