雨読









           魂のこと 《2001》





   《目次》

   「がんばらないで助かる道」  「ヴィパッサナー瞑想」  「」  「自分なりの生き方」 

   「妙子人で異安心」  「朱利槃特」  「通仏教の視点」  「自我を忘れる念仏」 

   「ありのままの姿」  「提婆達多」  「行いの観察」  「真宗の根拠」 

   「大正新脩大蔵経 第二巻読了」  「鹿の王と月の兎」  









  「鹿の王と月の兎」 20011117   TOP

 『大正新脩大蔵経』第三巻『六度集経』巻三に、有名な「鹿の王」と「月の兎」の物語が出ていた。それぞれ昔話や小説の題材として、数多く取り上げられている。
 しかしそれらの翻案と原典とでは、やはり迫力がまったく違う。
 原文は、実に簡潔かつ格調高い漢語で綴られ、読み込んでいく内に、イメージが大きくふくらんで楽しい。つまらない付け足しがなく、心に強くうったえてくる。
 経典と直接触れていたら、たまにはこんなごほうびもある。




  「大正新脩大蔵経 第二巻読了」 20011008   TOP

 きのうようやく、『大正新脩大蔵経 第二巻 阿含部下』を読み終えた。
 ほぼ毎日、一時間以上読み続けながら、まるまる二年もの歳月を費やした。パソコンを使い、細かくノートを取っていたせいで、膨大な労力を要した。
 とりわけ『雑阿含経』や『増壹阿含経』は、群小経典の一大叢書で、読み切るのに各々一年ほどの時間がか掛かった。

 ほんとうにこんな苦労をして、いったい何になるというのか。なにしろ学問上まったく意味がない、ものずきな行為に他ならないのだから。
 しかしとりあえず、阿含経典がどんな内容かだけは、はっきり理解できた。どの経典の第何巻にどんなことが書いてあるか、すぐ分かるようになっている。それだけで、もう十分なのかも知れない。




  「真宗の根拠」 20010914   TOP

 世親の「浄土論」(無量寿経優婆提舎願生偈)に、
 世尊我一心に、尽十方無礙光如来に帰命したてまつり、安楽国に生ぜんと願ず(世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来 願生安楽国)
とある。これがすなわち、南無(帰命)阿弥陀仏(尽十方無礙光如来)ということなのだ。
※また善導の「観経疏・玄義分」にも、「世尊我一心 帰命尽十方 法性真如海」とある。

 浄土真宗という教えが、確かに仏教と言える根拠は、釈尊の勧めに従って阿弥陀仏へ帰依するという、この一点に求めるしかないと思う。
 少なくとも阿含経典を見る限り、釈尊は自分に帰依せよ、と命じられたことはなかった。三宝(仏・法・僧)に依拠しつつも、結局は「法灯明・自灯明」であり、あくまで各自が独力で真理をつかむよう教えられている。
 阿弥陀仏とはもともと法性法身であり、真理そのものなのだから、釈尊に勧められ自分が決意して、これに帰命するという真宗の立場が、仏教でないはずはない。それもこの上ない易行であり、大乗仏教の究極的なかたちとして。




  「行いの観察」 20010909   TOP

 ただ心身の行いを逐一観察するだけで、さまざまな苦しみからたちどころに解放され、実に穏やかで落ちついた気持を保つことができる。
 自分はこうあるべきだとか、こうしなければならないとか、うまくいったとか、しまったとか、一切考える必要はない。良くも悪くも自分の行いを、ただありのままに観察するだけで、せっぱつまった思いは消え去り、冷静に物事を捉えられるようになる。
 そうすると、ほとんどの苦しみは、おのずと霧散してしまうのだ。

 こざかしい善悪の判断こそ、自分を苦しめる元凶であり、ただ現在の行いを如実に観察して行くだけで、つまらない思い込みから完全に解放され、心は平安になる。




  「提婆達多」 20010902   TOP

 『増壹阿含経』第四七巻「放牛品」第四九の九に、提婆達多の物語が説かれている。
 彼は釈尊の従弟でありながら、僧団を混乱させ、阿闍世を唆し弑逆させ、仏も殺す謀略を企てた。そうして最後には十指に毒を塗り、釈尊の命を直接狙って失敗し、ついに地獄へ堕ちてしまう。仏典中、最低の極悪人であり、一闡提(断善根)の代表とされている。
 しかしこの経典の後半では、阿難の問いに答え釈尊が、そんな彼でも死ぬ瞬間に後悔し、「南無仏」と念仏した功徳により、遠い将来、天上へ生まれ、ゆくゆくは「南無」という名の辟支仏になると授記されている。
 以前より数多くの経典中で提婆達多に言及しながら、その救済について説く経文がなく、もの足りなく感じていた。仏法で救われない人間が、ただひとりでも存在することになるのだから。しかしようやくこの疑問も氷解して、心から納得することができた。

 すべての人間が救われない教えなど、完全な宗教とは言えない。
 少しまじめに反省し、心の奥底を覗くだけで、あらゆる悪が潜んでいることに気づく。ちょっとしたきっかけがあれば、どんな悪事でもしてしまうことは、想像に難くない。そんな自分がまるごと救われるためには、すべての悪人を助けられる思想でなければならない。ある範囲の小さな悪だけ許され、それを越えると切り捨てられるなら、完全に自分が救われる可能性などなくなるだろう。
 現世で実際に他人へ危害を加えた時、相応に罰せられるのは当然としても、極悪人を救えない教えとは、ただその程度の思想にすぎない。

 『増壹阿含経』ではいかなる人間でも、たとえいま地獄に堕ちている者さえも、心から悔い改め念仏すれば、救済されると保証している。
 およそ真の宗教には、必ずこのように善悪を超越した、慈悲深い面があり、仏教も本来そうしたものであると信じている。




  「ありのままの姿」 20010827   TOP

 なにか良さそうな教えを説く、ある宗教に携わることで、厭な自分を捨て去り、すばらしい人間に生まれ変わろうとするなら、それは完全に誤っている。結局のところ、そうした態度とは、好きなものだけ受け入れ、嫌いなものは排除するという、利己心から一歩も出ていない。
 むしろ真の宗教とは、良くも悪くもこの自分という存在の、ありのままの姿をはっきり知って、すべてを受け入れられるように、心を育てる営みのことだと思う。

 もしこの世に、神とか仏とか真理とかが存在するとしたら、それは本来きわめて把握しにくい自分の姿を、現実のまま誤りなく了解させてくれる、なにかのことを言うのだろう。
 おまえはこのように生きて死ぬ、これほどの人間なのだと。




  「自我を忘れる念仏」 20010511   TOP

 念仏とは、端的に「自己」(self)を念ずることとし、「自己」(self)を念ずるとは、端的に「自我」(ego)を忘れることとしたら、異安心とそしられるだろうか。
 けれども仏道とは、端的に「自己をならい自己を忘れること」(道元)、と考えて良いなら、これ以外に正しく仏を念ずる方法などないように思う。




  「通仏教の視点」 20010511   TOP

 いわゆる出家で、特定の教団に所属している人でなく、いまただ仏教に純粋な興味関心を持つ者なら、通仏教の視点を持つべきだろう。
 封建遺制ともいうべき、檀家中心の仏教は、個人を重視する現代において、もはや意味を失いつつある。それに固執し、あえて特定宗派を奉じ続けるなら、こうした集団に属する以外、正しい道はないと錯覚する、セクト的な思考に陥る危険性がある。

 真宗が禅宗を敬遠し、禅宗は真宗を軽蔑する。浄土宗は他宗を無視し、日蓮宗は攻撃し、真言宗は秘して自らのみを高しとする。これらのどれが真の仏教なのだろう。
 特定教団に属さない人は、そんな争いに巻き込まれる必要などない。あくまで在家仏教の立場から、通仏教の視点で、自分に最も適した教えを求めて行けば良いのだ。




  「朱利槃特」 20010317   TOP

 かねてから好きだった、朱利槃特(周利槃特)の故事を説く経典に出会った。
 『増一阿含経』巻第十一「善知識品」第二十の十二に記されている。

 愚かでまったく持戒できない朱利槃特が、兄の槃特に叱られ、還俗するよう命じられた。それで精舎の外に立ち泣いていると、釈尊が見かけて箒を一本与え、常にその名を唱えるよう教えられた。やっとその言葉を覚え、毎日唱えているうちに、箒の別名を除垢ということに気づき、釈尊の教えは、心の汚れを払う点にあったと悟った。
 それから一心にこれを修め、ついに朱利槃特は阿羅漢となった。

 ここには誰も見捨てず、機に応じて法を説く仏の慈悲が、見事に表現されており、心暖まるものがある。
 どんなに愚かな者でも、ただ一つの教えを忠実に行うなら、やがては悟りを開けるらしい。その意味で、一心に仏を念じるだけの真宗のような教えでも、確かに仏教として成り立つのだろう。




  「妙好人で異安心」 20010226   TOP

 妙好人のようでありながら、異安心であるという在り方が、自分には最もふさわしいようだ。
 浄土真宗の教義は、確かに大乗仏教の至極といえるかも知れない。しかし今日の東西本願寺教団等に見られる、卑俗な運営の有様は、どうしても首肯できるものではない。

 親鸞聖人は年忌法要をせよと教えたか、盛大な葬儀を執り行えと命じたか、そして自分の子孫を崇拝せよと遺言しただろうか。
 百歩譲ってそれは日本の常識で、やむをえないことだとしよう。しかし少なくとも阿含経を見る限り、決して釈尊はそのようなことを教えられていない。あくまで自らの心を省み、一点もやましいところがなく、ただひたすら魂の向上をはかることだけが説かれている。

 これが本来の仏道であり、そこを一途に歩むのが、妙好人に他ならない。
 たとえ聖人の教えを伝える本願寺といえども、この道に反するものとは同行するわけにいかない。そうした集団とは一線を画し、異安心と罵られようが、自分は釈尊や親鸞聖人が確かに示された道を、ひたすら進んで行きたい。



  「自分なりの生き方」 20010213   TOP

 他人の生き方をそのまま真似して、自分の身に付くわけがない。このように単純な事実さえ、多くの恥ずかしい出来事を重ね、近頃ようやく分かってきた。
 まして人生の一大事である、悟りや救いについてなら、他人を真似して身に付くことなど、なに一つあるはずがない。ひとりひとりが悟り救われる道というものは、やはり各自で求めて行くしかないのだろう。

 いま最も惹かれている親鸞聖人の教えにしても、それをそのまま頂戴するだけなら、決して身には付かないと思う。
 極論すれば、仏教とは法(ダルマ)に対する釈尊の解釈であり、浄土真宗とはこれに対する親鸞聖人の再解釈に他ならない。もしそうだとしたら、釈尊や聖人の解釈を、さらに解釈するのではなく、ふたりが解釈しようとしたものを、自分なりに解釈したいのだ。




  「愛」 20010212   TOP

 いわゆる「愛」の本質とは、執着に他ならない。愛するものにとらわれて、何があっても離れないと、思いこむことを意味している。好き嫌いの感情は、それに付随し起こるものであり、強烈な情動が見られる割に、本質的な要素ではない。
 しかしその対象が人間である場合、それで相手が幸せかどうかは、まったく別の問題なのだ。愛すれば愛するほど、相手が不幸になることも、境遇によって実にしばしば見受けられる。

 ほんとうに相手の幸福を考えるなら、我が身は切られるような思いをしても、あえて愛する人と別れなければならない時もある。「愛」による執着のあまり、相手を意のままにしたいという、支配欲が現れるようになったときなど、まず要注意だろう。




  「ヴィパッサナー瞑想」 20010205   TOP

 去年の夏頃、はじめて上座仏教を知り、以来半年ほどヴィパッサナー瞑想等を実践している。およそ「苦」という現象に対処しようとするとき、この教えはほんとうに効果がある。
 まさしく応病与薬と言うべきもので、今なにか悩み苦しみを持つ人なら、一度試してみるべきだろう。

 ただしこの瞑想も、本来は出家を前提としたものであり、在家で雑事をこなしながら、片手間にやれるものではない。この点、現代社会で生活する者には、少々受け入れがたい部分もあり、大乗仏教の視点も取り入れる必要があると思う。
 とりわけ在家仏教の真髄である、「念仏」について。




  「がんばらないで助かる道」 20010203   TOP

 いつかまじめに努力すれば、なんとかなると思いこんでいる、幸せな人は関係ない。
 そうではなく、生まれてこの方いろいろやりながら、何もまともにできなかったと、心から反省する人のために、道を求めてみたい。

 いつかきちんと努力できる人にしか、救われる道はないのか、それともまじめにやれる能力のない人でも助かるのか、しっかり見きわめたい。
 なぜなら、ほんとうに努力できる人間など、過去の伝説に出てくる人物を除けば、現実にはほとんど存在しない。ふつうの人間は、力弱く悩み多く、まともにがんばって魂を高めていくことなど、まず不可能ではないかと思うからだ。