雨読





           魂のこと 《1989》





   
【目次】


   
「宗教と非宗教」  「道と理」  「閉じた世界」  「文化的生活」  「読書」 

   「自己表現」  「死について」  「死への思索」  「死への恐れ」  「与えられたこと」 






  「与えられたこと」 19891016   ⇒TOP


 半月ぶりの休みらしい休みで、ほっと一息ついている。
 つまらない連中に囲まれ、下らない仕事や遊びをさせられると、心の底から疲れてしまう。また、つまらない人間ほど不思議に付合いを強制し、なかなか人を離してくれない。少しでも避けるそぶりが見えると、あいつは自分を嫌っている、あいつは人付合いの悪い奴だ、などと言いふらす。

 しかしほんとうは道義にさえ反していなければ、どんな下らない仕事や遊びも、いかなる高尚なものと比べて本質的な優劣があるわけではない。いずれも生きるための術であり、また気晴らしであり、その人にとってはかけがえのないものなのだ。誰かが勝手に思い込み、分け隔てすることはあっても、それ自体の価値になんの違いもない。つまらないのは、それが元々つまらないものだからではなく、ただ自分の好みからそう感じているだけだ。あるものをつまらないと言って排斥するのは、己の思い込みに盲目なため事物に対して不明であると、暴露しているに過ぎない。
 さらに自分が日々携わっているあらゆることは、必然的に携わらなければならないものとして与えられている。たとえどれほどつまらなく感じる雑事でも、それをやれるのはこの世でただ自分しかいない。極論すれば、それはこの世で最も大きなはたらきが、きちんと働くために必要なので、決して避けたり逃げたりできない。たとえ最終的に拒絶という行為を選択したとしても、まずいま与えられたことには無心で携わるしかない。それをいちいち愚痴ったり悩んだりするのでは、大きなはたらきに対し理解が足りないと言われてもしかたがない。

 「わたし」は決して運命論者でないつもりでいる。しかしどうもこの世で出来ることは、概ね定められているように思えてならない。よく現代人はまったく自由な意志に基づき、自分の行為はすべて決定できると考えている。ところが現実に行うひとつひとつの動作や思考は、すべてはっきりとした意志の統制の下に、くまなく意識され為されているわけではない。むしろ普通の行為は、ことさらに意志や意識が入ると、ぎこちなくなってしまう。ほとんど気にせずしている方がうまく流れていくものだ。
 およそ円満な行為とは、わざとらしい人為を超えた大きなはたらきに根ざしてこそ、可能ではないだろうか。ひとつひとつの行いは、はたらきの中からそれとなく与えられており、これを敏感に感じとりきちんとこなしていくうちに、おのずと一生の大事も成就されてゆく。こうした行き方には、ほとんど自意識らしいものの入る余地はない。
 自分があるものを好み他を嫌うのも、実はもともと大きなはたらきから与えられていると言っていい。ある傾向を持つことにより、自然と自分がそちらへ進むよう促されているのだ。この意味で自分の好みも、ある程度は尊重しなければならない。ただし自分という個体の好みに捉われ、この世の物事や大きなはたらきを疑ってはならない。この世に何かが存在するということの不思議な意味をよく考え、自分勝手に執着したり排斥したりせず、ただ淡々と接するようでありたい。




  「死への恐れ」 19890924   ⇒TOP


 人は死に対して不安を持つ。恐怖を感じる。そこでこの感情をなんとか克服しようと、死後の生をあれこれ想像したりする。しかし自分がまさに末期にあって、死の顔を間近に拝もうとしているとき、その後どうなるかなどと考える暇はほとんどないだろう。
 天国にしろ地獄にしろ何であれ、死ぬ瞬間の自分にとっては、あるかどうか不確かな未来に過ぎない。その瞬間に現出している事態ではない。人は死のような極限の危機的状況下で、先のことを思えるほど余裕のある生きものではない。死ぬときはおそらく死んで行こうとする自分しか頭にないか、もしくはそれすら感じられないかのどちらかだろう。かつてどれほど真剣に思いを寄せていたとしても、まさしくその時には、死後のことなど念頭に現れるわけがない。

 死後生などの想像物によって、死に対する恐れを克服しようとするのは、この点で無意味に思われる。それはたぶん現実に起る死という事態を、そのまま迎えられる準備ができてはじめて、克服されるものなのだろう。死ぬということを必然の帰結として納得し、違和感がなくなってはじめて。
 この死ぬ心の準備ということを、生きている内からしておく必要がある。死に対する恐れとは、その準備不足から起るのであり、死が怖いのなら、何が怖いのかはっきりさせなければならない。肉体の苦痛、存在の消滅等々、自分が恐れる要素をしっかり見きわめ、医学に当ったり先人の例を学んだりして、生きている間に克服方法をよく検討しておけば良い。
 死に関しても、あくまで自分が生きて死ぬ、この一生のうちで解決する。そうしてこそほんとうの意味で、死は克服されるのだと思う。




  「死への思索」 19890918   ⇒TOP


 死に対し再びよく考えるため、「発想カード」に残っていた関連のある思索を、ここに書きとめておきたい。実はいささか幼稚な部分があり、少々ためらいを感じている。しかしそれも叩き台としてなら、意味がないわけでもないと思うのだ。

  1988 10・9
 まだまだ「わたし」には、自身の有限性に対する自覚が欠けている。自分はこれから何でもできるという幼い幻想を懐いている。それで将来に期待するばかりで、今の一瞬一瞬の重要さをよくわきまえていない。
 これからできることは、わずかなのだ。一生の時間など、たった一つの物事でさえきちんと完成するには短すぎる。そして個々に付与されている能力や力量も、決して多いものではない。ほんとうはむなしく過ごせる時間など、皆無なのだ。だから死ぬまで日々己を厳しく見つめ、与えられているものを実現する努力を怠ってはならない。

  1988 10・11
 「悟り」そのものに直接むすび付きはしないとしても、「悟り」を得るための重要な課題として「死」がある。「生」ばかりでなく「死」をも正面から見据えるところに、「悟り」の醍醐味がある。
  また「自己実現」ということを考える際にも、成長の最終段階として「死」は当然重要な課題となる。実際きちんと自己を実現できた人は、容易に「死」を受容できるようになるという。
 いずれにしろ人がよりしっかり「生」を営もうとするとき、「死」の問題は避けて通ることができないらしい。

  1988 10・12
 いちおう知識としては、「生」が有限であり、一瞬一瞬に全力を尽すべきなのだと理解できる。この命がそう長くないと、深く実感できて始めて、密度の濃い生き方ができようというものだ。しかし日常生活では様々な障害があり、平静を失うことも多くて、それがなかなか心にまで浸透しない。とにかくもっと思索を進め自己を深く掘り下げて、どんな状況下でも限りある人生を有意義に過ごせるよう、精神を高めて行かなければならない。

  1988 11・16
 絶対者と一体になる、仏心に住するという立場からすると、そもそも来世とか輪廻とか言うことは問題にならない。この世で生きているうちから、永遠に生きていることになるのだから。
  よく通俗な宗教で取りざたされる天国・地獄など、あってもなくてもべつに心を乱されることはない。この世ですでに天国・地獄は経験済みで、精神が定まっていればそんなものには惑わされないのだ。つまりはそうした永遠の立場をどのようにして得るか、ということだけが問題になるので、死後がどうであろうと放っておけば良い。




  「死について」 19890910   ⇒TOP


 再度、死について考えてみようと思う。今までもこれについてたびたび思索しており、自分なりの態度を明確にしてきた。しかし以前はどうしても死の恐怖を克服しようとする意識が強く、対決姿勢の濃いものだった。今度はそういう態度を棄てて、避けられない死となじみあい、ともに歩むものとして考え直したい。
 死となじむことにより、いくつかの大きな恩恵が与えられる。まず自分の生の有限さを深く認めることで、毎日の一瞬一瞬を大切に過ごせるようになる。次にふだんから自分の末期を意識することで、いつ人生の終末を迎えても動じない心の準備ができる。また死に対してさえそうなのだから、生のあらゆる局面でも、確固とした態度が採れるようになるのだ。

 生だけ捉えても死だけ捉えても、人生観としては欠陥がある。生一辺倒ではいつまでも生きていられるかの如き非現実的な思考に侵され、逆に死一辺倒では現実を無視した逃避的な思考に毒されてしまう。
 理想的には生・死を分ける必要すらなく、ただ真の絶対者(仏・神など)に帰依していれば、この上もなく生き、そして死ぬことができる。永久に存在したいという人の切実な願いが、永遠に存在する絶対者と一体化することで完全にかない、生・死の隔たりが意識されなくなるからだ。実際に死を迎えるときでも、絶対者に随順しつつすべてを任せきって逝くという態度が最も好ましく思う。おだやかに死ねる人というのは、そうしたものを心に懐いている場合が多いらしいのだ。
 つまりは自己を超越した存在に根ざして生を営んでさえいるなら、ことさら死に思いをめぐらす必要はない。生・死に捉われない真の意味で自由な世界の、住人となることができるからだ。しかしただ漫然と生きているうちは、なかなかこうした世界に気づけない。間近に死と向い合ってから、慌ててそれを考えるということの方が多い。この意味でもふだんから真剣に死を思うべきなのかもしれない。

 また、自分がどれだけ確固とした態度で生きているか試すために、死の恐怖を思うという方法がある。死ぬ一歩手前の自分を、いろいろな場面にわたって可能な限りありありと想像して、心の動揺を観察するのだ。まだ精神に少しでも不安定な要素があるときは、どれだけうまくやり過ごそうとしても、自分の正直な目はごまかせない。かならず動揺して馬脚をあらわすことになる。このように死は、生の中で心を鍛錬する際にも、有効な手段となる。
 総じて死は、生に深みを与え、生の質を試す最良の試金石となるようだ。




  「自己表現」 19890822   ⇒TOP


 ちょっと県外にでも出れば誰も知る人がいないような田舎で、一生埋れても本望かと言われると、やはりいささか動揺してしまう。「わたし」は子供の頃から何らかの分野で自己表現をして生活することに憧れていた。独創的な何かを生みだして世に問い、力のかぎりそれを制作し続けて生活する。こうした行き方こそ、自分が真の幸福に到る道だと考えてきた。
 そうするとこの田舎で平凡な勤め人になることは、地獄に匹敵する苦痛となる。心にほとばしる思いがあっても、表す道が遮断されているのだ。それはあたかも出口の閉ざされた迷路を、ただぐるぐる回っているだけのようなもので、まったく救われる要素がない。一般的な意味での自己表現にこだわる限り、ここで「わたし」は一点の光もささない、閉塞した暗黒世界の住人とならざるをえない。

 しかし最近、こうは思わなくなってきた。普通、自己表現しようとする場合、まず自分を見つめ賦与されている才能を開花させる。次にこれを多くの人にも知ってもらい、生活の手段としたり趣味として楽しんだりする。そうして生きがいとなったこの営みを通して、生きる幸せを獲得しようとするのだ。結局のところ、この生きがいと幸福をどのようにして得るかが問題なのだと思う。しかしそれなら、ことさら特定の分野で表現することのみにこだわる必要はない。とにかく人に知られたい地位・名声が欲しいと渇望する者はいざ知らず、人生の幸福をしみじみ味わいたいというのであれば、心掛けしだいで充分に可能だ。他人など本来関係なく、ただ自己というものを徹底的に知るだけで、確実にそれは味わえるのだ。
 現代社会の中でよく見聞きする自己表現の行為は、なにか他人にすがる要素が強く感じられる。多くの人に受け入れられることのみに目を向け、自己の奥底から沸き起こってくるものを表現する、という方向に関心を示さない。それではただ表面をうまく取繕っただけの、浅薄な行為の集積に過ぎなくなり、こんなことばかりしていたのでは、いつまで経っても真の生きがいや幸福など見出せるはずがない。誰ひとり知る者がなくとも関係なく、心から納得して行うのでなければ。
 人が認める何らかの分野に携わっているから、自分があるわけではない。この自分をきちんと理解するために、あらゆるものを利用するのだ。ただ漫然と思索するだけでは思春期の子供の域を出ることはなく、世の厳しい現実に触れてはじめて自分とは何者かよく分かってくる。そこであえて何らかの分野に携わり自分をしっかり把握して、常に有為転変し翻弄されるこの苦界で不動の立脚地を見出し、真の魂の平安が得られたとしたなら、もうこれ以上望むべきことはなにもない。その時点で「わたし」の人生の目的は、成就されたと言っても過言ではないのだ。
 誰にも知られなくてもかまわない。苦悩の尽きない人生において、魂の平安をしみじみと味わえたら。そして誰も分からなくとも、このように生を成就した「わたし」がいて、何かを少しでも人に分け与えてあげることができたら、それこそ真の自己による自己の表現となるのではないだろうか。もし表現するとしたなら、そうした方法でこそやりたい。特別なにかを表す人にはなれなくとも、自分自身をよく知る人に、「わたし」はなりたいと思うのだ。




  「読書」 19890723   ⇒TOP


 梅雨もそろそろ終わったらしく、暑い日が続いている。きょうは休みの順番で、久しぶりに終日読書していた。新しく買った数冊の本の中身を見たくて、さっと飛ばし読みする。真剣に精読したわけではなかったのに、なぜか心底ほっとした気分になる。ちょっと有意義な休日だった。

 どうも「わたし」は、ほんとうに書物が必要な人間らしい。世にあまたある修行法の中で、ただ読書だけが向いているようだ。良いことが書いてある本に触れ、その内容をきちんと理解して、よく思索し実践するという行き方を好む。
 少し前にそんな頭でっかちなものより、瞑想などを用い直接体で真理を捉える行法の方が、より確実ではないかと考えた。とりわけ物事に動じず恐れを知らない精神などは、そうした方法でしか得られないのではないかと思った。そこでとにかく毎日、本と接する時間を削って瞑想のまねごとに勤しんだ。
 確かに瞑想とは素晴らしいもので、マニュアル通り行うだけでいろいろ目に見える効果が現れた。心が落ちつき、妄想がおさまり、体の調子も良くなった。しかし、なぜかもうひとつ納得できず、迷いが残ってすっきりしない。どこかやり方がまずいとか、まだ行う時間が短いとかの、不備なところがあるせいかもしれない。けれども胸に手を当てて反省すると、何かそんな程度の問題ではなく、本質的に合わないことをしているような感じがするのだ。瞑想は確かに必要だとしても、主として行うことではないような気がしきりにする。

 思えば「わたし」は、これまでずっと書物によって道を求めてきたのだ。当初はあくまで一時的に寄りかかる杖のようなものだと考えたのに、今となって見るとここまで曲りなりにも来られたのは、ほとんど本のおかげと言って良い。それは単なる助けなどではなく、道へ導きそこを進ませるもの、つまり歩みそのものだったのだ。それをないがしろにするようでは、この先どこへも行けなくなるだろう。
 瞑想などの行法は、確かに有効なものに違いない。これを徹底的に行う人がいれば、まちがいなく真理を体得できると思う。しかしそれはどうも「わたし」に向かず、回り道でも書物を読み込んで、確かな事柄を身に付けて行くしか、軟弱な自分には適当な方法が見あたらないのだ。




  「文化的生活」 19890610   ⇒TOP


 忘れないうちに、「わたし」が田舎へ帰ってきた理由をまとめておこう。
 その最大の原因は、やはり10年近く京都にいて、都会生活の騒々しさが我慢できなくなってきたことだった。人口が集中しているせいで、高い家賃を払う割にろくな所へ住めない。狭い場所に多くの人間がおり、四六時中他人の存在を意識していなければならない。心と心が触れ合う本当の交渉はわずかしかないのに、隣人などとお互いのプライバシーを侵しあう敵対的な関係ばかりが増えてくる。
 都会生活は基本的に消費中心であり、食品・日用品・交通費等々、毎日何かを買わないではいられない。それなのに物価が高く、すぐ一月の収入など飛んでしまい、いつも満たされない欲望を抱えていなければならない。
 また日々多くのメディアから過剰に情報が流され、受けとり切れずただ茫然と見送るだけになる。それも一過性の情報がほとんどで、よほど注意していなければ主体的に選ぶことすら困難だ。何か欲しいものがあってもうっかりしていて、気づいた時にはもう入手できないということも多く、ひどくがっかりしてしまう。
 つまり総じてその窮屈さが便利さを上回るようになったので、都会を離れたいと願うようになった。そしてうまい時機に就職口が見つかり、渡りに船というわけで田舎へ戻ったのだ。しかし実はこの程度のことで、都会に愛想が尽きたと言えば嘘になる。そこには人を惹きつける大きな魅力があるのだ。

 まずそれは、言うに及ばず経済的な点だろう。やはり都会に出なければ、選べる職種や得られる収入が少なすぎる。現代社会でも農林水産業が中心の地域では、出稼ぎに行かなければならないことが多いのだ。
 次に、野心のため、自分の可能性を試すために、都会へ向うということもある。何らかの分野で地位・名声を得たいと志す者、全国水準で大きな仕事に従事したいと願う者は、地方にいても仕方ない。
 しかし、実はこうした理由で都会に行かざるをえない者よりも、むしろ便利な生活や華かな文化に惹かれる者の方が多いのではないだろうか。
 都会では代価さえ払えば、あらゆる品物が手に入る。さまざまな情報が乱れ飛び、最先端の流行にもかんたんに触れることができる。高尚なものから低俗なものまで、地方では見られない種類の娯楽で飽きるほど遊べる。高度な学問や芸術などには、ほとんど都会でしか接することができない、等々。
 これら文化的要素は、ひどく人間を惹きつけるものだ。実際、都会には高度な文化的生活を営んでいる者が―少数―いて、その生き方がマスコミでさわがれ、そこへ行けば誰でもそうできる、という幻想が植付けられている。

 実は「わたし」も漠然とそんな期待を胸に都会へ出た。恥ずかしながら無能なくせに学問への志を持っており、そこへ行かなければならない理由があった。師事したく思うその道の第一人者は都会にしかおらず、良質の文献は都会でしか入手できない。そこでいくつかの事情から京都の街を選び、学問への道を模索することになった。指導されるままに難しい専門書を少しずつ読み、ちょこちょこ論文を書く。また見識を高めるため色々な芸術に接し、寺社旧跡を訪ねる。ちょっと分かれば、これほどおもしろいことはない。
 そうこうするうち10年近い歳月が経ち、ほんとうに目指す分野が絞れて、もう一歩さえ踏み込めばその道の専門家になれる見通しもついた。限られたある文化的分野で一生を過ごす者、いわゆる文化人に。
 しかし「わたし」には、どうしてもその一線を越えて文化的生活に没頭できなかった。文化というものの性質がおぼろげながら見えてきたからだ。

 第一に文化とは本質的に人工のもので、どこか技巧的なところがある。洗練すればするほど人為くささが増して、不自然で病的な性格に変質するのだ。そのため特に最近の文化は、一般にできるだけ人工的な要素を除き自然へ回帰しようとしている。もしかすると、人の手で自然を造るのが、文化の最終的な到達点なのかもしれない。
 第二に文化には様々な分野があり数々の営為があるとしても、その根底には同じ基盤を持ち、同じような目標を追っているような気がする。文化の多くはその始原を太古の神々とのかかわりに発し、時代とともに細分・変形しながら、最終的には宇宙の原理を捉えるために営まれている。そうしてこのような文化が人に何をもたらすかと言えば、ただそれは魂の向上であり、この世の摂理を体得して高度に自己実現することなのだと思う。
 もしこの点に誤りがないとしたなら、都会にこだわる必要などまったくなくなる。例えばビジョン・クエストのように、自然の荘厳・美麗な風景の中に神の摂理を見出すのも、禅のようにただ自心を追求しつつ超個の働きに気づくのも、文化の質において都会の生活から得られるものと比べ、なんら劣りはしない。むしろここまで来れば、都会や田舎などという場所的制約は一切無意味になり、ただ文化を求める意志の問題になってしまう。文化を心から欲するならどこででもそれは与えられる。しかし欲しなければどこにいてもそれは得られないのだ。
 またこのように文化を捉えるなら、宇宙の原理に従い魂の向上を求めている者は、それこそ真の文化人ということになる。あくまで高い精神性を持った人物から文化が産まれるのであり、既成の文化を追うことが文化的な生き方なのではない。ただ彼の体得したことからのみ、独創的な文化が現れるのだ。
 こうした地理的環境・物質的状況に左右されない文化の捉え方は、本当に正しいものなのだろうか。それを確かめる意味でも、「わたし」は都会から田舎へ帰ってきたのだ。




  「閉じた世界」 19890522   ⇒TOP


 心理的なものにしろ身体的なものにしろ、人の行為はふつう考えられている以上に、自分自身―自我意識が捉えている自分・いつも自分だと感じている部分―と関わりない現象のようだ。ある動機がふっと心に起って、人は行為を始める。ところがこの動機というものは、自分で意識的に制御することができない。それは知らない間に湧いてきて、いつしか心を行動に駆り立てる。もしかしたら動機とは、自分など計りしれないところから直接起って来るものなのだろうか。
 野の鳥や獣の行いが、彼らの自由意志により為されているとは思えないように、人の行為も一個の自分の意識をはるかに超えた、何かに則り発現しているのかもしれない。

 ところで、人が根本的に救われる可能性を有すると考える場合、それは意外にもこのような人智・人為の無力さに依拠せざるをえない。人間が懐ける最高の善意も最低の悪意も、自分の行為を完全に統制できるわけではない。その行為の根源は、計りしれない大きなはたらきに在り、結局それに基づいて生きるしかないのだから。
 このように本来救われている人間が、なぜか勝手に救われない思いを懐くのは、自分の中に「閉じた世界」を作るからではないだろうか。何らかの要因から自分のある部分に捉われ、そこをいつも侵されないように守り固め始める。そうするうち他と繋がった自然な在り方から外れ、自分本位で誰も介入することのできない「閉じた世界」が構築されてしまう。
 人の感情は素直に放っておけば、無より生じて無に帰する。それをわざわざ執念深く心の中に止めたりすると、いつしかエゴイスティックな思考に毒され、排他的な傾向が強くなる。それでついには他と敵対し、誰からの救いも依怙地に拒むようにさえなる。
 この「閉じた世界」が救われない根本的な原因であり、いわゆる「近代的自我」というものには、そうした要素が濃厚にある。




  「道と理」 19890504   ⇒TOP


 今日はひどくいい天気だ。ところによっては夏日になったそうで、そのすこし照るような日差しに新緑が映え、いかにも五月らしい一日だった。
 やっと連休に入り、ほっとしている。このひと月というものは勤めに追われて、だだあたふたしていた。慣れない人付合い、肌に合わない仕来りに翻弄され、気持が動転していた。それで恥ずかしいことに自分を見失い、A.H.マスローの言う「高次病」に罹ってしまった。
 心がいらつき落ちつかない。すべてが誤っているように思えて、些細なことで傷つき感情のコントロールがきかなくなる。とにかくゆっくり時間をとって、自分を見つめる必要があった。
 そしてなんとか今、気持はしずまったようだ。

 まだまだ「わたし」は安心立命しておらず、状況に翻弄されてしまう。喜怒哀楽の感情が粘つき、うまく転換して行かない。時に信念がぐらつき、自分をむやみに疑ったりする。はっきり言って修行が足りない。行くべき所、歩むべき道は見えていながら、この体がそこに至っていない。
 どれだけ頭で真理が理解できたとしても、どれだけ心で真実の相が把握できたとしても、日常生活の場で翻弄され、それを見失っているようでは何にもならない。確かに頭で真理が分かれば、道は見えたと言えるだろう。また心で真実が感じられたなら、道にあるとも言えるだろう。しかし常にそれを見失わず一体となっているのでなければ、道を歩んでいるとは言えない。どんな激流の中に放り込まれても決して道から離れず、心がしっかり落ちついていて始めて、道の人と言えるのだ。
 『五灯会元』巻一「東土祖師 初祖菩提達磨大師」の条で、達磨が慧可に語って言う。
「道を明かす者多く、道を行う者少なし。理を説く者多く、理に通ずる者少なし(明道者多、行道者少。説理者多、通理者少)」
 どれだけ道理を説明できたとしても何にもならない。道を実践し、理を体現しているのでなければ。この点で「わたし」は根本的になっておらず、この先まだまだ修養して行かなければならない。




  「宗教と非宗教」 19890402   ⇒TOP


 宗教と非宗教との根本的な分れ目は、「存在」(本質的にあるもの)に「意味」(究極的な価値・目的)が感じられるかどうかにある。言いかえれば、この世は「虚無」(あらゆる意味がないこと)でなく、ただ偶然の連続により無機的に構成されたものではない、と思えるかどうかにある。そしていったんこの「意味」を「存在」に対して感じるようになると、誰でも比較的容易に宗教的な体験が得られる。
 しかしそれを今日の科学は否定している。近代的精神の源泉である科学は、中世から抜け出す際に「意味」を棄て、世界はあたかも機械のごとく物理的な法則で動いているに過ぎないと捉えた。神などおらず霊魂などもない。人はただ無機より生じ無機に帰す、ひとつの物質に他ならないと。
 確かにそう考えることより、天国・地獄などをやたらに強調する宗教の呪縛から開放され、自由に精神が飛翔できるようになった。現代社会に見られる物質的な繁栄は、明らかにこの転換が起点となっている。それまで緩慢だった文明の進歩が、「存在」の「意味」を否定したとたん、一挙に進展したかの如くだ。しかし反面このことを否定したために、救われない魂を持つ者が急激に増えてしまった。
 「意味」を感じると人は救われる。ただしもちろん「存在」に「意味」を感じるのと、「存在」に「意味」があるのとは別問題であり、それこそ思い込みさえあれば何にでも「意味」は感じられる。鰯の頭も信心からで、お伽話のようなものでもかまわないと言うなら、思い込みを重ねるだけでどんな立派な「意味」でも、自由に感じることが可能なのだ。そして実際、多くの既成宗教では神話的な教えに則って、この世には種々のすばらしい「意味」があると広く宣伝している。
 実は「わたし」にもちょっとした契機がおとずれて、この世にはなにか「意味」があると感じるようになった。それまでは虚無的なものの考え方にしかなじめなかったのに、それからは神や仏へ対して懐かしい気持さえ覚えるようになった。しかしそうなったからと言って、「存在」に「意味」があると立証されたわけではないのだ。もしかしたら知らないうちに、心のすきを突かれ、つい何かを思い込んで、ただ迷信に陥っただけなのかもしれない。

 はじめ「わたし」は仏教などで求める「悟り」や「救い」に、合理的な思考から外れた、ある種の「思い込み」があるのではないかと考えていた。しかし色々調べてみると、仏教では一切の拠り所を破却することが修行の要点とされていた。「思い込み」とは真偽を問わず何かを心の支えとする行為に他ならず、正しい仏教であればまっさきにそんな怪しいものは否定してしまう。しかし「思い込み」などは認めないとしても、仏・法・僧に対してすらまったく「意味」がないと考えるのなら、そもそもこの教えに触れようという気さえ起らないだろう。およそ「悟り」や「救い」を求める行為の背後には、かならずそこに何らかの「意味」を認める気持が働いているに違いない。けれどもこの「意味」が、ほんとうにあるとは限らないのだ。
 したがってここに究極の課題として、世界にはたして「意味」があるかという問いが浮かび上がってくる。これをどう解くかで、その人が宗教的な道を選ぶか、非宗教の立場を貫くかが峻別される。ある具体的な宗教といかに関わるかより、この点にどう答えるかの方がより根本的な意志決定を迫られる。一切の先入観や既成の概念などを排除し、ただ自らの厳密な思索と体験から、この究極の問題にきちんと解答して行く必要がある。

 禅の有名な公案である「趙州狗子」とは、もしかするとこうした問題を追求するために、古来用いられてきたのかもしれない。
 『無門関』第一 趙州狗子 
「趙州和尚、ちなみに僧問う、狗子にはまた仏性有るや無しや。州云う、無(趙州和尚、因僧問、狗子還有仏性也無。州云、無)」
 一切衆生悉有仏性(『涅槃経』)と宣言する仏教において、狗子(犬ころ)に仏性がないはずはない。それをあえて「無」という理由は何だろうか。仏性=東洋的無で、有・無を超越した絶対無だからなどと、いくら知ったかぶった模範解答を並べたところでしかたない。不可侵の聖域がまだ多く残されていた古き良き時代ならいざしらず、あらゆる物事をまず懐疑することから始まる現代なら、その絶対無とはどういう「意味」かと、さらに追求されるだけだ。
 今はむしろ、「虚無」を突きつめて考える必要があると思う。いかなる「意味」も許容しない全くの「無」というものが、ほんとうに「存在」の基盤として据えられるのかどうかよく調べるのだ。眼前に広がるこの世界は、確かに有ると認めざるをえない。しかし有るものはかならず「無」に帰す定めであり、それがどんな「無」か厳密に究明されなければならない。その結果、ただの「虚無」としか考えられないと言い切れるのであれば、あらゆる宗教を否定し去っても一向にかまわない。神もなければ仏もなく、地獄も極楽も、輪廻も転生も、ご利益も祟りも、運も不運もないとしたら、単に現実的な苦痛以外は恐れることなど何もなくなるのだ。それなら種々の科学的な手法が効力を発揮し、あらゆる苦痛を解決する糸口もそのうち見出される可能性が高い。むしろそれこそ現代的な、「悟り」や「救い」の在り方だと言えるかもしれない。
 しかしこれがはたしてほんとうに正しい態度かどうかについては、可能な限り綿密に検討した上で、慎重に見きわめて行かなければならないのだ。






【総目次】