雨読









魂のこと 《2008》






   【目次】

   「念仏して得られるもの」   「心の基準点としての念仏」   「求めない念仏

   「信心のある念仏」   「悪いこと最悪なこと」   「顛倒妄想から離れる念仏

   「信心の救済的効能―清沢満之『我信念』をめぐって

   「いのち と からだ」   「生活の中での念仏






  「生活の中での念仏」 20081208   【目次】

 今年の10月・11月は、業務システム更新に関する現場作業に追われ、心静かに思索する時間が、まったく取れなかった。日常の軋轢で精神的な余裕が無くなり、仏の教えもほとんど忘れ、生活に汲々としていた。
 しかしおかげさまで、念仏だけはなんとか身に付いているらしく、このような状況下でも、毎日折りにふれ称えることができた。

 卑近な例を挙げれば、昨晩妻と口論し、ただでさえ機嫌が悪いところへ、朝仕事の上でたいへんな落ち度が見つかり、上司から叱責され、対応に追われたとする。
 ふつうの社会人なら、これくらい日常茶飯事であっても、やはりそんな日は、寝るまでやるせない思いに沈むだろう。しかしこんな悪日でも、折々念仏していれば、そのつど少しは気持ちが休まる。そうこうしている内、ひどく憂鬱な状態からやや正気に戻り、前向きに行動する意欲も、なんとか湧いてくるようになる。

 この通り念仏には、常日頃経験する種々の悩みや苦しみを、その場で和らげる効果が確かにある。それがしっかり実感できたなら、もう以後は念仏を止めることなど、もったいなくてできなくなってしまう。
 そうして苦しい時期を乗り切った後は、なんとか今回もしのげたことに感謝し、御恩に報いるため少しでも善いことをしたい、という気にもなるのだ。






  「いのち と からだ」 20080907   【目次】

 最近、ちょっとおもしろい本に出会った。

 (A)『わたしを超えて―いのちの往復書簡』 玄侑宗久 岸本葉子 著
   中央公論新社 2007
 (B)『からだに訊け!―「禅的生活」を身につける』 板橋興宗 玄侑宗久 著
   春秋社 2006

 (A)はエッセイストの岸本氏と、禅僧で芥川賞作家の玄侑氏とが交わした、丸一年に及ぶ往復書簡集で、(B)は玄侑氏と元曹洞宗管長だった板橋氏との対談集であり、二冊とも仏教の真髄を、きわめて平易な言葉で語り尽くしている。
 このうち(A)は、宗教的な事柄に強い関心を持ちながら、これまで特定の宗派とは、ほとんど関係してこなかった岸本氏が、玄侑和尚の導きで瞑想や陀羅尼にふれ、霊性や魂のことに目覚めていく、というものだった。それは言い換えれば、言葉や思考の座である「わたし」中心の在り方から離れ、 「いのち」の現実に即して生活する、ということに他ならない。
 また(B)は、臨済宗で中堅どころに位置する玄侑氏と、曹洞宗最高位を退き、田舎で小さな道場を営んでいる板橋氏とが、宗派の枠を超え仏教の本質について語り合い、現代社会で禅を身につけた生き方の、大切さを説いている。
 この(A)(B)を通して読むとき、自我的世界に凝り固まった現代人が、魂のことに目覚め、 「いのち」を宿す「からだ」の重要さについてよく理解し、満ち足りた生活を送っていくための、貴重なヒントが得られると思う。






  「信心の救済的効能―清沢満之『我信念』をめぐって」 20080818 【目次】

 真宗において、信心することや念仏することで、実際にどのような効果があり、利益がもたらされるか聞くことは、タブーとなっているように感じられる。
 原則として他力の教えであり、自分の利益について取りざたすることは、論外である、と見なされているのだろうか。または最終的に、浄土へ往生することだけが目的であり、現世における苦しみを、具体的に解決する方法などには、注意を払っていないのかもしれない。

 親鸞聖人も、この点に関し「現世利益和讃」で、念仏すれば罪が消え、諸仏・諸菩薩や神々が、守護してくれると言及する程度に過ぎず、利益の具体的な内容については、もうひとつ明らかではない。
 そんな中で清沢満之の絶筆とされる「我は此の如く如来を信ず(我信念)」では、ある種の「信念」により、どのように人の心が救われるか、詳細に説き明かされている。
 先づ其效能を第一に申せば、此信ずると云ふことには、私の煩悶苦悩が払ひ去らるゝ效能がある、或は之を救済的效能と申しませうか、兎に角、私が種々の刺戟やら事情やらの為に、煩悶苦悩する場合に、此信念が心に現はれ来る時は、私は忽ちにして安楽と平穏とを得る様になる、其模様はドーかと云へば、私の信念が現はれ来る時は、其信念が心一パイになりて、他の妄想妄念の立ち場を失はしむることである、如何なる刺戟や事情が侵して来ても、信念が現在して居る時には、其刺戟や事情がチットモ煩悶苦悩を惹起することを得ないのである、…(中略)…私が宗教的にありがたいと申すことがあるが、其は信念の為に、此の如く現実に煩悶苦悩が払ひ去らるゝのよろこびを申すのである、
 ― 『清沢満之全集 第六巻 精神主義』岩波書店2003 p.330-331

 ここで清沢満之がいう「信念」とは「如来を信ずる心の有様」(p.330)を指している。それをもっと具体的に言い換えるなら、信心のある念仏が、心に現れた状態と考えても良いだろう。この「信念」が心に現れた時、ただちに他の妄想が消失し、苦悩が払い去られ、安楽になれるという。
 信心のある念仏に、苦悩を駆逐する心理的効果が確かにあるとする、清沢満之の実体験にもとづく報告は、傾聴に値すると思う。






  「顛倒妄想から離れる念仏」 20080811   【目次】

 今日、真宗王国と呼ばれる北陸でも、昔ほど身のまわりで、念仏の声を聞かなくなった。また、僧籍を持つ知人の話では、門徒はおろか僧侶の間でも、念仏を称えることに抵抗を感じる人が、多くなってきているという。
 今いわゆる「念仏者」は、絶滅の危機に瀕していると言って良い。

 それなら念仏は過去の遺物であり、現代人にとってまったく意味のないものに、なってしまったのだろうか。
 数年前からこの点に疑問を感じ、自分なりにあれこれと思索してきた。そして、たとえ空念仏であったとしても、ただ称えていれば妄想から離れることができ、心が落ちついて、たいへん有益であると結論するに至り(→「念仏の効用」20070808)、この問題に対するいちおうの解答とした。

 しかし折にふれ考え直してみたところ、まだまだこれでは不完全であり、重要な点を見落としていたようだ。
 むだに頭を悩ませる妄想から離れ、正気を保っていられることが、どれほど大きな意味のある事柄か、よく理解できていなかった。たとえば『華厳経』を見ると、次のように説かれている。
 一衆生として如来の智慧を具有せざるは無く、但だ妄想・顛倒・執著を以てして、証得せざるのみ。若し妄想を離るれば、一切智・自然智・無礙智は、則ち現前するを得る(無一衆生、而不具有如來智慧、但以妄想顛倒執著、而不證得。若離妄想、一切智・自然智・無礙智、則得現前)。
 ― 『大方廣佛華嚴經』巻第五十一 「如來出現品 第三十七之二」
  (『大正新脩大藏經』第十巻 p.272c)
 すべての衆生に具わっている如来の智慧は、妄想・顛倒(誤った考え)・執着のせいで悟ることができない。もし妄想から離れられるなら、一切智等は直ちに得られる、という。
 誤った思考に執着せず、妄想から離れるだけで、如来の智慧が現れ、悟ることができる。もっとも経文でいう「妄想」とは、衆生の根本的な無明まで意味するようで、われわれが日常的に意識しているものとは、いささか次元が異なる。しかし仏教で説く究極の悟りが、ある種の妄想から離れることで得られるという捉え方は、きわめて重要に思える。

 常日頃に、折々称える空念仏程度では、どれほど根本的に顛倒・執着を断てるか、はなはだ心もとない。
 ただ実際に念仏が妄想をうち破るのは、日常的に体験する通りであり、少なくとも目先の苦悩なら確実に除ける。それだけでなくもし一心に念仏することで、妄想の根を完全に断てるなら、如来の智慧さえ得ることができる。
 これはまさしく、悟りへと至る行なのだ。
 念仏がまぎれもなく正しい仏行と言えるのは、こうした理由による。






  「悪いこと最悪なこと」 20080731   【目次】

 今年は春頃から多事多端で、ゆっくり思索する時間がない。またどうも一身上において、区切りの年に当たったらしく、いくつものことが終わり、そして始まった。

 3月に親しい友人がリストラに遭い、氷見を去っていった。
 4月から開始した業務システム更新事業が難航し、対応に忙殺された。
 7月に少々もめ事があり、6年間非常勤講師に行っていた短大を辞職した。

 正直なところ、いろいろな障害が同時期に重なり、ひどく気落ちしたこともあった。  しかしそれでも以前のように、鬱状態に陥ったり、何日もヤケ酒をあおったりすることはなかった。これは、逆境で不運な出来事に翻弄されていても、その中で悪いこと最悪なことを、分けて考えるようになったからかもしれない。
 自分にとり少々つごうが悪い程度のことは、そのまま一切相手にせず受け流してしまう。そしてほんとうに堪えがたい、最悪なことに対してだけ、真正面から全力で立ち向かう。こうした心がけで、気力を大幅に節約でき、鬱になる程度も少なく、逆境をしのぎやすくなった。
 さらにつらい感情が表れたとき、すぐ念仏を称えることで、思考が一箇所に止まらず、あまりねちねちと悩まなくなった。

 当たり前なことのようでも、やはり苦しみからすばやく逃れるには、感情を滞らせず、気分転換するに限ると、よく分かった。そしてこうした気持ちの切替に、念仏がたいへん有効であることも、心から納得できた。






  「信心のある念仏」 20080205   【目次】

 念仏は信心がなければ、本物ではないと言われている。
 しかしながら信心については、古来きわめて微妙な問題が多くあり、どんな心の状態を指していうのか、非常に難しい。

 そこで実際問題として、こうした教義上の論議には立ち入らず、心にしっかり名号が根付いていれば、信心があると考えて良いのではないか。
 名号のいわれについて、自分なりに納得して疑わず、これを心の礎と定め、つねに忘れることがない。このように根付いて、日々南無阿弥陀仏と称えていれば、信心のある念仏と言えるだろう。






  「求めない念仏」 20080202   【目次】

 日々怠らず念仏していれば、確かにいろいろ功徳があるようだ。
 念仏に無関心だった頃と比べ、明らかに怒ること、貪ること、悩むことが減り、安らかに過ごせるようになった。また心の中に、自己や世界をありのままに見る基準点があり、迷いが少なく、自分を素直に受け入れることができる。
 念仏に金銭や健康など、具体的なご利益を求めるのはお門違いだから、これだけでもう充分だろう。

 しかし、ここで念仏すれば功徳があるといっても、そうしたものを求めるために「南無阿弥陀仏」と称えるなら、効果は半減する。
 たとえどのように称えても、空念仏の効用により、多少は得るものがあるだろう。ただそんな態度では、自分のために念仏を利用しているだけなので、我執に妨げられ、功徳が完全に現れなくなる。
 やはりなにも求めず、ただ念仏するのが本来の姿であり、そうすれば「浄土の功徳」がわがものになる。






  「心の基準点としての念仏」 20080121   【目次】

 念仏を愛好するようになり、日々南無阿弥陀仏と称えるうち、少しずつ発見があって、つい最近もひとつ分かったことがある。
 念仏が習慣になり、いつも名号が念頭にあると、その時々において心がどんな状態か、はっきりと捉えられる。喜怒哀楽などの感情が激しく起こっている最中、自分の精神状態を明確に把握することは、非常に難しい。たとえば怒り心頭に発している場合は、自分が激怒していることさえ忘れ、感情の趣くままに行動しがちになる。

 念仏が習慣化し、つねに名号が念頭にあれば、そんな時でも自分が怒っていると気づきやすい。また激情のあまり、念仏が心から消え去ったなら、かえってそれがきわめて異常な状態であると、すぐ自覚できる。
 悩んでいるとき、悲しんでいるとき、落ち込んでいるときも同様で、心の中が真っ暗になり、どこへ向かえば良いか分からなくなっても、念仏さえあればそこを基準として方向が定まる。

 このようにいま自分の心がどうなっているか、見定める基準点としても、念仏は大きな力を発揮してくれる。
 人間は自身を自覚しようとするとき、自分の眼だけでは不可能であり、どうしても鏡の如き存在が必要になる。総じて念仏には、そうした自覚を助ける効力があるようだ。






  「念仏して得られるもの」 20080108   【目次】

 知人と真宗に関する話しをしていて、ときどき念仏して何が得られるかと議論することがある。これについて自分の基本的な考えは、以前に書きとめておいた(→「念仏の効用」 20070808)。ただこれは念仏して得られるものの、ほんの一例を示したに過ぎず、全てを把握して述べたわけではない。
 ところが昨年、雑誌「大法輪」に連載されていた、寺川俊昭氏の「曽我量深師はこう語った」(2006.12号-2007.11号)を読んで、おぼろげながらこの問題に関する、ひとつの回答が得られた。
「念仏する者は、浄土の功徳をその身に賜わる、こう了解してよろしいでしょうか」
先生は言下に、
「それはいけません」
こうおっしゃった。
…(中略)…
「『賜わる』という言い方は弱うございます。『わがものにする』と、おっしゃいませ」
  ―「大法輪」2006.12号 p.38
 曽我量深師最晩年の直説として、
「念仏する者は、浄土の功徳をわがものにする」
と断言しているのだ。
 しかし当然、この現世において「浄土の功徳」が、そのまますべてわがものになるわけではない。それでも日々念仏すれば、ごくわずかでも心は浄土に遊んで、安楽になって行く。念仏しても無意味だ、と考える人が大半を占める現代で、はっきり功徳が得られると言い切った曽我師の説は、傾聴に値する。
 ちなみにここでいう「浄土の功徳」とは、本願(四十八願)で誓われている内容を指すものだと思う。

 ところで実は親鸞聖人も、念仏すれば功徳が得られると言っている。
 「正像末法和讃」(草稿本/『増補 親鸞聖人真蹟集成』第三巻 法蔵館2007 p.278 /『定本 親鸞聖人全集』第二巻 法蔵館2008ワイド版 p.143/現行本では「高僧和讃」の末尾)に、
「南无阿弥陀佛ヲトナフレバ 衆善海水ノコトクナリ カノ清淨ノ善ミニエタリ ヒトシク衆生ニ廻向セム」
とあり、さらに「カノ清淨ノ善ミニエタリ」には、
「ナモワアミタフチトトナフレハミヤウカウニオサマレルクトクセンコンヲミナタマハルトシルヘシ」(南無阿弥陀仏と称ふれば、名号におさまれる功徳・善根を、みな賜はると知るべし
と左訓が施されている。
 要するに、南無阿弥陀仏と称えるなら、かの清浄の善を身に得て、名号に納まっている功徳・善根を、みな賜ると知る必要がある、と説いているのだ。ここでいう「清浄の善」や「名号におさまれる功徳・善根」とは、先の「浄土の功徳」と、ほぼ同様の意味を指すものと考えられる。
 念仏すれば、浄土の清浄な功徳を、わが身に得ることができる。このことは肝に銘じておくべきであろう。