雨読








           魂のこと 《2004》





   【目次】

   「誕生」  「無我の行」   「学問とは」  「仏教の真髄」   「浄土偽宗」  「人生の迷い

   「大正新脩大蔵経 第三巻 読了」  「自灯明 法灯明」   「人生の基調









  「人生の基調」 20041212   【目次】

 近頃ようやく人生の基調を、ありのままに捉えることが、少しはできるようになった。
 これまではどうしても、理想的な状態を本来の姿と見なし、調子良くて当たり前、と思いこんでいたようだ。それで気持が鬱ぎ、体調がすぐれないのを異常と考え、なんとか調子を取り戻そうとあがいていた。

 これは、逆ではないだろうか。  たとえば一年の内で、身体のどこもおかしくなく、軽快で心も高揚し、起きてから寝るまで楽しく暮らせたという日は、何日くらいあるだろう。むしろ生活上のちょっとした問題に遭い、心がなかなか晴れず、鬱々としている日の方が、はるかに多いようだ。

 当然これは、人それぞれの境遇に大きく左右される。ただ少なくとも自分の半生をふり返ってみた時、心から楽しく過ごせた時間など、ごくわずかだった。
 それならやはり、日々苦しく感じるのが当たり前で、うれしく楽しい時は授かりものだと考えざるをえない。そうして、毎日かくのごとく嫌なことばかりあっても、当然のことと受けとめ、あまり心が動揺しないように、今ようやくなりつつある。






  「自灯明 法灯明」 20041125   【目次】

 いま『仏所行讃』(大正蔵 No.192)を通読している。
 これは仏伝に関する一大叙事詩であり、五言詩で釈尊の事績が詳述されている。
 その最終巻(第五巻)には、 「自灯明 法灯明」についての見事な一節があった。

  善く自らの洲に住み まさに自らの洲を知るべき者は 
  専精して方便に勤め 独り静に閑居を脩む 
  他の信に従わず まさに法の洲を知る者は 
  決定して慧灯を明にし 能く滅して痴の闇を除く
  (善住於自洲 当知自洲者 専精勤方便 独静脩閑居 
   不従於他信 当知法洲者 決定明慧灯 能滅除痴闇)
 『仏所行讃』は、韻文のわりに教義内容まで深く踏み込んでいる。
 「自灯明」にまつわる部分でも、初期仏典の通り、正確に「自洲」と翻訳されている(漢訳の「灯明」は島・洲の誤訳)。
 自らを知り、法に則って精進する者は、愚痴の闇を滅除する智慧の灯となる。また「他の信に従わず」と明言し、軽々しく宗教を盲信しないよう誡めている点も興味深い。
 心に銘記すべき言葉であろう。






  「大正新脩大蔵経 第三巻 読了」 20041023   【目次】

 『大正新脩大蔵経 第三巻 本縁部上』を、ようやく読了した。
 2001年の10月16日に読み始めて、丸々3年の歳月を費やしたことになる。その間、実に多くの出来事があり、なかなか毎日、大蔵経を読む時間が取れなかった。
 2002年3月、職場の電算化が完了し、この事業の担当者だった関係で、過労により倒れるかと思う時もあった。
 2004年1月、待望の息子が誕生し、妊娠が分かってからは、自分のため使える時間が極端に少なくなった。
 2004年6月『白糸篇』の注釈本を刊行し、それまで丸3年は、原稿の執筆と校正等に追われていた。
 ほんとうにこの3年間、馬車馬の如く突っ走って来たようだ。

 そのせいか大蔵経を一巻読み通すのに長い時間がかかってしまい、もうこんなお勉強を自分に課すのはやめたいと、何度思ったかしれない。
 今つくづく反省すると、この大蔵経を読むという行為は、研究者としての自分と求道者としての自分が、せめぎ合うものだった。研究者の自分は、こんな学問上意味のないことなど、すぐやめろと言う。しかし求道者の自分は、尊敬すべき先人たちが多く歩んだ道を、そのまま進むよう強く求める。
 それがようやくこの頃、例の本を出したせいで、研究者としての方向に、ひと区切り付いたような心境になった。これから自分が学問上、完成できる仕事の限界がはっきり見えてきた。もう目くじら立てて、学問に執着することもなかろう。
 それでこれからは、できるだけゆっくり時間をかけ、またしみじみ大蔵経と向き合って行きたい。






  「人生の迷い」 20041011   【目次】

 もうすでに不惑の歳も越したのに、まだ自分は人生の在り方について、いくつかの迷いを懐いている。
 田舎で生活することに決めて以来、地域史に関する事柄を、それなりに研究してきた。具体的には主として浄土真宗の宗教思想をめぐり、あれこれ考察を進めていた。それが『白糸篇』の本を出したことで一段落し、もうなにか著書を公表したいという欲求が失せてしまった。同時に現代の、重箱の隅をつつき回すような学問の方法に飽き足らなくなり、もっと直接人間精神の深みまで届く、心の営みに没頭したくなった。

 元来自分は研究者に向く人間でなく、求道者の端くれであった。
 今日、学問研究を行うことの意義は、人一倍重く受け止めているつもりでいる。しかし例えばこの地域に関する歴史を、どれほど精密に研究したところで、ある狭い土地の、ある限られた時期の時代精神を把握できるにすぎない。それはそれで確かに有意義な成果ではあっても、決して人間精神の奥底まで到達できるものではない。
 もう自分もそれほど若くなく、残された人生で精力的に活動できる時間も、概ね計算できるようになった。そろそろ対象とする分野を絞り込み、余計なことに携わるのは止め、魂の向上をはかる営みだけに集中していくべきだろう。






  「浄土偽宗」 20040313   【目次】

 先日、親戚の通夜に出ていた時、ある人から棺の中で、遺体の上に置かれていた経文の意味を問われた。それは「法號」と表書きした紙包みで、
 其仏本願力、聞名欲往生、皆悉到彼国、自致不退転。
(其の仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲[おも]へば、皆悉く彼の国に到りて、自ら不退転に致る)
 という一節が書かれており、日付と法名が添えられていた。

 これは信楽峻麿氏の『親鸞とその思想』(法蔵館2003 p.87)によれば、 「破地獄の文」と呼ばれるものらしい。『無量寿経』巻下の初めに見える、「往覲偈」が出所であり、この一文を入れておけば、生前に悪行を重ねた者も、地獄を逃れ極楽へ行けると信じられている。近年、本願寺派において、本山の指示により入れるようになったという。
 信楽氏も厳しく批判する通り、これは葬式仏教の典型的な事例であり、すでに浄土真宗の教えとは言えず、呪術宗教化した「浄土偽宗」に他ならない。地獄や極楽を実体視し、門徒の死に対する恐怖心を煽って、教義に縛り付けようとする、前時代的な策略が透けて見える。
 また本山では、お守りのような体裁の「懐中名号」(前掲書p.57)も公然と販売されているらしい。

 信楽氏がいつも力説しているように、浄土真宗の信心は、個人の「めざめ体験」を核とした、一元論的な宗教経験でなければならない。阿弥陀仏や極楽浄土等を実体視し、自己以外に求める対象を設定して、盲目的に帰順するというような二元論的態度では、とても正しい仏教の姿とは言えない。
 信心とは、端的に言えば、ほんとうに「心が澄んできれいになる」ことであり、自分の罪が根源から意識され、少しでも悪いところを改めるよう、精進する営みであろう。

 仏教とは結局のところ、他を当てにせず自らの意志に基づき、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意」(法句経 七仏通戒偈)を実践する点に、真髄があると思う。ここから離れてしまう教えは、一見どれほど立派で魅力的でも、真の仏教ではないと断言したい。






  「仏教の真髄」 20040210   【目次】

 叡尊の言葉を、またひとつ採り上げたい。

 法相・三論・天台・花厳、顕密権実ノ聖教、実ニ得心レバ唯一意也。所詮我ヲ捨テ、偏ニ為他離私也。後ニ閑ニ申ストモ不可過之候。
 ―『興正菩薩御教誡聴聞集』(『日本思想大系15 鎌倉旧仏教』岩波書店
  1971 p.192)
 仏教は表面から見れば、顕・密のさまざまな思想に分かれている。しかし究極のところ、それは「我を捨て、ひとえに他の為にして私を離れる」ことに他ならない、と断言している。まさしく仏教の本質とは、無我へ至る営みであり、ただその手法があらゆる人間の機根に応じるよう、永い歳月にわたって工夫され、多様な形で現れているにすぎない。
 今から七百年以上も昔に、これほど明快な態度で、仏教の真髄を看破した人物がいたのだ。






  「学問とは」 20040209   【目次】

 真言律宗の祖である叡尊は、学問の目的について、次のように語ったという。
 学問スルハ心ヲナヲサム為ナリ。当世ノ人ハ物ヲヨク読付ムトノミシテ心ヲナヲサムト思ヘルハナシ。学問ト申ハ、先其ノ義ノ趣ヲ心得テ常ニ我心ヲ聖教ノ如クナリヤ否ト知ナリ。我心ヲ聖教ノ鏡ニアテ見ルニ、教ニ背クトコロヲバ止メ、自ラアタルヲバ弥ハゲマシ、道ニススムヲ学問トハ申ナリ。只暫ク文字ヲバイツモ読付ラレヨ。先イソギ各心ヲ直サルベシ。心ヲ直サヌ学問シテ何ノ詮カアル。
 ―『興正菩薩御教誡聴聞集』(『日本思想大系15 鎌倉旧仏教』岩波書店
  1971 p.190)
 ほんとうに真の学問とは、 「心をなおさん為」に行うものだと思う。
 実存は本質に先立つという有名な思想があるように、人は生まれながらにして人間本来の徳性が、円かに備わっているわけではない。正しい学問により、悪しき自我のはたらきを直し、精神を陶冶するのでなければ、健全な人格は育たない。

 いま学術という言葉で、学問・芸術・技術などを総括して扱うとき、通常は科学技術に関する部分のみが追求され、古来の精神的な学問は、あまり顧みられなくなった。人文系の分野でも、ただテキストを厳密に読み込んで、なにか立論することばかり重要視され、人としての心の在り方など、ないがしろにされているようだ。
 まさしく「当世の人は、物をよく読み付んとのみして、心をなおさんと思えるはなし」であり、ここに現代社会を病ませる、原因が潜んでいるように感じられてならない。
 「心を直さぬ学問して何の詮かある」という叡尊の言葉を、しっかり肝に銘じたい。






  「無我の行」  20040205   【目次】

 またひとつ歳をとった。
 今年は1月の終わりから大雪になり、今日も終日、白いものがちらついている。
 子供の頃のような雪国らしい気候を、懐かしく想い出している。

 その瞬間その瞬間に、身体の動きを逐一感じながら、精神を集中して物事に当たるとき、いつしか自然に無我の行が修められている。
 個々の瞬間を離れて、過去や未来に思いをはせるのは、まさしく「自我」のはたらきに他ならない。少なくとも自分の心に浮かぶ過去や未来は、別世界に実在するものでなく、記憶と想像力をたよりに、意識下で構成しているのだ。

 そうした「自我」の働きを必要最小限度に止め、ただ今そこでなすべき事柄に即し行動するなら、直ちに無我の境地へ入ることができる。とりわけ人を苦しめる、過去の嫌な思い出や将来への不安は、つとめて今現在に集中し立ち働いているうちに、おのずと消滅してしまう。
 これこそ日常で実現できる、魂の平安と言えるのではないだろうか。






  「誕生」 20040103   【目次】

 正月2日の朝、5時15分、待望の息子が誕生した。
 暮れの30日深夜から陣痛が始まり、およそ50時間もかかってようやく出産した。
 しかしそれでも担当の医師は、安産の方だという。
 正直なところ、まだ父親としての自覚は薄い。
 けれどもやはり出産に立ち会い、親子三人そろった瞬間は、実に感動的だった。
 この先、末永く仲良く暮らしたい。