雨読





           魂のこと 《1990》




   【目次】


  「試練」   「わたしの願い」   「不信の理由」  「発想ノートより 1」  「苦しみについて

  「対人関係」   「発想ノートより 2」  「汚れた苦」  「吐血」  「わたしが悪いということ

  「あるものと苦とわたし」   「わたしと苦






  「わたしと苦」 19901113   ⇒TOP


 ふり返ってみると、いままでの「わたし」の行き方には、「我」というものに対する省察が、根本的に欠けていたと思う。
 誰にたよることもなく独自で行ってきたことだけに、「わたし」にとって「わたし」とはあまりに自明のことだった。疑いにくいものだった。しかし、このことを疑わなかったために長い間、自分は誤った道を歩いていたと思う。

 「苦」というものの自覚とともに、「わたし」は自我に目覚めた。以来、人生がひどくみじめてつらいものに感じられ、なんとか「苦」から逃れようと、いろいろ道を求めて遍歴した。そうして最終的には、なにかこの世に存在する大きな流れに合一すると、「苦」が消滅することを見いだした。そしてこの合一の状態を、求むべき最高のものと捉えた。
 しかしこの状態は決してそう長続きせず、またそうたびたび訪れるものでもない。合一の余韻が去った後、おなじみの「苦」は必ず頭を擡げてくる。どれほど最高の合一を果たした後でも、決して「苦」は消え去りなどしない。
 ここで「わたし」は、完全に行きづまってしまった。もうこれ以上うまく「苦」に対処できる方法を、見つけることができなかった。「わたし」では「苦」をどうすることもできない。「わたし」というものは結局「苦」に囚われてしまう無力な存在にすぎない。
 こう思い知ったとき、ふと気づいたことがあった。自分は「苦」を感じることが自明のことであるかのように思っている。しかし、それは本当にそうなのだろうか。「苦」を感じるものとは、いったい何なのだろうかと。

 いろいろ思索を重ねた結果、それはどうも「わたし」自身のようだった。自分の中で「苦」を感じているのは「わたし」だけであり、ほかの部分が痛みを感じても辛さを覚えても、直接「苦」には繋がらない。原因が無くなれば違和感も消えて完全に元通りになってしまう。ただこれに「わたし」が加わったときにだけ、それが「苦」と意識されるようだった。
 「わたし」は思考し、比較し、欲望を起し、喜怒哀楽する。より都合のいい在り方を求めて、いまをとかくあれこれ言う。現在の境遇・状態に、なんでも不平を差し挟んで、どうしろこうしろと主張する。終いには自分自身や回りの者から、世界にまでも愚痴をこぼし出して、この世にはなにひとつ満足なものが無いなどと、独りで勝手に苦悩しだしたりする。
 このように「わたし」が「苦」を生むのだ。そして「わたし」が「苦」を感じ取る。ただ少々つらいだけの事柄を「苦」に変えるのは「わたし」の仕業で、「わたし」が無くなれば「苦」も消え去る。
 これからはそんな「わたし」の働きを厳しく見つめて、ひとつひとつ「苦」の原因を取り除いて行こうと思う。




  「あるものと苦とわたし」 19901105   ⇒TOP


 最も大きいものであるため、どんな小さいものにもはたらく「あるもの」があるとする。この世を信じる気持があればそれは現れ、この世を疑うならそれは消える。
 いまの浮かれた人たちには関係ない。けれどもまじめな普通の人にとって、この世を疑うもととなるのは「苦」だった。なんであれ「苦」はじつにうまく人の心を捉える。人の広く見わたす目を奪い、苦しいところに縛りつける。そこで人は、あまりむやみに苦しいので、こんな目にあわせた世を恨み、疑いはじめる。
 苦しくても「あるもの」を見つめていれば、なんとかなる。「あるもの」といっしょなら、苦しみは長居しない。その起こりと、起る訳と、行く末がはっきり分かるのだから。それなのにせっかくの目を奪い、苦しみに塗れるようにするのは、「わたし」のせいだと思う。

 「わたし」は自分のことばかり考える。いつも人の様子を窺っては少しでも自分が損をしないか、もっと楽ができないかと血まなこになっている。苦しいなどはもっての外。もしそんなものが出てきたら、わき目もふらず逃げるだけ。どんなに大切なことを放り出しても。しかし世の中など苦しみだらけで、いちいちそこから逃げ回っていたらもう何も見えなくなってしまう。
 「わたし」が無ければ苦しみを受け入れられる。苦しみを受け入れられるなら、広く見わたす目も奪われない。そうして疑いのない目で、じっとこの世を見つめると、その中にはたらく「あるもの」が現れて来るのだ。
 結局「苦」をも受け入れるゆとりが、「あるもの」を見つける鍵になる。いったん「あるもの」を見つけ、それと伴に歩むなら、おのずと「苦」は受け入れられる。ただそれを「わたし」というものが、いつも阻んでいるようだ。




  「わたしが悪いということ」 19901019   ⇒TOP


 近頃どうも生きづらくなって、ぶざまにもあちこちで怒ったり愚痴を言ったり、嘆いてみたりしている。喜ばしいことが何もなくなり、苦しいことばかりが目についてくる。どうして自分がこれほど悩んでいなければならないのかと、ひどく不幸に思えたりもする。
 どうやら「わたし」は、完全にはきちがえをしているようだ。

 自分があるところにいて苦しい思いをしたなら、それはまわりが悪いのだと考えはじめている。自分は優秀で、出来ていて、こんな自分がつらい思いをするなら、それは自分を認めようとしないまわりのせいなのだと。こうして少しきついことを言われたりさせられたりすると、すぐ不平を並べ立てるあさましい人間になり下がっていた。
 苦しいのはすべて自分の責任だと、はっきり自覚しなければならない。つらい目に遭うのはすべて自分が悪いのだと、よく理解しなければならない。それは自分の微少な能力・欠陥だらけの人間性というものを、しっかり意識していないから起ることなのだ。ほんとうの人物が自分に代わってそこにいたとしたなら、すべては丸く治まってしまうことが分からず、まわりに責任をなすり付けているのだ。
 猛省に値する。

 賢明にもすでに西田天香はこのことについて、
「一切の行詰りは自分がまず責を負うべきです。私の悪いことをまず知らねばなりません」―『懺悔の生活』春秋社 P.226
と、言っている。今まさしく行詰っている自分の生活は、すべて「わたし」が悪いのだと思い知る必要がある。そうして再び、この世を貫いてはたらく「あるもの」に注意を向けて、正気を取りもどさなければならない。
 思えば、「わたし」の悪いことを知らなければ、苦しみを甘受することはできず、苦しみを受け入れられなければ「あるもの」は理解できない。もしかすると「わたし」が悪いことに思い当たった今、また「あるもの」を真に実感する機会が、訪れているのかも知れない。




  「吐血」 19901006   ⇒TOP


 先週の今日、久しぶりに血を吐いた。恒例の飲み会があった翌日、たいした量も飲んでいなかったのに、ねじれるような吐き気に伴い、胃液と混じって赤黒い血が少なからず出てきた。
 近頃また、職場の雰囲気がすさみきっていた。それも含めて田舎へ戻ってから、積もりに積もっていたストレスが、アルコールを引き金として一挙に表へ出てきたのだろう。修士論文を書き上げ大学から離れたあの転換期以来の出来事で、知らず知らずのうちにここまで追い詰められていたのだ。

 しかし田舎に帰って、「わたし」は完全に回りから、なめられるようになった。職場では新米としてゴミのように扱われ、親類の中ではしょせん青二才で一人前と見なされない。そしていろいろ事情はあるにしろ、家に帰ってもろくろく食事すら出してもらえず、自炊まがいの生活をしている。誰も「わたし」の心を気遣ってくれる者はいない。便宜をはかってくれる者はいない。それなのに外でも内でも次々と、ああしろ、こうしろと命令される。ストレスはたまる一方だ。
 いつだったか少し特殊な体験をして、精神的にかなり進歩したと思えた時期があった。もうとりたてて求めるものは何もないような、自足できてしまったような。けれども今あらためて反省すると、そんなものなどまだまだ採るに足らなかったことがよく分かってきた。たったひとりで、他人から何の干渉もなければそれでも良かっただろう。しかし実験室を除けば干渉のない世界などなく、現実に生きるときそんな程度のものは何の役にも立たない。いろいろ干渉されてもそれに屈しないものでなければ、現実の中で生かして行けない。

 今まで現実や人生に対して畏れを懐きこそすれ、それをなめたことなど一度もなかったけれども、まだまだ認識があまかった。他人の干渉などに影響されない、強固な心を育む方法を考えなければならない。そして別に命が惜しいわけではないが、もう二度と血を吐くようなことがないように、心身をコントロールして行きたい。


  「吐血 続」 19901010

 血を吐くに至った根本的な原因を、いろいろと考えてみたところ、結局それは新たな環境に過剰適応していたためではなかったかと思う。
 田舎での生活に早くとけ込もうとして、自分のタイプもプライドも無視してただ周りにへつらっていた。主張を抑え、なんでも受け入れ、忍耐していた。ほとんど一方的に相手を気遣い、自分が気遣われることは稀だった。それで自我が弱体化し、まともな時ならなんでもないストレスのために、胃をやられてしまった。

 過剰適応しているときの感じは、また密接に胃と関わっているのだ。
 それはまるで触手のようなものが口から伸び、自分の心を載せて相手へ向かう。そうして大事な心を相手に委ねてしまうのだが、受け入れてもらえるなら良し、もしはね付けられでもしたら、キュッと触手が縮んで食道を通り胃まで戻る。同時にあのシクシクとした痛みも起って、ダメージのすべてが胃へかかるように思われる。実際こうした感じを何度も体験するうちに、いつしか胃腸薬に手を出すことも多くなってゆく。
 しかし誰も好きで過剰適応などするわけがなく、たまたま置かれた状況や境遇に強制されて、どうしてもそうなってしまうのだ。ほんとうは水か空気のように、誰に気づかい誰から気づかわれることもなく在りたいのだけれども、なかなかそういうわけには行かない。とりわけ前近代的な上下関係が色濃く残る場に居合わせるとき、下の者は必然的に過剰適応を余儀なくされる。
 それはそれで仕方ないことなのだが、ただなんとかうまく環境と自分をコントロールして強制をかいくぐり、心の自由を確保したいものだ。




  「汚れた苦」 19900813   ⇒TOP


 いくら世界を貫く大きな流れを感じ取れたとしても、いくら現実の無常さが身に染みつまらない計らいを止めたとしても、なかなか「苦」というものは自分から去ってくれない。
 たまたま気力が充実して、「苦」と真向から勝負しようと思えるときはしばらくそれも影を潜める。けれども気力などそうそう長続きせず、ふとした瞬間に萎え衰えたら、すかさずお馴染みのものが居座っているのだ。
 「苦」により生かされている事実、「苦」がなければ成長もありえない事実も、いちおうは理解しているつもりだ。しかし日常の様々な出来事に疲れ果てて、なすすべもなく「苦」が纏わりつくまま過ごすのは、ひどくしんどい。いっそ何もかも投げやって、死を覚悟で旅にでも出ようかと、真剣に夢想することすらある。

 実は、答えは分かっているのだ。このまま苦しんで行くしかないと。「苦」の中、自分自身で克服する道を見出すしかない。もしくは克服など考えずに、ただひたすら苦しむしかないのだと。しかし現実に与えられる多種多様な「苦」の中にいるとき、ついついそんな原則は忘れ愚痴っぽくなってしまう。そうして愚痴が嫌悪になり、嫌悪が厭世になって、終いには自分と世界に対する基本的信頼感が消滅し、存在すること自体が苦しい地獄的な状況に陥ってしまう。自らの愚かさから不純に汚れた「苦」の中で、救いのない生を営まなければならなくなる。
 与えられる「苦」を純粋にそのまま受けとらないで、なんとか逃げようとするからこうなることはよく分かっているのだ。しかしそこが人間の弱さなのか、「業」のようなものが働くのか、現実に苦しんでいるときには、そうしたあらゆる原則を忘れ、避けたい一心で身勝手な行いをした挙句、汚れて倍増した「苦」を受けなければならなくなる。 「苦」を、与えられるまま素直に苦しむことができたら、どんなに良いだろう。逃げたり愚痴ったりすることなど論外で、不安や惨めさなど一切感じず、さらにはそこに何の意味さえ認めず、ただ赤ん坊のように苦しむことができたら……。
 もしかすると「苦」からの救いとは、そういうことなのかも知れない。




  「発想ノートより 2」 19900730   ⇒TOP


 進歩したのか後退したのか、このごろ自分が自分であるということに、まったく違和感がなくなってしまった。自分の精神状態に対して、疑問がなくなったのだ。
 心の中を窺ってみても、かつてこれが「わたし」であると強く意識していたものがない。ただ透明なガランとした空間があり、時おりその上空を「ことば」が過り、すぐに消え去ってしまう。感情や思考のような内的なものも含めてあらゆる行為は、なにか自然なはたらきから生起し、そして消滅して行く。こんな状態の中では、疑問を持つべきものなどあるはずがない。
 内省というものをことさら必要としない、自分というものの存在を意識する必要のない、こうした状態とは、ほんとうに進歩なのか後退なのか、また正常なのか異常なのか、よく調べてみなければならない。


  1987 5・20

 「人が人生において何を欲するかを考えるとき、われわれは人間の本質そのものを取り扱うのである」―『人間性の心理学』A.H.マスロー 産業能率大学出版部 S46 P.116
 ある人がどのような人間か判断しようと思うなら、その人が何を欲しているか見れば良い。その欲求の水準・質・量を知ることができたなら、彼がいま精神的にどの程度の人間か分かるだけでなく、これからどれだけ成長して行くか予測も可能になる。
 もし、生理的な欲求以外、ほとんど欲求らしきものを持たない人がいたら―物質文明の繁栄する現代では、しばしばそうした人も見かける―、彼は精神的な成長の妨げられた人間か、もしくはどこかに人格的な病気を持った人間と考えられる。


  1987 6・9

 人の心を救って(助けて)あげる、かんたんな方法がある。それは彼の体験した苦しみに耳 を傾けて、心から同情するというものだ。たったこれだけでかなりひどい苦しみから快復し、健康な人格的を取り戻せるようになる。
 ただしこれを日々行おうとするなら、自分をしっかり理解し、少なくとも己の欲求は自ら処理できる自己充足的な自己が必要となる。従ってこれはかなり自己実現した者のみが可能なことなのだ。しかし、いつも完全に実践しなくとも、たまに都合が良ければ行う程度で良いならば、精神的に健康な者なら誰でもできる、ちょっとした善行になるだろう。そうしてひとりでも多くの人が、各自の生活の中でこれを実行するなら、現代社会の歪を大きく改善するところまで到達できるかも知れない。
 Cf.『人間性の心理学』(前掲)第16章「精神療法、健康、動機づけ」


  1987 7・8

 自己発見の方法について
 積極的な経験をし、自分が何を好むか知る。そして自分にとってより本質的な好みを見分ける。これは自分が心からそれをしたいと欲する、熱意によって識別される。そうして本質的な欲求が分かれば、それを満たし確固としたものにして行く過程で、自己は発見される。
 Cf.『完全なる人間 魂のめざすもの』A.H.マスロー 誠信書房 P.70〜71,77〜78,87

 また、特殊な自己発見の方法として、他の至高経験を伝えてもらう、というものがある。
 Cf.『創造的人間 宗教 価値 至高経験』「熱狂的同型的伝達」A.H.マスロー 誠信書房P.112〜121


  1987 7・8

 『人間性の心理学』(前掲) 第6章より
 ・人に高次の欲求を持たせる方法には、ふたつの道がある。
  1)起きてくる欲求を漸次満足させてゆくもの。
  2)低次の基本的欲求を抑制・断念するもの。
 ・基本的欲求を満足させると、人は価値転換をする。
 ・どの基本的欲求でもそれを満足させると、精神の進歩に役立つ。
 ・完全に満足すれば欲求は消失し、より高次な欲求に向かう。
 ・満足のレベルにより、人の性格を分類できる。


  1987 7・13

  「真、善、美、健康、知能に、憎しみや恨みを抱いたり、羨望をもったりすることは、一般によく見られるところであるが、(反対価値)これらは大部分(まったくとはいわないまでも)自尊心を失うことをおそれて生ずるもので、それはちょうど、嘘言者が正直者によって、不器量な女が美人によって、臆病者が英雄によっておびやかされるのと同じである。優越者はみな、否応なしに、われわれが自分の欠陥に対決せざるを得ないよう強いるのである」
 ―『完全なる人間 魂のめざすもの』P.259

  優越者は人の欠陥を照らし出す。このことには注意を要する。それが改善可能でまた当人のためにもなる場合、欠陥を暴露してやるのも良いだろう。しかしそれが器質・属性・境遇など改善が困難かまたその時期でない場合、欠陥を暴露するのはただ単にその人の心をかき乱す業に過ぎなくなる。その人の感情を思いやりわざと自分の優れた部分を隠すのは、ただの謙遜など遥かに及ばない慈愛に満ちた態度といえる。




  「対人関係」 19900611   ⇒TOP


 どれほど好調に物事が運んでいても、人との関係が劣悪なら不幸な感覚が去ることはない。逆に人との関係さえ良好なら、多少めぐまれない境遇にいても幸福な気持に満たされる。このように心の平安を望むなら、対人関係はもっとも重要な要素といえる。
 しかしそれがよく分かっていても、なかなか人とはうまく付き合えない。
 顔も見たくない奴が必ず身近に何人かいて、しばしば神経を逆撫でするようなことをやる。話の合わない人は多くいて、応対にひどく気疲れする。またたとえ仲間同士でも、時と場合によっては互いに傷付けあう間柄ともなりかねない。
 結局この世の中では真の楽しみなど希有なように、ほんとうに好ましい人間もいない。たまたまある機会にある人を好きになっても、別の機会ではもう嫌いになっていたりする。常にある人を好きでいられることなど、ほとんどありえないのだ。世の楽しみや人の好ましさなどは、極めて無常な感覚に過ぎず、決して当てになどできない。人に対してことさら嫌悪の目を向けるのと同様に、愛着の目を向けることも誤っており、その嫌悪と愛着の中間で、なんとか自分の心の平安が得られる地点を、日々探し求めて行くしかない。

 ただし尊敬する人は例外で、自分の見識に基づききちんと評価した上で尊敬する人は、その評価が続く限り、いつでもその人を好きでいられる。そんな人と一緒にいるとほんのひと時に過ぎなくとも、この世でほんとうにしみじみとした楽しみを、味わうことができるのだ。




  「苦しみについて」 19900416   ⇒TOP


 いろいろと考え、いろんなことをやって来たけれども、やはり人生とは苦しみのようだ。それが地獄の如く、完全に苦しみ一色で塗りつぶされているとまでは言えないにしても、いつも苦しみが付きまとうものらしい。日々の些細な軋轢から究極的には死に至るまで、苦しみの種は尽きることがない。
 一見楽しくみえる事柄でも、冷静に観察すれば必ずその中には苦しみの要素があり、遠からずそれは確実に楽しさを押しのけ現れてくる。楽しみは決して長続きしない。しかし苦しみはいとも簡単にやって来て、いつまでも長く居座り続ける。そんなことからしても、人生の基調が何であるか明らかな気がする。

 古より人は、こうした苦しみからどうにかして逃れようと、様々な努力を積みかさねてきた。その結果、多くの思想や宗教が生まれ、それぞれ独特な救済の理論を説いてきた。しかし今日まで、苦しみを完全に消滅させる方法はまだ見出されていない。それを強靭な意志と厳重な修行で制圧した聖人はいるにしても、決して誰でもそうできるわけではない。人の苦しみとは、どんな叡智が挑戦しても根絶できるようなものではないらしい。
 もしほんとうにそうなら、つまり苦しみは決して人の力で除去できないとしたなら、もしかするとそれは人にとって本質的なものだからかも知れない。苦しみがなくなれば人ではなくなるから、どんなに努力しても消滅しないのだろう。
 ここで逆に苦しみの全くない場所で、はたして人が生きて行けるか考えてみよう。苦しみのない条件となると、まずそこには永遠の生命があり、老いや病や貧困がないこと。また愛憎がなく、常に欲望が満たされること。大きな変動もなく、平穏無事であること等々が挙げられる。とにかく心身に、何らかの傷をつけるような事柄はすべて存在してはならない。こう考えると苦しみのない場所というのは、刺激らしいものが絶無の実に単調で静的な世界であるということが分かる。
 心理学でよく言われる感覚遮断の例を持ち出すまでもなく、そんな場所で人が人間としての自覚と意識を保持しながら、人間らしく生きて行くのは非常に困難だと思う。むしろ多様な刺激に満ち溢れ、それが苦痛に感じられるほどの環境でこそ、円満な人格が形成されるのではないだろうか。
 むろん人生の苦しみを、刺激などという単純で機械的な概念に置き換えるつもりはない。ただ強烈な刺激は苦しみと同様に、人へ不快な感覚を与えながら、往々にしてそれがその人の成長にとって、不可欠の要素となることさえある。このことが苦しみというものの性質を考える際に、重要な視点となりそうなのだ。

 苦しみとはほんとうに、ただ文字通り人を苦しめるだけのものなのだろうか。嬉しさ、楽しさ、快さなどを奪い、ただ人をつらく、しんどくさせるだけなのだろうか。どうもそう単純なものではないように思われる。
 ある種の技術を習得しようと励んでいるときは苦しくないだろうか。新しい作品を制作しているときはどうだろう。また、何かに発心して座禅や祈願をしているときは、気楽な心境でいるだろうか。これら価値ある事柄に打ち込んでいるときには、それこそ血のにじむような苦しみを経験しているに違いない。
 またそうした目的のある場合とは別に、まったく不本意ながら偶然に巡りあってしまう苦しみもある。怪我をすること、病気になること、障害を負うこと、過失を犯すこと、逆境に陥ること等々。これらのせいで目の前が真暗になり絶望感に打ちひしがれ、地獄の中を這いずり回っているような気持になることもしばしばある。さらにそんな耐えがたい思いをしても、具体的な何の価値とも結びつかなく感じられるので、ここでの苦しみは実に深刻なものとなる。いまの自分の苦しみにはどんな意味もまったくない。ただ貧乏くじを引いて、取り返しのできない損をしただけだ、と。しかしはたしてそうだろうか。
 こうした不本意な苦しみに出遭ったとき、その人の日常性が破壊される。今まで人生とはまあこれくらいのものだと、高をくくっていた見透しが利かなくなり、新たにより厳しい現実と向き合って行くことが要求される。それをなんとか逃げないで対決しているうちに、現実の厳しさに見合った強靭な自己が形成される。そうしてその強さが、現実のつらさを凌駕したとき、ようやくいまの苦しみが克服されて行く。
 このように考えるといくら不本意なものだったとしても、苦しみは常にいくらか試練的な要素を持ち、それが厳しければ厳しいほど、克服された暁に現れてくる自己は磨かれている。総じて苦しみとは人にとって、自己を実現する重要な契機であるらしい。

 思えば古今東西にわたり、人は苦しみに積極的な意義を見出してきた。例えば孟子には、
「憂患に生きて安楽に死すなり(生於憂患而死於安楽也)」(告子 下)
と見え、憂い煩うときに人は生きているのであり、安楽では死んでしまうと言っている。さらにここを宋代の大儒・朱熹の注では、
「困窮・払鬱はよく人の志を堅くして人の仁を熟す。安楽を以てこれを失う者多し(困窮払鬱能堅人之志而熟人之仁、以安楽失之者多矣)」
と敷衍して、ひどい苦しみこそ人の意志を強固にし、精神を円熟させるのであり、安楽に走ってこれをなくす者が多いと指摘している。
 また『旧約聖書』「詩篇」第34篇の19に、「ただしきものは患難(なやみ)おほし」という言葉がある。これにちなんでスイスの思想家・ヒルティは、
「これは、すでに数千年も前に語られた言葉であるが、善人はこの世で何を覚悟しなければならないかを、ごく簡潔に述べている。彼らは多く苦しまねばならない。他の道では、彼らが到るべきまことの善に達しえないのである」(『眠られぬ夜のために』上巻 岩波文庫 P.38)
と言っている。苦しみにまみれた道こそが、正しい人の歩むべきほんとうの道であり、他はすべてまやかしに過ぎない。人はただここをまっすぐ進むために、この世に生れてきたのだ。
 他にも鈴木大拙によれば、禅堂で唱えられる行願文の中に、次のような内容のものがあるという。
 「敵心をいだくものが、たといわれらを困厄の中に陥れようとも、それは仮面下の菩薩と考えてよい。菩薩はその姿を敵のように見せて、空の方法によって、われらの過去の罪業―それは計算のできぬほどの太古から我執と邪見とで、不断に積みかさねた身口意行の結果たる罪業を消滅させようとするのである」(『禅堂の修行と生活―鈴木大拙禅選集6』 春秋社 P.54)
 この部分は仏教用語が多く交じり、現代人にとってやや難解な考え方が述べられている。しかしおよそ対人関係における苦しみの意義については、すべて見事に言い尽くされていると思う。嫌な人と出会って苦しみを受け、日常性が破壊される。そこで苦しみに触発され、より強固で高潔な自己が実現して行き、ついにはその苦しみを完全に凌げる自分が誕生するのだ。

 苦しみには意義がある。それはまずこれをきっかけに、他では決して得られないような自己の実現が可能になる。さらに人生とは苦しみであると認識し、それを人生の基礎に据えることで、困難な出来事に出会った際、すばやく対応できるようになる。当然来るべきものがやって来たに過ぎないので、改めて衝撃を受けることがないのだ。また安楽な状態を当然と考えている人が苦しいときに感じる、自分ばかりがひどい目に遭っているという疎外感に悩むこともない。そこは安楽さが欠如し疎外された場所なのではなく、むしろ本来の立脚地なのだから。
 このように苦しみを容認し正面から付き合うようになると、それからはどうやらあまりつらい思いをしなくて済むようになるらしい。苦しんで当たりまえでそれと一体になっているため、自分が苦しんでいるという自覚がなくなる。それで決して安楽になるわけではないにしろ、ささやかな心の平安を得ることなら、なんとかできそうな気がするのだ。苦しみは避けられない。しかしただこれとどのように付き合うかによって、人の生き方は決定される。苦しみに目がくらみ、絶望に押し潰されて正気を失い、誤った道へ陥らないよう常によく注意している必要がある。
 苦しみを真正面から捉えた宗教である仏教でも、この辺の事情はきちんと説かれている。仏教の根本的な教義のひとつに四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)と呼ばれるものがあり、人間の存在そのものを苦しみと考えて、その原因と克服法が教示されている。そこで注意を要するのは、苦の克服に関する真理(諦)であり、これを「滅諦」と表現している。ただしこの「滅」という言葉は決して消滅を意味するのでなく、サンスクリット語で「ニローダ nirodha」と言い、制御することを指すらしい。つまりここで説かれているのは、あまたの苦しみを消し去る方法ではなくて、ただ避けられない苦しみを自ら制する方法に他ならない。

 苦しみは決して滅すことなどできない。それはこの人生の到るところに見え隠れしており、しつこく人に付きまとう。だからむしろそれを見据えいつも努めて苦しみと関わって行けば、いつしか強靭な自己が実現し多少の苦しみにはびくともしない、魂の平安を得ることができるようになる。人として存在している限り、苦しみというものが消え去らないとしたなら、もうこの他に採るべき道はないように思える。
 この世に生まれて来たからには、苦しまなければならない。そうして自らを高めてこれを制し、ついには何事にも動じない魂の平安が得られたとしたら、そこで人生の為すべきことは完了したと言って良い。そんな高みまで生身の人間がほんとうに登って行けるか保証はできないけれども、避けられない苦しみに追われて、ただ進み続けるしかないようだ。
 ヒルティは言う。
 「多くの苦しみを受けること、これは避けられないものだ。だから甘んじてそれに従いなさい、そしてできるだけ早く、できるだけ完全に心を落ちつかせなさい。その時はじめて、あなたは完成へ到るまっすぐな道を進んでいるのである」(前掲書 P.38)


  「苦しみについて 続」 19900604


 ちょっと前に、苦しみには意義があるという主旨で、一文書いたことがあった。
 しかしそれは今にして思えば、いささか甘い考えだったようだ。いつも苦しむ自分を励まし、苦しみを克服する方法を模索して書き綴った意図は理解できる。しかしその程度で、ほんとうの苦しみを克服することなどできない。
 苦しみにいちいち意義など付会させてはいけない。また簡単に意義が見つかるなら、ほんとうの苦しみとは言えない。意義を求める心とは、結局のところ利己心なのだ。自分のためになるよう、自分につごうが良いよう願う意識なのだ。そんな気持が働いている内は、所詮ただ自分の周辺を、ぐるぐる回っているに過ぎない。
 意義など一切認めず、ただ苦しめばいい。苦しみ切ればいい。苦しんで苦しんで、苦しみの泥沼の中を這いずって、意義など求める心が絶え果てたとき、ようやく苦しみを克服する真の道が、現れてくるのだと思えてならない。




  「発想ノートより 1」 19900318   ⇒TOP


 「不信の理由」により、仏教を拠りどころとせず、独自に道を求めてゆくことを改めて確認した。
 ほんとうにこんな確認が必要なほど、いつしか「わたし」は仏教―とりわけ禅―にかぶれていた。「わたし」というものの究明の仕方も禅の行き方に負ぶさっていて、ほとんど盲目的に従っていた。これではかえって自分を見失っていることに等しい。どんなよい教えがあろうとも、最終的に自分は自分でしか究め尽くすことができないのだから。
 そこで、禅との関係を清算する意味でも、「悟り」にとらわれた発想をここにノートから抜き出しておく。自分のことはしっかり自分の意志で行うという、根本的な姿勢を忘れないように。


  1989 9・19

 修行の結果「悟り」が得られると考えるのは、どうも誤解のようだ。確かにある種の修行によって精神は高められ、結果として悟ったような体験が得られることもあるだろう。しかしそうだとしてもまずその体験が、一時的なまやかしではない真正な精神的境地を示すものかどうか、容易に判断できない。そもそも「悟り」とは、何かの褒美や報酬の如くあるときのお仕事(修行)の代償として、ポンと授けられるようなものなのだろうか。また、もしその体験が真正な「悟り」だったとしても、やっと得られた高邁な精神性を維持するためには、これまでと同等以上の修行が再び必要となってくるに違いない。
 実際には、「悟り」があるから修行できると考える方が、真実に近いのではないだろうか。わずかでも日常的な世界の汚れに気づき、それを超えた清澄な存在に感づかないかぎり、修行などというご苦労な行いはやれるものでない。そうしてその気づきが深ければ深いほど、より正真正銘でごまかしのない修行ができるようになる。
 いわば、修行しているということが「悟り」なのであり、その深さは修行の正確さによって証明されるのだと思う。


  1989 9・19

 「一切衆生悉有佛性、如來常住無有變易」(涅槃経)
 ということが正しく分かれば、悟ったような体験をすることができる。あらゆるものと一体となり、自分本来の姿が把握できたような。しかし、これだけではまだ完全ではなく、そのように「仏性」を持った自分が、なぜ日々迷い苦しむのか説明できない。
  そこで次に、
 「無一衆生而不具有如來智慧、但以妄想顛倒執著而不證得、若離妄想一切智自
然智無礙 智則得現前」(華厳経)
 ということが正しく分かれば、自分の迷い苦しむ原因とこれから歩んでゆくべき方向がはっきりする。「仏性」を持ちながら、妄想を起こして道で顛倒し、物事に執着しているために迷い苦しんでいる。このことをなくせば本来各々に備わっている最高の「智慧」は現前し、もう何に迷うことも苦しむこともなくなってしまう。
  そうしてさらにこの方向で完成に至るためには、
 「應無所住而生其心」(金剛経)
 ということも徹底させなければならない。何にも「所住(顛倒妄想)」することなく、「其心(仏性・如来智慧)」を生じてゆく。最終的にはただこのことのみを修めてゆけば道は完成される。
  ここまではっきり体得するのが「悟り」であり、それを実践するのが修行なのだと思う。


  1989 12・28

 「悟り」など、ないということについて。
 至道無難禅師「即心記」より。

    たるまのうへに
  いかにしてこれほとうそをつきぬらん
         さりとてはなきさとりなりしを




  「不信の理由」 19900311   ⇒TOP


 なかなか濃厚な信仰が残る土地に生まれ、かなり深い関心を懐いているにもかかわらず、「わたし」は仏教の信者ではない。宗教的なものの必要性を身にしみて感じながら、また自分にとって最も近しく、恐らく入信するならそれしかないと思われるものでありながら、「わたし」は仏教を信じることができない。
 こんな矛盾がなぜ起るのか今までずっと考えてきて、ようやく近頃その大まかな理由が分かってきた。端的に言うなら、それは次のふたつの不信によっている。

1.釈迦牟尼が開いたとされる「悟り」の、確かな内容が不明なこと。
2.いわゆる「悟り」が、人間にとりどれほど重要なものか不明なこと。

 釈迦牟尼と呼ばれる人物が歴史上存在したことは事実で、彼が「悟り」を開き、後に仏教と呼ばれるひとつの宗教の開祖となった。しかし肝心なその「悟り」の内容となると、どうもはっきりしない。
 四聖諦が分かれば悟ったといえるのか、八正道を実践していれば悟っていると見なせるのか、それともお経に書かれているような神通力がなければならないのか、もしくは教義的なものなど一切必要でなくある種の精神状態に達していればそれで良いのか、そして何よりも「悟り」というものは、現実に生きている人間が現世で獲得できるものなのか。
 たとえばこのような問に、まちまちであいまいな答しか既成の仏教は与えてくれない。それなら仏教とは、いったい何を信じどう行えという宗教なのだろうか。
 またいわゆる「悟り」というものが確かにあったとしても、それが人間にとり必要不可欠なものかどうか分からない。もしかするとそれは、過去の宗教者の想像が産み出した単なる虚構に過ぎないかもしれない。逆に「悟り」とは最高にすばらしいものであり、人間に不可欠であったとしても、それが仏教からしか得られないのかどうか分からない。もし仏教を修めるより簡単に、その不可欠な要素を得る方法があったとしたら、他の新しい道を選びはしないだろうか。

 実を言うと「わたし」は、心から「悟り」のようなものがあることを信じている。そして現実にそれを獲得した人も、少なからずいることを信じている。ほんとうはもうこれだけで信心篤い仏教徒であると言えるくらいだ。仏教が「悟り」への道を説く教えであるかぎり。
 しかし「わたし」は在家信者でもなければ、ましてや得度して僧になろうとする者でもない。むしろ既成の仏教に対して根本的な懐疑を持ち、他の方法で「悟り」に少しも劣らない人間精神の最高状態へ至れないかと、日々模索を重ねている。最も苦がなく行いやすく、道を得る方法がないかと切に求めている。
 既成の仏教ではあまりに迂遠で、権威的で、空想的だ。今生では、凡人では、決して「悟り」など得られない、とまで言う。あの世があるかどうか誰も分からないのに、この世でそこまで至れないと言うなら、「悟り」を達成できる可能性など全くないに等しいではないか。そんなほんとうに救われる可能性のない教えを戴くわけにはいかず、是が非でもこの世で真の幸福に到れる確実な道を、探し求めなくてはならないのだ。




  「わたしの願い」 19900227   ⇒TOP


 現実に起るあらゆる事態・与えられるあらゆる事柄はつらくてもつまらなくても、必然的に自分が関わらなければならないものとして、素直に受け入れる覚悟はしている。しかしそうとは言っても、やはりこの世は生きにくい。理想として心に描いていることが現実とぶつかって、ひとつまたひとつとはじけ飛んでゆく。それでもなお「願い」の形で、強固に理想を押し出そうとすれば、氷塊を漏斗に突っこむようで少しも外に出て来ない。日々この押しくらまんじゅうで疲労困憊し、ひどく神経が費やされる。
 つまらぬ理想など持たないか、もしくは理想が実現しやすい環境に移るかすれば良いのだが、自分の低劣な状態を見れば理想を持たざるを得ず、今の境遇を思えばこの土地を去ることができない。
 結局のところ今ここで、疲れる状況に甘んじながら、「願い」を持ち続けるしかないのだろう。かなう期待など少しもせずに。

 そのように諦めながらも、ちなみに「わたし」は現在、次のような三つの「願い」を持っている。

1.職場を合理的で働きやすい環境に改革すること。
2.著述の形で自己の思想を表現すること。
3.己事を究明すること。

 このうち3だけはぜひとも実現しなくてはならず、その前では2や1の「願い」などどうでもいい。というより、3がしっかりしてはじめて2が可能になり、そして1のような地味でしんどい仕事にも従事できるようになる。要は3のみが問題なのであり、派生的な「願い」、もしくは3の使い道として2・1がある。




  「試練」 19900115   ⇒TOP


 なかなか調子が戻ってこない。ストレスから暴飲暴食して胃をこわし、夕食後すぐ眠くなってしまう。おかげで大事な夜の自由時間をうたた寝で過ごして、頭はぼけるし風邪気味にはなるしひどくまいっている。いつもはこの時間にわが身をつらつら省みながら、日々思索に努めていた。それがうまくできなくなって、日常生活でもよく迷いよく傷ついてしまう。
 この不調の根は深い。極論するなら、去年から始まった田舎での新しい生活が、ほとんどすべて原因とさえ言えるのだ。いやな職場でつまらない仕事をこなし、なじめない慣習の中、疲れる人付合いに振りまわされる。それで精力を使いはたして、ほんとうにやりたい事柄が手付かずの状態にある。これがずっと続いて、しだいに生活の調子が落ちて行った。
 今「わたし」はまったく身動きできない。心はもう萎えてしまい、現状を打ち破る力が湧いてこない。そうしてこのまま小さな田舎で、満たされない魂を懐きながら、朽ちはてて行くことになるかも知れない。

 まさしくかくの如く、今「わたし」は危機的状況にいる。いつしか歩むべき道を見失い、自分というものに疑いの念を懐きはじめている。環境が変わってひどく苦しい生活にのまれ、目先が見えなくなっているのだ。
 一般に苦しみに打ちのめされ目の前が真暗になり、どこへも逃れる道がないと感じられるとき、人は試練の中にいる。それまで持っていた自分の在り方に対するあまい見透しが崩壊し、新たな状況に適した行き方の創作が求められているのだ。その意味で「わたし」は今、きびしい試練の中にいると言って良い。
 以前にも何度となく「わたし」は試練に遭ってきた。むしろ一時あまりにそれが継続するので、この世には苦しむこと意外に何もないと絶望することもあった。
 一般に、そこで生きている(その状態で存在している)よりも、死んだ(存在を消滅させた)方がましだと感じられるとき、人は地獄にいると言える。その地獄に「わたし」はずっと住んでいて、人間にとり最も根本的な、ある問の答を迫られていた。曰く、
「人生とは、生きるに値するものなのだろうか」
と。十年ほどの歳月の末、ようやく去年ある体験から、この問に対し一応「値する」と答えられるようになり、長かったひとつの試練を乗り越えた。と思って喜んでいたら、すかさず次に訪れたのはこの試練だ。

 総括するなら、かつての試練は個人的状況に関するものだった。一個の人間が苦しみの多い自分の人生を、ありのままに受け入れる方法の獲得が求められていた。それに対して今度の場合は、社会的状況に対するものだと言って良い。人が社会に出て引き受けなければならない矛盾・軋轢等を、どう解決するかが求められているのだ。社会で生きながら個性を失わず、世俗に居ながら精神的な活動を止めない。このような在り方を見出さない限り、この試練=危機的状況は去らない。
 しかし思えば、「わたし」がほんとうに個人的な問題を、きちんと克服していたなら、社会的な試練など現れてこなかったに違いない。どのような状況に遭遇しても、対処するのはいつもこの自分自身であり、その心に一切の迷いがないなら、苦しみなど生じる要素はないのだ。つまり以前の自分に対する認識があまかったから、今度のような新しい環境下で弱点が露呈してしまった。
 これからまた改めて、より徹底的に自己を見つめ直し、どんな状況下でも動じない精神性を確立しなければならない。





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