雨読




   『応響雑記』にみえる近世氷見町の法事






   はじめに
   一.『応響雑記』にみえる法事の用語
   二.『応響雑記』にみえる主な法事
   三.『応響雑記』にみえる典型的法事
   おわりに


  はじめに

 近世末期−文化文政年間から幕末頃までの−氷見町の有様や町民の暮しを窺う際、まず第一に参照しなければならない史料として、『応響雑記』という日記がある。これは当時氷見町で蔵宿を営み、併せて町年寄も勤めていた第九代田中屋権右衛門が、弱冠二四歳の文政十年(一八二七)五月二八日より筆を起こし、重病に倒れた安政六年(一八五九)十月十七日まで、ほとんど毎日欠かすことのなかった膨大な記録であった。そして絶筆の後間もない十一月二五日に、五六歳で早々と世を去っている。
 その三三年間にもおよぶ日記は、毎年を春夏・秋冬の二巻に分けて製本され、総計六六巻に達する(ただし第二九巻・四八巻・五二巻・五三巻は散逸し、六二巻のみが現存)。ここに盛り込まれている内容は実に多彩であり、私生活上の様々な事柄は言うまでもなく、毎日の克明な気象状況をはじめ、町役人としての役向き・年中行事・災害・騒動について、または俳句・生花・角力等の諸芸に関する出来事などが、きわめて詳細に描写されている。
 氷見という一地域の歴史の中で、人々がどのように末期を迎え弔われてきたか捉えようとするとき、近世においてこれほど豊かな史料を提供してくれる文献は、他にほとんど例がない。従ってここでは全面的にこの『応響雑記』を用い、当時の民衆が法事一般(葬式・年忌等にまつわる一連の事柄)を、どのように執り行っていたか具体的に紹介することとしたい。


  一.『応響雑記』にみえる法事の用語

 『応響雑記』に基づいて、近世末頃に氷見町で執り行われていた法事の、具体的な様子を捉えるに当り、まずこの文献の中で関連する事柄をどのような語彙で表現しているか見て行くことにする。その際にまず本文を精読すると、用語が法事一般に関係するものと忌日に関係するものに、大きく別れている点に気づく。従って以下これらふたつのグループに語彙を分類して考察を進める。

(一)法事一般に関係する用語

 『応響雑記』に見える法事関係の用語を、五十音順に並べて一覧すると次のようになる。ただし、ここで列挙したのは、在家の法事に用いられる主要な語彙に限定しており、寺院での法要に関するものは省いてある。

  法事一般関係用語一覧
  跡拝ミ 忌明 内葬式 遠慮 遠慮中 御棺下 御備 御備餅 火葬 火葬場
  忌日 忌中 忌引 行年 月忌納 香代 香奠 故障 骨揚 乞食 骨拾ひ
  骨瓶 常斎 精進附 招請 招請方 招請の使 祥月 正当 正当月 正当日
  葬式 葬送 大法会 大法事 逮夜 壇払 中陰 中陰中 中日 斎 伽
  土葬 葬 葬方 弔 弔場 内葬 日中 日中法事 入棺 納骨 野送り
  灰葬 白骨 万事 仏会 仏事 仏事方 不例 法会 法事 法事方 墓前
  無常場 無用 夜伽 寄法事 (六八語)

 これを内容に従って適宜分類しそれぞれに簡単な解説を加えて、当時執り行われた法事の有様を探ってみたい。ちなみに「『応響雑記』仏教関係史料目録」に収録されている、各語彙の使用数(掲載日数)も、参考のため( )内に列挙しておいた。
※ ( )内の年月日は、『応響雑記』本文の中で、参照すべき用例の見える日付を意味する。
※ なお、法事用語の語義を考察する際、『応響雑記』本文に見える用例以外では、主として 『特別展 氷見の婚礼装束展』(氷見市立博物館・編刊 平成五年三月)所載の、「五、葬送と弔祭にともなう習俗」を参照させていただいた。

[法事]
  法事(八〇) 法事方(一) 大法事(三) 寄法事(二) 日中(四)
  日中法事(一) 仏事(九六) 仏事方(一) 仏会(三) 法会(一五)
  大法会(二) 招請(一六) 招請方(一) 招請の使(一) 逮夜(一二)
  伽(一) 夜伽(七) 御備(二) 御備餅(三) 乞食(二) 精進附(一)
 法事については「法事・仏事・仏会・法会」等、いくつもの類語が見える。今と異なりこの中で、「仏事」という語が最も一般的に用いられていた。「仏会・法会」は、寺院で執り行われる法要の際、また「夜伽」は葬式の際、「逮夜」は祥月命日や年忌法要の際よく使われ、本文において「待夜」と表記される。比較的特殊な用語として、「寄法事」「日中法事」がある。「寄法事」についてはあまり語義がはっきりせず、ただ「勝興寺御連枝、朝日光照寺江町在寄法事有之御越」(天保十一年八月十八日)とあるので、葬式や年忌以外に民衆がたくさん参詣して行われた法事のことらしい。「日中法事」とは朝勤と対になる用語で、昼頃勤められる法事をいう。また「乞食」は年忌法要などの後に行なわれた御備物の喜捨を、「精進附」は忌明の酒興等に振舞われた料理のことをいう。

[葬式]
  葬式(六八) 内葬式(一) 内葬(一) 葬送(一) 土葬(一) 葬(一) 葬方(一)
  弔(一四) 弔場(四) 入棺(一) 野送り(一) 御棺下(一) 墓前(一) 壇払(七)
  香代(一) 香奠(三) 跡拝ミ(一) 行年(八)
 葬式の用語で注意を要するのは「内葬式」と「内葬」であり、前者は「内勤め」とも言われ、式の当日に奥座敷等で僧侶が勤める葬儀を意味し、「野葬式」(野勤め)と対になっている(『氷見の婚礼装束展』)。後者は「西田方丈様内葬ニ参詣仕候所」(天保六年五月十七日)とあるように、「密葬」ほどの意味で用いられていた。また「野送り」とは、「野」(火葬場)へ葬列を組んで遺骸を送ることを言う。そのとき棺に連なる者達を「御棺下」と呼んだらしく、「御葬式今暁の由、御棺下八拾人斗」(嘉永三年十一月十九日)と見える。当時は今と異なり「香奠」に金銭を包むことはあまりなかった。「香奠として御用糸うとん五把」(嘉永三年三月三十日)のように、饂飩などを献
上している。「跡拝ミ」については、「(東末寺遷仏)明日迄二日法事廿六日跡拝ミ」(弘化四年九月二四日)とあるのみで、大きな法事の後に日を改めて営まれた行事の一つであること以外よく分からない。

[火葬]
  火葬(一) 火葬場(五) 無常場(二) 灰葬(四) 骨揚(七) 骨拾ひ(一) 骨瓶(一)
  納骨(一〇) 白骨(二)
 「火葬場」は「野」「野場」「三昧」「無常場」とも称される。町はずれに置かれ、ほとんど野焼きに近い簡素な施設だったらしい。火力も弱く遺骸が焼き上がるまで、丸々半日は要した。火葬が終わった後、遺族は「骨揚」(骨拾ひ)を行ない、同時にそのとき僧侶によって「灰葬」(灰葬勤行)が営まれる(『氷見の婚礼装束展』)。「納骨」は通常「火葬」の後、数日して行われる。「初七日」のときが最も多く五例あり、それ以外では「壇払」二例・「三十五日法事」一例・「百ヶ日仏事」一例等となっている。

[物忌]
  忌日(二) 忌中(五) 忌引(三) 忌明(二) 遠慮(二七) 遠慮中(二) 中陰(五)
  中陰中(三) 中日(一)
 近親が死去した場合、町役人では数日の間「忌引」を取ることが認められていた。それは例えば、異母妹で七日(天保十一年二月二七日)、伯母で三日(嘉永三年十二月十九日)程度だったらしい。また「遠慮」とは、藩主の一族や将軍家などで不幸があったときに、町中が自粛することを言った。その際は御触が出され、普請・鳴物・諸殺生・諸稽古・猟業・魚鳥商売等が慎まれた(安政五年八月二二日)。なお忌日で、年忌や遠忌などの具体的な事例については後で詳しく触れる。

[祥月命日]
  斎(八) 常斎(一一) 祥月(二三) 正当(一一) 正当日(一) 正当月(一) 月忌納(一)
 「斎」とは祥月命日の際、檀那寺の和尚方を招いて行なわれる法事を言い、いつも通り簡単に済まされるものは「常斎」と呼んでいる。また文中「祥月」は、ほとんど「証月」と表記される。「正当」「正当日」は故人が亡くなった当日のことで、本当はこの日に年忌法要を営まなければならない。しかし都合によりこれはしばしば延期され、いくもの命日を兼ね法事を合斎することが多かった。なお「月忌納」については語義不詳で、「妻亡父月忌納ニ付光禅寺等へ参詣」(文政十二年十二月十五日)とあり、月命日の際に檀那寺へ参詣したこと以外よく分からない。

[その他]
  故障(四) 万事(二) 不例(二) 無用(二)
 これらの用語は法事の場面で、それぞれ次のような意味で用いられる。「故障」は式の進行に差障りがあったことを言い、「引合方故障の義有之葬式遅刻」(安政元年八月七日)と見える。また「万事」は法事の段取全般のことで「七日中滞留ニ而万事取持」(文政十二年十二月二一日)とある。「不例」は大御所など高貴な人の健康がすぐれないこと(天保十二年二月七日)を意味し、「無用」は「引導無用・沐浴無用・経帷子無用」(安政元年八月三十日)など、法事にまつわる禁止事項を言う。

(二)忌日関係の用語

 『応響雑記』の忌日に関する用語を、時間の進行に従い一覧すると次のようになる。

  忌日関係用語一覧
  遠忌 回忌 大御年忌 年会 年回 年回忌 年忌 初七日 七日 七日中
  七日法事 七日目仏事 一七日 二七日 二七日仏事 三十五日 三十五日法会
  三十五日法事 四十九日 四十九日仏事 四十九日法事 百ヶ日仏事 一周忌
  三回忌 三年忌 七回忌 七回年忌 七年 七年忌 十三回忌 十三回仏事
  十三年忌 十七回忌 十七回仏事 十七年 十七年忌 二十三回忌 二十三年忌
  二十七回忌 三十三回忌 三十三年 三十三年目  五十回忌 五十回正当
  五十年廻 五十年忌 百回忌 百年忌 百五十回忌 百五十年遠忌 百五十年忌
  二百回遠忌 二百年忌 二百五十回忌 二百五十回仏事 三百五十回忌
  三百五拾回仏事 五百年回 五百年御法会 五百五十回忌 六百年忌
  六百五十回忌 九百五十回 九百五十回忌 一千年忌 千年忌
  二千八百年法事(六七語)

 忌日に関しても適宜内容に従って分類し、それぞれについて簡単な解説を加えた。
またここでも「『応響雑記』仏教関係史料目録」に収録されている各語彙の使用数(掲載日数)を、参考のため( )内に列挙しておいた。

[用語]
  年忌(七) 年回忌(一) 回忌(一) 年会(一) 年回(三) 遠忌(一) 大御年忌(一)
 忌日にもいくつか類語があり、この中で「年忌」は在家の、「回忌」は寺院の法要の際に、比較的多く用いられている。特殊な用語として「大御年忌」があり、これは国泰寺における御開山五百回忌の法会を指した(弘化元年六月三日)。「年忌・遠忌」については、それぞれ各項で詳細に触れる。

[年内]
  初七日(五) 七日(二) 七日中(一) 七日法事(一) 七日目仏事(一) 一七日(三)
  二七日(二) 二七日仏事(一) 三十五日(三) 三十五日法会(一) 三十五日法事(一)
  四十九日(三) 四十九日仏事(二)  四十九日  法事(一) 百ヶ日仏事(三)
 ここで忌日の頻度を示すと、「七日」十三例・「四九日」六例・「三五日」五例等となる。今日はあまり見られなくなった「三十五日法事」「百ヶ日仏事」が、当時は厳重に営まれていた。

[年忌]
  一周忌(八) 三回忌(一) 三年忌(二) 七回忌(三) 七回年忌(一) 七年(二)
  七年忌(三) 十三回忌(四) 十三回仏事(二) 十三年忌(二) 十七回忌(三)
  十七回仏事(三) 十七年(三) 十七年忌(三) 二十三回忌(四) 二十三年忌(一)
  二十七回忌(四) 三十三回忌(七) 三十三年(三) 三十三年目(二) 五十回忌(三)
  五十回正当(一) 五十年廻(一) 五十年忌(二) 百年忌(五) 百五十年忌(三)
  二百年忌(四)
 ここでも頻度を示すなら、「十七年」十二例・「三三年」十例・「七年」九例・「一年」八例等となる。「十七年忌」がこれほど多く営まれているのは、今日から見ると意外に感じられる。また「三十三回忌」という長い年忌がこれほど出てくるのも興味深い。「百年忌」「百五十年忌」「二百年忌」までに至っては、当時においても一般の家ではあまり営まれなかったに違いない。

[遠忌]
  百回忌(一) 百五十回忌(一) 百五十年遠忌(三) 二百回遠忌(一)
  二百五十回忌(二) 二百五十回仏事(一) 三百五十回忌(二) 三百五拾回仏事(一)
  五百年回(一) 五百年御法会(一) 五百五十回忌(一) 六百年忌(一)
  六百五十回忌(一) 九百五十回(一) 九百五十回忌(一) 一千年忌(一)
  千年忌(一) 二千八百年法事(一)
 ふつう百回忌以上で、五十年毎に営まれる法要を「遠忌」という。これはほとんど歴史的人物のみに限られ、一般人なら「三十三回忌」もしくは「五十回忌」程度で、いわゆる「弔い上げ」がされた。しかし筆者の家では、先祖に対する供養の心が特別篤いためか、「百年忌」「百五十年忌」「二百年忌」と営まれている。しかしここでは法事の性格上、それを「遠忌」として扱わず「年忌」の項に収めた。また「遠忌」の詳細については、「三.(二)法事進行表」で一覧表を掲載しておいた。


  二.『応響雑記』にみえる主な法事

 このように『応響雑記』の本文では、法事全般についてどのような語彙で表現しているか考察してきた。その結果、当時の葬式や忌日の営まれ方の概要を把握することができたように思う。
 そこで次は、具体的にこの文献の中で言及されている、法事の事例を紹介したい。
まず『応響雑記』全体から主要な法事を一覧の形で示し、中でもとりわけ詳細に描写されている記事を、葬式と忌日についてそれぞれ一例づつ選び、その全文を掲載する。

(一)法事一覧

 『応響雑記』の中で数日にわたり記録されているなど、細部まで様子が窺える法事を、五〇例ほど選んで日付の順に列挙し一覧表を作成した。その際、次のような項目を立て、記事の内容を示した。
「番号.年号(西暦)月日[刊本頁数]/特記事項(関係寺院)」この内、「月日」において「〜」は連続して記事が見えるもの、「・」は断片的なものを示す。また「刊本頁数」とは桂書房出版の『應響雑記(上・下)』(越中資料集成七・八)における各巻の頁数を表している。「特記事項」では、原則として本文から用語を抜出し、その内容を示した。
 
一.文政十一年(一八二八)二月二五〜二七日・三月月十一日[上巻五七頁]/
   仏事方掃除用意、御客献立・御備ひ配(その他)
二.文政十一年(一八二八)二月二九日[上巻五七頁]/当所御奉行中黒六左衛門様
  百回忌(光伝寺)
三.文政十一年(一八二八)五月二十日〜二二日[上巻一二七〜一二八頁]/
  亡父七年忌婆々様十七年忌仏会相勤(国泰寺)
四.文政十二年(一八二九)・文政十三年(一八三〇)十二月二一日・二月九日
  [上巻一六四・一七三頁]/伯父様、御病死、七日中滞留ニ而万事取持・四九日
  待夜(その他)
五.文政十三年・天保元年(一八三〇)八月三十日〜九月四日
 [上巻二〇七〜二〇八頁] /婆々様病死、葬式、納骨(上日寺)
六.文政十三年・天保元年(一八三〇)八月三十日・九月八日
 [上巻二〇七・二〇八頁]/ 一刎村、おのよ、病死・逆竹見物(その他)
 −別稿で全文翻刻−
七.文政十三年・天保元年(一八三〇)十二月十三日・十四日・十九日
 [上巻二二〇頁]/朝日法印様御死去、葬式(上日寺)
八.天保二年(一八三一)七月五日〜九日[上巻二四六〜二四七頁]/
 弟、病死、夜伽、 葬式、壇はらひ(国泰寺)
九.天保三年(一八三二)十一月六日〜十日[上巻三一〇〜三一一頁]/
 伯母さま、死去、夜伽、葬式、焼香例、灰葬(その他)
一〇.天保五年(一八三四)二月二六日〜二八日[上巻三九四〜三九五頁]/
 十三回忌、百年忌、二百年忌、法事ハ相延し、常躰の斎相勤(国泰寺)
一一.天保五年(一八三四)三月二日[上巻三九五頁]/
 弘法大師一千年忌法事御修行(上日寺)
一二.天保六年(一八三五)四月九日・十六日〜二三日・二六日
 [上巻四六八〜四六九頁]/仏事用意方示談・二百年忌、百五十年忌、百年忌、
 二十三年忌、十三年忌・法事の礼(国泰寺)−事例紹介で全文翻刻−
一三.天保六年(一八三五)五月十六日・十七日・二二日・二七日
 [上巻四七二・四七四頁]/西田方丈様御病死、内葬、葬式(国泰寺)
一四.天保八年(一八三七)六月二日〜六日[上巻六一五〜六一六頁]/
 母病死、夜伽、葬式、骨上ケ、壇払(上日寺)
一五.天保十年(一八三九)九月八日〜十日[上巻七九四〜七九五頁]/
 亡父十七年、亡母十七年、亡弟七年法事(国泰寺)
一六.天保十一年(一八四〇)二月二四日〜二七日[上巻八二四頁]/
 妹病死、夜伽、葬式、骨拾ひ、壇払(その他)
一七.天保十一年(一八四〇)五月二四日・二六日[上巻八四一〜八四二頁]/
  蓮如上人三百五十回忌仏事(光伝寺)
一八.天保十二年(一八四一)二月七日・八日・十二日・二六日・三月二六日
 [上巻九〇四 〜九一三頁]/大御所様薨去、普請鳴物等遠慮(その他)
一九.天保十二年(一八四一)五月二二日・二三日[上巻九二七頁]/
 土砂加持御法会、先々住法印十三回忌の仏事・弘法大師の仏事執行(上日寺)
二〇.天保十二年(一八四一)六月十九日[上巻九三〇頁]/
 佐渡宮倍念上人五百五十回御忌御法会(勝興寺)
二一.天保十三年(一八四二)三月二四日・二五日[上巻九四八頁]/
 弘法大師千年忌御法会(千手寺)
二二.天保十五年・弘化元年(一八四四)四月二二日・二六日[上巻一〇七九頁]/
 蓮如上人三百五十回仏事執行(円満寺)
二三.天保十五年・弘化元年(一八四四)六月三日[上巻一〇八五頁]/
 御開山忌五百年回、御延(国泰寺)
二四.天保十五年・弘化元年(一八四四)八月一日〜三日・六日
 [下巻一五〜一六頁]/病死、夜伽、葬式・初七日仏事(宝光寺)
二五.弘化二年(一八四五)二月三十日・三月一日・二十日[下巻五五・五八頁]/
 三十三回忌、二十三回忌、一集ニ法会(国泰寺)
二六.弘化二年(一八四五)九月八日[下巻八七頁]/院主玄天上人病死、葬式
 (円満寺)
二七.弘化三年(一八四六)十二月十四日・十六日[下巻一六二頁]/
 六葉子病死・葬式、追悼の俳諧興行(光禅寺・願泉寺)
二八.弘化四年(一八四七)三月一日〜七日[下巻一七七頁]/
 天下上人円光大師六百五十回忌御法事・奉納行灯(西念寺)
二九.弘化五年・嘉永元年(一八四八)二月十八日・十九日・二九日
 [下巻二三六〜二三八   頁]/隠居病死・忌中振廻(光源寺)
三〇.嘉永二年(一八四九)二月二四日〜二九日・三月五日
 [下巻三〇一〜三〇二頁]/五十回忌、二十七回忌、十七回忌法事・御備餅配り
 (国泰寺)
三一.嘉永二年(一八四九)四月十九日・二十日・二二日[下巻三〇九〜三一〇頁]/
  朝日上日寺法印様御死去・葬式(上日寺)
三二.嘉永二年(一八四九)閏四月十八日・二二日・二三日・二六日
 [下巻三一二〜三一三  頁]/御開山明峯大和尚五百年御法会(光禅寺)
三三.嘉永三年(一八五〇)十二月十七日〜二三日[下巻四三三頁]/
 伯母さま病死、葬式、骨上灰葬、夜伽、初七日仏事、納骨(聖安寺)
 −事例紹介で全文翻刻−
三四.嘉永五年(一八五二)三月一日〜七日[下巻四九二〜四九三頁]/渡唐天満
  大自在天神開扉供養九百五十年回祭事御執行(西念寺)
三五.嘉永五年(一八五二)四月二五日[下巻五〇二頁]/
 蓮如上人三百五十回忌仏事(光照寺)
三六.嘉永五年(一八五二)六月十三日〜二一日[下巻五〇八〜五一〇頁]/
 朝日天満宮九百五十回開扉供養(上日寺)
三七.嘉永七年・安政元年(一八五四)八月四日〜十日[下巻六〇一頁]/
 内所病死、葬式遅刻、壇はらひ仏事、納骨(国泰寺)
三八.安政二年(一八五五)三月二二日・二七日・二九日〜四月五日・八日
 [下巻六四〇〜六四一頁]/仏壇修復・年忌仏事(国泰寺)
三九.安政三年(一八五六)三月八日[下巻六九九頁]/
 御開山六百年忌御法事(光伝寺)
四〇.安政三年(一八五六)十一月十五日〜十八日[下巻七六二頁]/
 中興月澗和尚百五十回忌の仏事(光禅寺)
四一.安政四年(一八五七)四月五日・七日・八日[下巻八〇〇頁]/
 先々住五十回忌先住十三回忌法事(円満寺)
四二.安政四年(一八五七)六月九日・二八日[下巻八二八・八三二頁]/
 浪化上人百五十   年遠忌正式俳諧の連歌御催ふし(瑞泉寺)
四三.安政四年(一八五七)七月二二日・二五日〜八月六日
 [下巻八四〇〜八四二頁]/観音御鬮御授けの薬・病人、死去・葬式、骨上灰葬、
 納骨(延暦寺・その他)
四四.安政四年(一八五七)九月二六日・二七日・二九日[下巻八四八頁]/
 夜伽、葬式、初七日仏事、納骨(円照寺)
四五.安政五年(一八五八)五月六日・二十日[下巻八九三・八九六頁]/
 西田方丈様御遷化・葬式等入用決算方(国泰寺)
四六.安政五年(一八五八)五月十日[下巻八九四頁]/微妙院様二百回遠忌御法事
  相勤申度旨御願(光禅寺)
四七.安政五年(一八五八)八月十六日・十九日・二一日・二二日・九月三日・七日
 [下巻九二二〜九二三頁・九二九頁]/公方様薨御、諸殺生等遠慮・法事(寛永寺)
四八.安政六年(一八五九)四月九日〜十日[下巻九九七頁]/百年忌、
 二十七回忌仏事(国泰寺)
四九.安政六年(一八五九)八月二一日・二二日・九月二四日
 [下巻一〇三三・一〇四〇 頁]/老母病死、病うつり申ニ付名代葬式参詣・
 三十五日言訳の為焼香(その他)
五〇.安政六年(一八五九)十月十二日・十四日・十五日・十七日
 [下巻一〇四六〜 一〇四七頁]/あねさ病死・葬式灰葬・納骨(国泰寺)

(二)事例紹介

 ここでは上記一覧に列挙した主要な法事の中でも、とりわけ詳細に描写されている代表的な記事を、「葬式」「年忌」についてそれぞれ一例づつ取り上げ、その全文を翻刻することにしたい。ただし、同じ日付の記述であっても、明らかに法事と関係のない部分は割愛した。なお翻刻の際、原本の表記を次のように改めた。
※ 本文に適宜、句読点・中点・括弧等を加えた。
※ 本文の漢字は、原則として常用漢字を含む、現在通行の字体を使用した。
※ 本文の変体仮名は、平仮名に改めて表記した。ただし「江・而」等の真仮名は、そのまま用いた。

[葬 式]
◎三三.嘉永三年(一八五〇)十二月十七日〜二三日[下巻四三三頁]/伯母さま病死、
  葬式、骨上灰葬、夜伽、初七日仏事、納骨(聖安寺)
十七日 曇天。寒気。日命坎宮。 五ツ半頃窪六田氏伯母さま重病の由二付、同時過罷越候所、今暁?寒気ニ御あたりの躰、急病指起り忽重症ニ相成、九ツ半頃終ニ病死被致愁傷限なく、近隣出入の者も存シ不申仕合、誠ニ無常迅速有為転変はかなき次第也。行年五十九歳 壬子生命。遠所一家等へ飛脚等指出、夜五ツ頃一先帰宅仕候。 土用ノ入なり。
十八日 曇天。折々淡晴。寒気。日命離宮。 五ツ半頃六田氏江罷越申候。色々取持仕、夜  四ツ半頃帰宅仕侯。
十九日 天晴。折々曇天勝ち。日命艮官。 五ツ頃過窪へ取持ニ行追々一家中等相見 江申 候。自分義母方伯母ゆへ忌引書附指出申侯。十七日?今日迄半減三日忌引仕候。 明日葬式の事ゆへ止宿仕侯。妻并茶屋勝手等風邪ニ付、入棺の節参り不申候。昼前天晴勝、昼後折々淡雪降る。
廿日 快晴。満天雲なし。寒気。日命兌宮。 五ツ半頃聖安寺様御越。同時過?折々淡晴、淡陰。九ツ半頃葬式相済申候。私義白衣無紋上下着焼香仕候。夜五ツ頃骨上灰葬相済シ直ニ夜伽、止宿仕侯。 昨十九日?大寒。十二月中。
廿一日 快晴。満天雲なし。五ツ頃過追々淡陰寒気。日命乾宮。昼頃?折々淡雪降る。今日在所中振舞、百六十人余両度ニ振廻申候。夜五ツ頃過帰宅。石振廻の外、同村の者三十人斗取持方指除き申候。
廿二日 天晴。折々淡陰。寒気。日命中宮。八ツ半頃妻義茶屋勝手同伴、六田氏江初七日 の仏事に被招行、夜四ツ頃帰宅仕候。
廿三日 快晴。寒気。空翠。日命巽宮。四ツ頃?折々淡晴。 五ツ半頃六田氏江、忰八郎同伴被招行。茶屋健太郎も同事。今日直ニ納骨相済夕方追々客方退出、自分跡ニ残り居夜四ツ半頃帰宅。放生津半六殿、八ツ尾毛利氏は明朝出立の由。誠ニ中陰 の内天気等都合よろしく大悦の事ニ侯。

[忌 日]
◎一二.天保六年(一八三五)四月九日・十六日〜二三日・二六日[上巻四六八〜四六九頁] /仏事用意方示談・二百年忌、百五十年忌、百年忌、二十三年忌、十三年忌・法事の礼(国泰寺)
九日 天晴。暖也。日命巽。朝の内雨降る。当十九日廿日仏事相勤候ニ付、用意方示談仕候。(以下省略)
十六日 天晴。暖也。日命乾宮。 煤掃仕候。長三郎昨夕金沢より罷帰申候。尤田中和左衛門様招請ニ遣候所、持病の疝気ニ而参詣難成旨申来候。役寺和尚様ハ、御越可被成旨申来候。方丈様御病気同事の由申来候。家内等法事の拵方仕候。(以下省略)
十七日 淡晴。暖気甚し。日命中宮。八ツ頃過、暖雨降る也。 副司様柿谷庄十郎殿等入来御坐候。
十八日 淡晴。暖也。日命巽也。春樹院和尚等入来。夜ニ入副司様御寺へ用事ニ而御越なり。
十九日 朝の内少々雨降る。日命震。女中客追々参詣御坐候。金沢役寺様等和尚方并大衆方昼頃御越。同時?淡晴暖也。待夜御経法華五六二巻御続(ママ)誦御坐候。尤今度年回ハ元祖桂光院 二百年忌 賀屋恵慶信女 百五十年忌 華屋壽芳大姉 百年忌 慈光 院二十三年忌 貞壽院 十三年忌 愈好斎 十三年忌 已上也。 方丈様御病気ニ而御越無之ニ付、導師・焼香・待夜、久昌院和尚様也。夜四ツ頃迄ニ至舞申候。
二十日 天晴。暖也。日命坤。 朝御経大槃(ママ)若経転読・導師・焼香、役寺和尚様也。日 中御経リヨゴン咒行道・導師・焼香、春樹院様なり。七ツ頃相済ミ、御帰山御坐候。御客方も追々御帰り。跡二番膳夜四ツ頃相済シ跡ざわき等にぎやかなり。窪伯母様・田武方娘達二人・加納叔母様等、昨日より止宿被致候。夕方より折々雨降る也。
二十一日 雨降る。暖也。日命坎宮。 明廿二日、仲間并蔵役人中・場懸り・朋友達相招申図ニ付用意方仕候。尤無塩物振舞なり。ひる頃女中方御帰。西田副司様今日迄始終取持方被致、ひる過御帰山被成候。
二十二日 曇天。暖也。日命離宮。 ひる頃、仲間等追々入来被致候。昨夕浦廻り被指向、今昼出立被致候。夜五ツ半頃一統被帰取持人中跡振舞仕、夜半頃相至舞申候。
二十三日 淡晴。暖也。日命艮宮。 家内跡仕舞仕候。仲間等追々返礼ニ相見へ申候。八せん也。
二十六日 淡晴。暑し。 五ツ半頃出立。肝煎六左衛門殿同道。西田へ、法事の礼ニ立寄申候。暮合今石動江着仕候。上六殿私用ニ而滞留也。日命中。


  三.『応響雑記』にみえる典型的法事

 以上のように、『応響雑記』に記録されている法事について、まず語彙を調べ、次にその主要なものを紹介してきた。また代表的な法事の事例を、「葬式」「忌日」に関しそれぞれ一例づつ見てきた。ここでは最後にそうした史料を駆使して、この文献から窺える法事の様相を総合的に検討し、式進行の上で終始完備している典型的な形を、提示することにしたい。
 なお参考までに、当時どのように法事が執り行なわれたかを、時間の流れに従って一覧した進行表を作成し、章末に添付した。

(一)用語と事例からみる典型的法事

 『応響雑記』にみえる法事の事例を総合し、完備した形に復元すると概ね次のようになる。ただしこれは、各宗派の儀礼にとらわれず、在家における法事の一般的な姿を捉えることに、主眼をおいたものになっている。
※ 「法事一覧」で掲載した記事から、本文の要点を抜書し、適宜文節を繋げて作成した例文を、「 」内に示した。
※ ( )内の数字は、「法事一覧」における「番号」を意味する。
※ なお法事の事例を復元する際にも、前掲の「葬送と弔祭にともなう習俗」を参照させていただいた。

◎ 葬 式

[前日]
 『応響雑記』において葬式は概ね、家族・親類・知人等の危篤の知らせを受けて、見舞に駆けつけるところから始まっている。
「伯母重病の由ニ付罷越、急病指起り忽重症、終ニ病死。愁傷限なく誠ニ無常迅速・有為転変はかなき次第。遠所一家等へ飛脚等指出(三三)」
 とりわけそれがこの例のように、筆者の近親であった場合は、しばしば仏教的色彩の非常に濃厚な文章で、長々と死者を悼む心情が吐露され、この日記の大きな特色のひとつとなっている。死亡が確定した後、すぐ「御寺・一家中へ案内(八)」が出され、「店ニ簾をおろし弔場拵置(一六)」など、葬儀の準備にとりかかる。濃い親類の葬式では「取持ニ行。一家中等相見、止宿。忌引書附指出(三三)」と、案内を受けた後、直ちに一家中が駆けつけ、泊りがけで式の段取から細々とした手配に至るまで、万事面倒をみる。このとき町役人など、公務を持つ者は血縁の程度に応じ数日の間、忌引をとったらしい(伯母で三日)。これらの準備が片付き次第、夕方までに「入棺」が行われる。
 大きな葬式では、前日の夜伽にも多くの人が弔いに集まり、「夜伽の参詣人賄方、取持(一四)」などにも心を配らなければならない。その後は「夜明シ(八)」しつつ、不眠で「終夜伽(一六)」を行うことになる。

[当日]
 葬送の儀礼そのものに関して、残念ながらそれほど詳細な記述は本文に掲載されていない。ただ一般に当日の式進行は、概ね次のようなものだったらしい。
「寺御越。葬式相済。私義白衣無紋上下着、焼香。夜骨上、灰葬相済シ直ニ夜伽、止宿(三三)」
 朝方、招請した檀那寺の和尚方が御越しになると、すぐ葬儀が執り行なわれ、昼頃には終了する。その際「焼香例」に従って、血縁の順に焼香される(九)。この後、「御膳相済、帰山(八)」とあるように、御膳が振舞われたらいったん和尚方は御寺へ帰った。それから一同で遺骸を火葬に付すため、「野送り」をしつつ無常場へ向かう。ここで御寺の「導師」により、「野諷経」(ノフギン)が行われたらしい(三七)。半日ほどかかり焼き上ったところで、御骨を拾い「灰葬」を営んだ。これが終わるとすぐ「夜伽」に取り掛かり、また親族で一夜を明かすことになる。その際、変わった事例を挙げるなら、当地の著名な俳人だった六葉子の場合、「追悼の俳諧興行。鶏鳴頃満巻(二七)」と、夜を徹して句会が催されている。
 当時は粗末な火葬場で、遺骸を焼き上げなければならなかった関係か、当日の天候を非常に気遣っている。例えば「雨頻りに降、葬式出しかたく、小晴ニ付、葬式出し(一四)」や「葬式仕度、雪降止まず、内葬式。大勢野送り。骨拾ひ(一六)」など、気象状況によっては、式がうまく進行しないこともあった。

[後日]
 葬式の翌日に、普通「壇払」が執り行なわれる。またこの日、「在所中振舞(三三)」も併せて行われ、「店弔ひ場(葬式の翌日迄)五日出置(四三)」とあるように弔場も片付けられる。ただし「壇払」を翌々日に回すこともあり、その際は前の晩が「逮夜」となる。一例を挙げると、「今日?明日壇払ニ付、待夜の誦経ニ参詣。中陰中の取持人中等よほと客、弔ひ場 立テ置(一四)」とあり、このときお客がよほど多い場合は、再度弔場が設けられた。ただし、普通は「壇払待夜、弔場今日仕舞、簾明明朝迄(一六)」という段取で後始末されたらしい。
 「壇払」にはふたたび檀那寺より和尚方が招かれて、「大衆方入来、御経等相済、壇払。白骨持参(八)」と御経等を読誦した後、御寺へ「納骨」された。この日、禅宗の家では、無縁の亡者を弔う「施餓鬼」法要が営まれることもあった(五〇)。
 「納骨」は、数日後の初七日で執り行なわれることも多かった。
「初七日の仏事に行、直ニ納骨相済、客方退出、自分跡ニ残り居帰宅。(遠所親類)朝出立。中陰の内天気等都合よろしく大悦(三三)」
 その際「初七日仏事、色々馳走、直ニ納骨、墓所へ行(四四)」とあるように、遠近から集まった御客へ御馳走など振舞った後、すぐに御墓へ葬った。ただし、「納骨、土用中ゆへ、追て埋(五)」とあり、土用中は避けて埋葬されたらしい。

◎ 忌 日

[前日]
 法事の数日前より「仏事、用意方示談(一二)」を行い、式の用意について色々相談し段取を決める。そしてさっそく「仏事方掃除用意方(一)」を始め、同時にこのとき「仏壇修復(三八)」などもしている。その後、親類や「御寺へ法事の招請(三〇)」の使いを出し、また「煤掃。(和尚方、親類)招請。家内等法事の拵方(一二)」というように、家の中を片付けたり、法要のための飾付けをしたり、様々な準備に忙しい。とりわけいくつもの年忌を併修した大きな法事の場合は、「座敷等用意方、土蔵戸前料理場仮屋等拵(三八)」など、特別な普請も伴う。
 前日までには「(和尚方、親類等)入来(一二)」し、いよいよ逮夜を迎えることになる。この晩には、
「中・客参詣。和尚方・大衆方御越。待夜御経法華五六二巻読誦。導師焼香待夜 (一二)」
と見えるように、多くの人の出入りがあり、「御経、御膳、二番膳。(三〇)」なども行われて、夜が明かされる。

[当日]
 当時もしばしば都合により、いくつかの年忌を兼ね合わせることが多く、例えば次のような法要を、合斎して行っている。
「亡父七年忌、婆様十七年忌、仏会(三)」
「今度年回、元祖二百年忌 信女百五十年忌 大姉百年忌 二十三年忌 十三年忌 十三年忌(一二)」
「三十三回忌、二十三回忌、昨年正当相延し、今度一集ニ法会(二五)」
「五十回忌、廿七回忌、十七回忌(三〇)」
「百年忌、廿七回忌仏事(四八)」
 年忌の際は、檀那寺の和尚方も前日から御泊りで、朝方から法要が営まれ、夕方頃ようやく終了し御寺へ帰った。その後、御客らもいなくなったところで二番膳が振舞われ、にぎやかに夜が更ける。近親の中にはそのまま引続き、宿泊する者もいた。
「朝御経大般若経転読・導師焼香、日中御経行道・導師焼香、相済ミ帰山。客帰。跡二番膳相済シ、跡ざわき。伯母・娘・叔母等、昨日より止宿(一二)」
 またこの他に、「観音懴法等、御経甚長ク、本膳出し、夕方御帰山。乞喰共施行、内輪御膳相済(一五)」とあるように、「観音懴法」なども執り行なわれた。ただし「乞喰施行」については、翌日に回す場合もあった。

[後日]
 翌日は「手代共方へ持膳配(一〇)」や、「膳わん等跡仕末方、乞喰共施行(三〇)」
等、後始末に追われるようになる。とりわけ大きな法事を行ったときは、さらに仲間を招いて振舞をすることがある。そうした場合は引き続いて、御膳の用意などをしなければならなかった。
「仲間并蔵役人中・場懸り・朋友達相招、用意方。無塩物振舞。女中方御帰。仲間 等入来。一統帰、取持人中跡振舞。家内跡仕舞。仲間等返礼ニ相見(一二)」
 これらが終わり、後始末も滞りなく済ませたら、数日後に「御寺へ法事の礼ニ立寄(一二)」こととなる。そして最後に「法事御備ひ配(一)」「法事の御備餅配(三〇)」まで行って、ようやく年忌法要にまつわる一連の行事が完了した。

(二)法事進行表

 「葬式」「忌日」のそれぞれについて、時間の進行に従いつつ、行事の流れを一覧すると、次のようになる。ここで年回忌・遠忌については、判明する範囲で誰の法要か示した。また遠忌は、歴史的人物のみを対象とし、先祖のものは年忌の項に入れた。

◎ 葬 式

[前日]
 病気見舞 急病 重病 重症 病死 悔 愁傷 行年 取持 和尚方・親類招請 招請の使 遠所一家等案内 弔場 簾懸 一家中相見 忌引書附指出 入棺 逮夜 伽 夜伽 止宿
[当日]
 葬式 内葬式 上下着用 和尚方入来 焼香 焼香例 葬式相済 御膳 和尚方帰山 野送り 火葬 野諷経 骨上 骨拾 灰葬 客退出 夜伽 止宿
[後日]
 壇払 逮夜 誦経 納骨 白骨 墓所行 施餓鬼 在所中振舞 遠所一家出立 弔場仕舞 簾明 初七日の仏事(納骨) 中陰 中陰中 忌中 忌明 酒興 精進附

◎ 忌 日

[前日]
 用意方示談 仏壇修復 掃除 親類招請 御寺招請 家内等法事の拵方 座敷用意 料理場仮屋拵 親類入来 女中客参詣 和尚方大衆方御越 逮夜 御経読誦 導師焼香 御膳 二番膳 伽 夜伽
[当日]
 忌日 正当 正当日 正当月 祥月 年回忌 斎 常斎 朝勤 御経 大般若経転読 日中法事 行道 導師 焼香 観音懴法 和尚方帰山 客帰 跡二番膳 内輪御膳 乞喰施行 跡ざわき 親類止宿
[後日]
 仲間・蔵役人中・場懸り・朋友達相招用意方 無塩物振舞 親類帰 女中方帰 仲間等入来 一統帰 取持人中跡振舞 手代方持膳配 (乞喰施行) 家内跡仕舞 仲間等返礼 御寺へ法事の礼 御備 御備餅配
[年内]
 初七日(一七日 七日 七日中 七日法事 七日目仏事):異母妹・伯父・親類・知人
 二七日(二七日仏事):伯父・知人
 三十五日(三十五日法会 三十五日法事):伯父・親類・知人
 四十九日(四十九日仏事 四十九日法事):伯父・親類
 百ヶ日仏事:親類
[年忌]
 一周忌:弟・親類
 三年忌(三回忌):伯父・伯母
 七年忌(七回年忌 七回忌 七年):亡父・伯母・弟・親類・知人
 十三年忌(十三回忌 十三回仏事):亡父・亡母・弟・親類
 十七年忌(十七回忌 十七回仏事 十七年):亡父・亡母・弟・伯父・叔父・伯母・
  親類・知人
 二十三年忌(二十三回忌):先祖・亡父・亡母・伯母
 二十七回忌:亡父・亡母・弟
 三十三回忌(三十三年 三十三年目):先祖・亡父・亡母・親類
 五十年忌(五十回忌 五十回正当 五十年廻):先祖・親類・知人
 百年忌:元祖・先祖
 百五十年忌:先祖
 二百年忌:元祖・先祖
[遠忌]
 百回忌:中黒六左衛門
 百五十回忌(百五十年忌・百五十年遠忌):芭蕉・月澗和尚・浪化上人・
  微妙院(前田利常)
 二百回遠忌:微妙院(前田利常)
 二百五十回忌(二百五十回仏事):前田右近・前田又次郎・高徳院(前田利家)
 三百五十回忌(三百五拾回仏事):蓮如上人
 五百年回(五百年御法会):国泰寺開山(慈雲妙意)・明峯大和尚
 五百五十回忌:佐渡宮倍念上人
 六百年忌:開山(親鸞聖人)
 六百五十回忌:天下上人円光大師(法然)
 九百五十回忌(九百五十回):渡唐天満大自在天神(菅原道真)
 千年忌(一千年忌):弘法大師
 二千八百年法事:釈迦如来


[参考資料]今日における葬儀の流れ

 ※ 『仏事大鑑』 宇野弘願・編著 国書刊行会 昭和五三年刊 五五頁 より

 死 死に水
 死亡確認 死亡届 遺体の処理(病院・自宅)
 死亡の通知(親戚・知人・檀那寺) 電話 電報 使いの者
 喪主 葬儀委員長 世話役の決定
 葬儀の日時場所規模を決定
 形式の決定 葬儀費用検討
 葬儀社へ連絡
 遺体安置
 枕経
 納棺
 通夜七時〜九時
 通夜のもてなし(僧侶・一般会葬者)
 葬儀
 弔辞弔電披露
 焼香(遺族・親族・知人・一般会葬者)
 出棺
 火葬
 骨揚げ
 精進落し
 あいさつまわり
 初七日


  おわりに

 以上のように『応響雑記』を用いて、近世末頃の氷見町で執り行われていた法事の模様を一通り見てきた。
 そこでは葬式を発端として実に多くの年忌法要が厳粛に営まれており、中には今日ほとんど廃れてしまった忌日すらあった。現在も引続き行われている法事でも、時代や社会状況の変化から、その頃に比べ大きく様変わりしている。もはやいま「野送り」や「乞喰施行」などは見られず、また年忌もかなり簡略に営まれている。
 もちろんこの文献は、町年寄という高い位に就いていた、裕福な町人による日記であった。ここに見える記事を活用しさえすれば、当時の氷見町全体の様子が遺漏無く窺えるというわけではない。当然、書き尽くされていない事柄の方が、より多くあるものと考えられる。その頃の生活水準を思えば、零細な一般庶民の間では、このように盛大な年忌法要はおろか、肉親の葬式さえ満足に出せない者がたくさんいたに違いない。氷見でもしばしば不漁や不作が続き、民衆が飢えに苛まれたのは一度や二度のことではなかった。とりわけ米価高騰による安政五年の打ちこわしの際には、筆者自ら暴漢に襲われ頭に負傷している(安政五年七月十六日)。こうした貧しい庶民も含む当時の平均的な町人による法事の営まれ方と、この日記から窺えるものとの間では、かなり開きがあって当り前であろう。あくまでこれは想像にしか過ぎないけれども。
 それなら『応響雑記』に見える法事とは、いったいどのような種類のものだったと、言えるだろうか。
 これについて参照すべき適当な事例が、今のところ見当たらないので、残念ながら確かなことはまだよく分からない。しかし当時の状況から推測を働かせると、つまりそれは町年寄という町方で最高の地位にあった筆者による、当地において儀礼的に最も整った雛形とでもいうべき「葬式」や「年忌」ではなかったかと考えられる。家計のゆとりがない者には望むべきもない、豪奢とまでは言えないにしろ、やるべきことは皆ふまえて、少しの省略もされていないような。そのためか、筆者自身あまりにもねんごろに営まれた法要で、しばしば「御経甚長ク」等々内心の苦情を交えている。こう考えるとき、それが直接当時の平均的な様子を忠実に描写していなかったとしても、この文献に見える法事の記録の重要性を改めて知らされる思いがする。
 ただし遺憾なのは、当時も寺院と在家では、法事の営まれ方が大きく異なっていた。従って当然、この両者をはっきりわけて、それぞれ「葬式」「忌日」等を詳しく紹介する必要があった。しかし本稿は、一般庶民がどのように末期を迎え、弔われてきたかに重点を置いて論述したため、寺院での葬祭についてはほとんど触れられなかった。
 この点については、また機会を改めて、詳細に考察してみたい。

※ なお、本稿においては「法事」を、葬式・年忌等を含む上位の概念として用いた。ただし、今日において「法事」は、一般に年忌法要を指す言葉として使われることが多い。
 「仏事とは法事と同じ意味です。『首楞厳経』第一に『諸の一切の難行の法事を行ず』とありますように、法事とは本来は仏法を伝える仏の教化やその修行という意味であったのです。中国では法要をいとなむ仏教行事をさしていうこともありました。日本では平安時代ごろから死者への追善や自らも来世に生まれようと善根をつんで(よい行いをして)仏像を造り、仏塔を建てたりして仏に供養し、僧に布施をする行為を意味するものとして用いられました。そして江戸時代以後になると、もっぱら死者追善の忌日・年忌にいとなむ法要そのものをいうようにかわってきたのです。」(『仏事の基礎知識』 藤井政雄 講談社 昭和六〇年「はじめに」)
 しかし「法事」はここで言うように、もともと仏教行事の全般を指す用語であり、また今日「仏事」は耳慣れない言葉になっている。従ってもっぱら「法事」という 語で、葬式・年忌等の概念を総括させることにした。


    ― 1998.2.2 脱稿 ―