雨読









魂のこと 《2006》






   【目次】

   「坐りませんか」  「ありがとう」   「空念仏」  「信とは

   「幼児とことば」  「感謝して生きる道」  「毎日の思索






  「毎日の思索」  20061024   【目次】

 なぜか自分は、あれこれと思索することが、毎日の習慣となっている。しかしそれで、なにか具体的な仕事を、しようとしているわけでもない。特定の研究をするための思索でも、ひとつの著作を仕上げるための思索でもない。

 この自分は、なんの因縁か娑婆世界に生まれて、そう遠くない将来、必ずここから去らなければならない。意識をもち、物事を思考する癖のある一個の人間として、この揺るぎない事実と、どう折り合いを付けたら良いか、納得の行く説明ができるようになりたい。
 ただそれだけの理由で、多くの書物を買いあさり、日々思索している。

 この問題を解決するヒントとして、仏の十号に「如来・如去」とある通り、ただ「如」であることが重要なのではないか、といま考えている。これをもう少し筋道立て、分かりやすい言葉で表現することが、人生の大きな目的となっている。






  「感謝して生きる道」 20060424   【目次】

 浄土真宗の教えでは、古来「御恩報謝の念仏」が重んじられている。
 これは、わが身を救い取ってくれる阿弥陀仏へ、日々感謝を捧げて生きることをいう。しかしよくよく反省してみると、仏がいなければ感謝できないわけでもない。
 ふつうの感覚では、なにか思いがけず善いことがあった場合など、めったにないことだとして「ありがとう」(有ることが難い)と感謝する。また特別誰かのお世話になった時は、当然その御恩に対し感謝する。
 「御恩報謝の念仏」も、その類と言えるだろう。

 ところでこうした感謝の念は、なにか特定の原因がなければ決して起こらない、というものでもない。
 ためしに今、単なる思いつきで「ありがとう、ありがとさん」と、感謝してみれば良い。なかなかはじめから実感が伴うものではないとしても、虚心にくり返し続けるうち、しみじみとした感情がわき起こるようになる。逆にそんな気持になったため、感謝する対象を記憶の中から、呼び起こしたりするようにもなる。
 ただいま自分が生きているというだけで、誰でもすぐに感謝できる。

 このようにわざとやった感謝でも、ある種の瞑想に匹敵する精神的効果があるようだ。
 感謝を捧げている間、しだいに心が深いところまで落ちつき、おのずと喜びにあふれた、広大な世界が開かれていくように感じる。ちょっとした不快な感情や、わだかまる悩み苦しみなども、その間は影を潜め、安楽な気持で満たされる。
 もしかすると坐禅に類した、心身上の作用があるかもしれない。そしてこれは、ただ少しばかり気持を切り替えるだけで、直ちに実行可能であり、坐禅よりはるかに易しく実践できる。
 ずっと探し求めてきた「がんばらないで救われる道」があるとしたなら、ただこうして「ありがとう、ありがとさん」と、感謝して生きることだと思う。
 この「感謝して生きる道」を、これから日々実践したい。






  「幼児とことば」  20060320   【目次】

 幼い息子が2歳を越え、ようやくいくらか言葉を話すようになった。
「カーカ。トート。アッタ。イヤ」
などが、得意のレパートリーになっている。
 ただ理解できる言葉はまだまだあって、こちらが、
「ナンナン。ワンワン。オフロ」
などと言ってやれば、それぞれ仏壇・犬小屋・風呂場の方へ歩いていく。さらにどれだけ意味が分かっているか不明でも、ありがとうと言ったら手を合わせてお辞儀したりもする。

 そればかりか彼の行動をつぶさに観察すると、言葉で表現できなくとも、かなり高度な思考をすでに行っていることが分かる。
 たとえば、玄関下にお気に入りのボールを見つけると、傘立てから杖を持ってきて、取ってもらおうと親へ渡す。また外へ遊びに行きたい時は、親のスリッパをきちんと揃えて、道路の方を指さす、等々。

 こうした何段階にも及ぶ思考の積み重ねが、言葉を操る前にもうできている。
 彼の中には、すでにはっきりとした個性や意志が現れており、ある程度思考することも可能になっている。きちんと言語を習得する以前に、自我はもう存在しているらしい。
 従って、自我が必ずしも言葉だけで作られているわけではなく、また人の行為も言葉で思考する以前の段階で、決定されていることもある、と考えられる。
 こうした幼児の言動を間近に見ることで、自我と言葉の係わりを理解する、またとないヒントが得られる。






  「信とは」  20060122   【目次】

 『阿毘達磨倶舎論』巻第四「分別根品」第二之二に「此の中信とは、心をして澄浄ならしむるなり」(此中信者、令心澄浄)とある。これは極めて短い一文ながら、およそ信心というものの、真髄を捉えた言葉ではないだろうか。
 信とは、心をきれいにさせるものである、という。これが確かな事実であれば、信じる気持によって必ず人の魂が浄化され、救済されることになる。

 一般に信とは、正しいとして疑わないことを意味する。それが宗教上では、自分以外の確かな存在に頼り、物事についての判断を一任する態度のことになる。それは実在の人間でも、歴史的な人物でも、理想的な人間像でも、または特定の思想などでもかまわない。とにかく何かこの自分から離れた、確かなものに従って判断し、疑う心がないことをいう。
 そうしたものを信じることで、自分で自分のまわりをぐるぐる回るだけの我執から離れ、善し悪しを含めて自我の様相が、はっきり分かるようになる。後は自我の正体を見据え、わずかでもそれが改善するよう日々努力すれば、しだいに心の汚れが除かれ清らかになり、苦しむ原因が解消され、魂が根本から救われていく。

 ところで、こうした信心の作用は、見方を変えれば、念仏で救われるという事実を解明する、原理となるかもしれない。
 念仏とは、信じて仏を念ずることであり、仏を念じるなら我執から離れ、無我になり、心の有様がはっきり分かるようになる。そうして明らかになった心を見つめ、仏の教えに従い悪しきを改め、善きを伸ばして行けば、確実に魂が清められ救われることになる。
 このように念仏で救われる根拠とは、信心のはたらきにあると言って良いだろう。






  「空念仏」  20060111   【目次】

 真宗の極意とも言うべき「御恩報謝の念仏」について、少々思い違いをしていた。
 ここで言う「御恩報謝の念仏」とは、蓮如上人の言葉によれば、次のようなものだとされている。
 弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。このうへには、なにとこころえて念仏まうすべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏まうすべきなり。
  『御文』第一帖(三) 『原典校註 真宗聖典』法蔵館 p.929
 このように念仏では、まず阿弥陀仏の本願を信じ、往生疑いなしと得心することが前提となっている。それから信心決定した上で、自分を救ってくれた阿弥陀仏へ、御恩を報謝するために、死ぬまで念仏すべきであるとしている。理屈からすれば、まさしくその通りであろう。

 しかしながらこうした論理では、確かな信心を得た人だけしか正しく念仏できない、と思われてもしかたない。もしこうした念仏しか奨励されないのであれば、浄土真宗は安心立命したごく少数の人しか救われない、偏狭な宗教になってしまう。
 本願を信じてこそ、念仏に意味があると思い込み、信心が伴わないものを空念仏として見下すべきではない。たとえ少しの気合いも入っていない、屁のような念仏でも、それを口にするだけで確かな効果があるのだ。

 折にふれ、なにげなく念仏を口ずさんでいれば、少なくともその瞬間は我執から離れ、無我の境地をかいま見ることができる。これがほんとうに習慣化し、我執に囚われることが少なくなり、根本的に煩悩が解消して行けば、まちがいなく魂は救われるだろう。
 実際に今、種々の悩み苦しみで頭がいっぱいだとしても、ふっと念仏が心に浮かんで、ひとしきり称えていると、徐々に気持が静まって行く。それで苦しみの原因が、解決するわけではないにしろ、過去の忌まわしい記憶も、未来への不安や恐れも、念仏すれば直ちに治まる。これは様々な瞑想と同様、精神の安定にきわめて有効な方法といえる。
 『蓮如上人御一代記聞書』に「仏法には無我と仰られ候」(第八一条 『原典校註 真宗聖典』p.1044)とある通り、極論すれば仏教とは無我へ至る方便に過ぎない。これさえしっかり押さえていれば、その手法はほとんど何でも良い。






  「ありがとう」  20060110   【目次】

 なにかにつけて「ありがとう」と口ずさむことを、毎日の習慣にして行きたい。

 朝起きたら、まず新しい一日へ「ありがとう」
 なにか食べたり飲んだりしたら、必ずひとこと「ありがとう」
 手や顔や体を洗ったら、またひとこと「ありがとう」
 夜寝床へ入ったら、一日のしめくくりに「ありがとう」
 良いことがあったら、すかさず「ありがとう」
 嫌なことがあっても、とにかく「ありがとう」

 深い意味など考えず、思いついた時にすぐ「ありがとう」と口ずさみたい。
 そうする内になにか、心が軽く明るくなったと、実感できるようになるだろう。






  「坐りませんか」  20060107   【目次】

 昨年の暮、元曹洞宗管長の板橋興宗師が、『坐りませんか』(PHP研究所)という本を出した。板橋師は以前から、禅に関する軽妙なエッセイを書かれており、さっそく手に入れ一読してみた。
 この本には、自筆の禅画も添えられていて、これまで以上に親しみやすい体裁となっている。しかしその一見平易に書かれた文章が持つ、意味の深さに驚いてしまった。

 たとえば実にさりげなく、次のように語られている。
「くよくよ考えないために、どうしたらいいか。いやなときも『ありがとさん』。いいときも『ありがとさん』。一〇〇〇回やるつもりでやってみてください」(p.48)
 こうすることの意図についても、詳しく説かれている。
「要は、あなたが納得する口ずさみをつくるのが一番いいのです。自分なりに納得する、口ずさみをつくってください。もうこれ以上、頭を使わなくなるための口ずさみです。いうならば、私なりの空念仏です」(p.49)
 当然これは「なんまんだー、なんまんだー」でも良く、ほんとうに実行すれば、人相が変わってしまうほどの効果があるらしい。

 この考え方はある意味で、念仏というものの真髄を捉えていないだろうか。
 通常、真宗では念仏の意義を、往生との関連で説いている。阿弥陀仏の本願を信じ念仏することで、浄土へ往生できるとする。ただしこれは教義上なら正解であっても、極めて現実的な現代人が、すなおにのみ込める考え方ではない。しかし板橋師の見解によれば、空念仏を毎日まじめに称えるだけで、ふだんの態度も一変するほど、意識が改善されるという。
 このように念仏という行為が、背景にある様々な教義を抜きにしても、無我に直結し、解脱に有効な方法と理解されれば、多くの悩める人々が確かに救われるかもしれない。

 また板橋師は、仏教や禅と「ありがとさん」の関わりについて、次のように語っている。
「私も、人並みに仏教を学び、禅の修行をしてきました。でも、みんな忘れてしまいました。しかし、宇宙がはじまってから連綿と続いてきた生命体が、いま、ここに一刻一刻、生きている。これだけは、疑いようもない、忘れようもない事実であります。この事実を実感していれば、仏教や禅の理論や知識などは、もうどうでもいいではありませんか」(p.59)
 喜寿を越えるまで、厳しい修行を重ねてきた禅者が、仏教の理屈など忘れてしまった、と語るのには驚いた。生命の事実を実感し「ありがとさん」と空念仏を称えてさえいれば、すべて済んでしまうと言うのだ。まるで現代の良寛さんを、見るような思いがする。