雨読










魂のこと 《2012》






   【目次】

 「捨ててこそ」 「今ここ、この瞬間」 「人生三分論」 「悩みの意義

 「悩みと念仏」  「心の出家」  「思秋期の危機」  「捨てて生きる

 「老いの自覚と悲哀」  「昼念仏(ひるねんぶつ)」  「心の深い底

 「新しい念仏」  「一分間の幸せ」  「今できる一つのこと

 「捨て去る生き方」  「自浄其意の幸福」  「念仏の実践と呼吸

 「妄想しない」  「気づきの念仏」  「孤独になじむ

 「道を信じる幸せ」  「三つの道」  「諸縁を放下す







  「諸縁を放下す」 20121212   ⇒【目次】

 この頃、『徒然草』に凝っている。学生の頃から興味があり、座右の書棚に長く積読していた。けれどもなかなか通読する気にならず、恥ずかしながらそのままになっていた。それが先月、他書を読んでいて、『徒然草』から有名な「日暮れ、塗遠し」の一節が引用されていた。
 改めて、その意味するところをよく味わってみると、目からうろこが落ちるようだった。

 『徒然草』 第百十二段

【原文】
 明日は遠き国へ赴くべしと聞かん人に、心閑かになすべからんわざをば、人言ひかけてんや。俄かの大事をも営み、切に歎く事もある人は、他の事を聞き入れず、人の愁へ・喜びをも問はず。問はずとて、などやと恨むる人もなし。され ば、年もやう~闌(た)け、病にもまつはれ、況んや世をも遁(のが)れたらん人、また、これに同じかるべし。
 人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙し難きに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は、雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、塗遠し。吾が生既に蹉跎たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし、情なしとも思へ。毀(そし)るとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ。
※『新訂 徒然草(岩波文庫)』西尾実 安良岡康作 校注 岩波書店 1985 190p 

【抄訳】
 明日は遠い国へ旅立つ人に、平穏なときの仕事を、持ちかける人がいるだろうか。急な大事がある人や、ひどく嘆いている人は、他事など聞かず、他人の悲喜には関心がない。それでも恨み、非難する人などいない。それなら老いた人や、病気がちな人、さらに世を捨てた人も、これと同じであろう。
 世間の儀式とは、どんなことでも避けがたい。世俗で無視できないことを、必ず果たそうとしたら、願いが多く、身も苦労し、心に余裕もなく、一生は些事にさまたげられ、空しく暮れるだろう。日が暮れ、道のりは遠い。わが人生は、蹉跌してしまった。諸々の縁を手放すべき時がきている。もう信頼も守らず、礼儀も思わない。この心を持たない人は、気が狂ったと言えばいい。現実的でない、人情がないと思えばいい。誹られても苦しくない。誉められても聞き入れない。
※『徒然草(三)全訳注(講談社学術文庫)』三木紀人 講談社 1982 26p/『徒然草(講談社文庫)』川瀬一馬 校注・訳 講談社 1971 86p など参照。

 とりわけ、次の一節に心うたれた。
「日暮れ、塗遠し。吾が生既に蹉跎たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし、情なしとも思へ。毀るとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ」
 日が暮れ、まだ道のりは遠い。なのにわが人生は、もう蹉跌してしまった。諸々の縁を手放すべき時がきている。だからもう信頼をも守らず、礼儀をも思わない。この心を持っていない人は、気が狂ったとも言えばいい。現実的でない、人情がないとも思えばいい。いまさら誹られても心苦しくはない。誉められても聞き入れはしない(拙訳)。

 今の自分の心境は、ここにほぼ余すところなく表現されている。それが約700年も前に、もう書き残されていたのだ。
 『徒然草』には、ずっと興味があった。学生の頃『方丈記』と一緒に購入し、こちらはさっさと読んでしまった。しかし機が熟していなかったのか、『徒然草』を通読できたのは、ようやく今年に入ってからだった。
 ところがいったん読みはじめると、おもしろくて手元から離せず、わざと一段一段じっくり味わいながら、2か月ほどで読了した。これからも代表的な注釈書を片手に、くり返し精読して行きたい。
 1350年頃に、68歳で没したとされる兼好法師は、50歳を過ぎた頃『徒然草』を完成させていたらしい。それがおこがましくも、自分の年回りとほぼ一致している。古典を読む喜びの最たるものは、真の知己を過去に見出すことにほかならない。古の賢人と心が通い、卑近な孤独感から解放される。

「日暮れ、塗遠し。吾が生既に蹉跎たり」
 これまで自分は、知識や見識等を、蓄積することにばかり腐心していた。そしていつか役立てるために、蓄えたものを出し惜しみしていた。しかしもうこの歳では、将来それらを活かして成功する可能性など、ほとんどない。日に日につまらないものがたまる一方で、物理的にも精神的にも、かなり負担になってきた。
「諸縁を放下すべき時なり」
 今年機縁が熟して、あらゆるものを手放すと心に決めた。
「信をも守らじ。礼儀をも思はじ」
 これまで入手してきた衣食住の品々、培ってきた知識、人間関係のしがらみ。すぐ捨てられるものは、できるだけ目立たないようにしつつ、ただちに廃棄した。まだ捨て切れないものも、これから機会をさぐって、徐々に手放して行きたい。
「この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし、情なしとも思へ。毀るとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ」
 人の苦悩は大半が、対人関係の軋轢にある。日頃のお付き合いに関しても、原則的にすべて手放し、孤独に生きて死ぬ覚悟を決める。けれども決して逃避するわけでなく、来る者は拒まず、去る者は追わず、ただ執着しないようにする。他人が自分をどう思うかなど、まったく気にしなくなれば、人生の苦しみはあらかたなくなる。

 そう決心して数か月ほどたつと、気持がひどく軽くなった。そのため活力にあふれて、物事に拘らず、心身の状態にも、よく気づくようになった。
 時折つらい出来事に遭っても、以前のように深く傷ついたりしない。すぐ気をとり直し、心が落ち込むことはない。そうして折にふれ、しみじみとした幸福感に満たされる。 
 心がほんとうに成熟するためには、あらゆるものを手放す態度が必須になるらしい。
 くしくも今年は「捨てて」(「捨ててこそ」20120105)始まり、「放下」して終わった。






  「三つの道」 20121111   ⇒【目次】

 次に挙げる、三つの道を実践すれば、信心が確立し、心が浄らかになって、真の幸福がもたらされる。

一、今ここ、この瞬間を、一所懸命に生きる。
 どんなに鮮明なものでも、しょせん過去は記憶、未来は空想にすぎない。現実に生きているのは、この瞬間だけであり、記憶や空想に捉われて、一瞬たりともむだにするのはもったいない。

二、いついかなるときも、気づきを失わない。
 どれだけ大事に感じられても、人の思考はほとんどが妄想であり、捨て去ってしまってかまわない。それより、この瞬間に何が起って、どう感じているか、はっきりと気づく方が、はるかに重要であろう。

三、日夜つとめて、自分に適した瞑想をする。
 人はともすれば妄想や感情に翻弄され、今の瞬間をしっかり意識することができない。今ここで、気づきを失わないためには、何らかの瞑想で、心を訓練しておく必要がある。

 ただしこの三つは、表現に違いがあっても、本質は一つであり、どれでも心を込めて行えば、他の二つを兼ね備える。






  「道を信じる幸せ」 20121020   ⇒【目次】

 確固とした信心とは、何等かの教義に対してより、ある特定の方法に対して、懐くものらしい。その方法に従って日々生活していると、貪り怒る愚かな気持ちが、しだいに起らなくなる。それまで悩んでいた苦しみも、いつの間にか静まり、少しずつ心が穏やかになって行く。
 そうした変化を自ら実感できなければ、ある教えを心底から信じる気には、毛頭ならないだろう。
 ヴェトナムで生れ、世界的な活躍で知られる禅僧、ティク・ナット・ハン師は言う。
 信頼とは、苦悩からの自由、解放、転換へと導いてくれるような道を持つことです。もしその道が見えるなら、進むべき道があるのなら、すでに力を持っているのです。道を持たぬ者はあてもなくさまよい、苦しみます。どこへ行けば良いかわからないからです。けれども道を探し求め、それを見つけたのなら、手立てを見つけたということになります。
 もしこのような道が良い方向へ導いてくれたという経験を持てば、人はその道を信頼することになります。道を知っていることに幸せを感じ、徐々に力を持ちはじめるのです。
※ティク・ナット・ハン著 山岡万里子訳『あなたに幸福が訪れる 禅的生活のこころ 澄んだ思考と穏やかな心から生まれる「真の力」の使い方』アスペクト 2009 23p
 またこうした信心は、確実な方法に基づき、正しい道を歩んでいると実感することにより、まず自分の心に真の幸福をもたらす。そして自分が、いつもしみじみと幸せを感じているなら、ことさら宣伝しなくても、周囲の人々まで幸福が波及するようになる。
 ティク・ナット・ハン師は言う。
 自分には道があると気づいたとき、自分が何をしているのかわかったとき、人は幸せを感じます。正しい道を歩んでいると思えなかったり、どこに進んでいるのかわからないとき、人は苦しみ、迷い、混乱します。幸福とは、どんなときでも自分が正しい道を歩んでいると思えることです。その道の終わりまでたどりつく必要は特にありません。まさに今この場で、幸せなのですから。
 「正しい道」にいるかどうかは、ひとつひとつの瞬間をどう生きているのか、という非常に具体的なことに関係してきます。日常生活すべての瞬間に気持ちを込めて生きることは、自分と周囲の人々を幸せにします。他人を幸せにするためにまだ何もしていないとしても、ひとたび道を歩みはじめ幸せを感じているのなら、周りの人にとってあなたは生き生きとした思いやりのある人物です。一緒にいて楽しいあなたから、周囲の人々は恩恵を受けることができます。
※『あなたに幸福が訪れる 禅的生活のこころ』114p
 幸せは、自分が迷わずに正しい道を歩んでいる、と実感できることからもたらされる。そして、今ここで確かに幸せなら、めざす道の途中で命が尽きてもかまわない。
 まさに『論語』(里仁 第四)にみえる、
「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」(子曰、朝聞道、夕死可矣)
ということだろうか。
 正しいと納得できる道(方法)を見つけて、心から信じ、まず自分がほんとうに幸せになる。そうしてその幸せを、はからわず自然に周囲の人へも分け与える。まわりの人まで幸せになってはじめて、自分の幸福も本物になる。
 この世でただ一人だけ、または自分の身内だけ、幸福でいられるはずがない。






  「孤独になじむ」 20121001   ⇒【目次】

 「思秋期」を迎え、老いの悲哀を実感して、以前よりひどく人恋しくなった。
 それでいろいろ後輩の世話をやいたり、柄にもなく数人お弟子を取ったりした。
 また、学問や趣味などをだしにして、若い人と交流してみたりもした。
 しかし青春時代のように友人とじゃれ合い、一体感を味わうようなことはない。
 やはりこれでも分別盛りの年頃で、どうしても一線を引き、お上品にまとめてしまう。
 淋しさをまぎらわす下心があるためか、どこか不自然で、苦労した割に満足感がない。
 なにをしても、ただ空しくなるばかりだった。

 ふだん家族や、多くの友人・知人たちと過していても、いつも満たされない思いがする。
 人と心が通い、一体感が得られるのは、ほんのわずかな時間でしかない。
 しかし、それもほんとうは、錯覚なのだろう。
 極論すれば、しょせん人は独りで生まれ、独りで死ぬ。
 やはり孤独から逃げようとせず、真正面から向きあって、克服するべきなのだ。

 まず深くひろく心を観察し、自分にとり何が淋しくつらいのか、よく理解する。
 話したいことがあっても、誰にも言えないのがつらいのか。
 周囲に考え方や生き方を、理解してくれる人がいないため、ひとりぼっちで淋しいのか。
 けっして安易に批判や激励をせず、じっくり自分の心情を窺ってみる。
 そして、人に依存できる点と、自立すべき点を明確にして、とりあえず孤立は避ける。
 最低でも体に異常が起きたとき、助けを求める友人は確保しておく。

 もちろん淋しさを感じたら、心が通う親友に会い、慰めてもらうのが一番いい。
 しかしある程度歳をとると、そんな親友は数少なくなる。
 またこの忙しい現代社会では、ゆっくり会って話す時間も、なかなか取れない。
 他人はあてにせず、なんとか孤独になじみ、一人で楽しく過ごせるようにくふうする。
 その上で、どうしても耐えなければならない淋しさは、甘んじて忍ぶしかない。

 とりあえず一人のとき、まず「気づきの念仏」などの瞑想で、自分を見つめる。
 淋しければ、その感情をよく観察し、原因や本質を明らかにして執着しない。
 そうして気持ちが治まれば、好きな趣味や日常の生活に、没頭すればいい。
 とりわけ読書は、孤独感を和らげるのに、たいへん効果がある。
 30年もの長い歳月、原因不明の難病に苦しんだ、生命科学者の柳澤桂子さんは言う。
 このいいしれない孤独を救ってくれたのは、たくさんの書物であり、音楽であり、絵画であった。人間と対話するかわりに、私は書物に問いかけ、そこから応答を得ることによって、私の神経回路を破滅から救ってきたように思えるのである。
※柳澤桂子『癒されて生きる 女性生命科学者の心の旅路』
(岩波現代文庫) 岩波書店 2004 23p
 要するに、孤独は感情の問題であり、必ずしも境遇に関係ない。
 日々心の状態に、よく気づいてさえいれば、なんとかなじんでいけるだろう。






  「気づきの念仏」 20120916   ⇒【目次】

 念仏すれば妄想から離れて、自分の心身をありのままに観察できる(「新しい念仏」20120609参照)。寝ても覚めても念仏していれば、いつも心身に対する「気づき」を保持して、正気でいられる。
 要するに念仏とは、心を観察し「気づき」を促す、行法のことであろう。
 ヴェトナムで生れ、フランスの「プラムヴィレッジ」を拠点に、世界中で活躍する禅僧、ティク・ナット・ハン師は言う。
 〈気づき〉は観察する心ですが、観る対象の外側にあるわけではありません。〈気づき〉はじかに対象に入りこみ、それとひとつになります。観察する心の本質は〈気づき〉であり、それは対象のなかでその力を失うことなく光を注ぎ変化をもたらします。…(中略)…物事をよく見て理解したければ、対象に入りこみ、それとひとつにならなくてはなりません。外側にいて眺めているだけでは、真に見て理解することは不可能です。観察とは、入りこんで変化させる働きです。
※ティク・ナット・ハン著 山端法玄・島田啓介訳 『ブッダの〈気づき〉の瞑想』  野草社 2011 219p
 観察する心とは「気づき」にほかならず、深く観ることで対象に入りこみ、一体化して真に理解し、本質的な変化を起す。
 「気づき」によって起る変化とは、観る対象を理解し、その本質を見抜くことで、あらゆる束縛から脱し、悩み苦しみが消え去って、心が癒され静かになることを意味する。
 念仏しながらよく心身を観察していれば、「気づき」による本質的な変化が起り、苦悩が癒され、心安らかになる。
 また、ティク・ナット・ハン師は言う。
 仏教の瞑想を行うのは、社会や家庭生活から逃れるためではありません。〈気づき〉をしっかりと実践することで、自らだけでなく家族や友人たちにも、安らぎと喜び、解放がもたらされるでしょう。〈気づき〉の生活を続けることで、間違いなく自分自身が変わり、生き方が変わります。日常は簡素になり、ひとりのとき、仲間といるとき、自然のなかで過ごすと きにも、楽しみを味わう時間が増えるでしょう。人に喜びを与え、その苦しみをやわらげる機会も増えます。そして時がくれば、安らかに息を引き取れるでしょ う。
※『ブッダの〈気づき〉の瞑想』241p
 仏教の瞑想は、日常生活で実践しなければ意味がない。そうすることで、自分だけでなく周囲の人々へも、自然に善い影響を及ぼすようになる。日々「気づき」を失わず、あらゆる束縛から離れ、幸せを実感して、それを惜しみなく他と共有する。このように実践していれば、老いることも問題ではない。ただ毎日を、じっくり味わって生きるだけで、後はしかるべき時が来たら、静かに死んでいけばいい。
 こうした「気づき」の瞑想による生活は、念仏がめざす生き方とまったく等しい。
 現代に通用する、新しい真宗教学の構築を模索してきた信楽峻麿氏は、まず真実の宗教に次の3要素があると説く。
 私たちが宗教を学ぶについては、何よりもその真偽について充分に考慮し、真実の宗教を求めるべきでありますが、それについては、三つの条件、基本的要件が あります。第一に自然科学の視座からの検証に充分に耐えられる宗教でなければなりません。自然科学と充分に両立しうる宗教こそが、まことの宗教の基本的要 件です。
 第二には、社会科学における長期的な視点から見て、人間社会の向上、発展のために、充分に貢献することのできる宗教こそが、まことの宗教の基本的要件です。
 そして第三には、宗教そのものの本義としての、人間一人ひとりが、その人格的な脱皮と成長にもとづいて、理想の人間に向って人格成熟をめざす宗教こそが、まことの宗教の基本的要件です。
※信楽峻麿『真宗学概論(真宗学シリーズ2)』法蔵館 2010 51p
 真実の宗教とは、自然科学の知見と相違せず、人間社会の向上に貢献し、個々の人格が理想に向かい成熟する、というものでなければならない。浄土三部経などに散見するような神話的表現は、その意味内容を現代的に再解釈するべきであり、そのまま受け取る必要はない。
 これらをふまえて、さらに現代における真宗教義は、次の3要素を満たさなければならないと説く。
 真宗の教法とは、要点をいうならば、第一には、何よりも人間成就と世界成就、この世界のあらゆる人間の一人ひとりが、少しずつでも煩悩悪業を離れてよりよ い人間として成熟し、またこの地球、世界が、少しずつでも闘争や格差のない平等にして幸福な社会として向上していくことを願う教えであること。
 第二には、私たちが信ずべき阿弥陀仏とは、どこかに存在するからそれを信じるのではなくて、私の念仏、信心においてこそ初めて私にとって現成し体感できるものであって、私の念仏、信心のほかに、阿弥陀仏はどこにも実在しないという教えであること。
 そして第三には、真宗の教えとはひとえに悪人成仏の道を明かすものですが、その悪人とは、たんなる仏教的、倫理的な罪悪を犯す者というだけでなく、社会的 な弱者としての庶民を意味するものであって、真宗の仏道とは、そういう多くの苦悩をかかえて、日々その人生に迷いつづけている人々のための教えであるとい いうるわけです。
※信楽峻麿『真宗学概論(真宗学シリーズ2)』法蔵館 2010 107p
 現代において真宗は、個々人の成熟と世界の平等や幸福を願い、阿弥陀仏を自分の信心以外に求めず、罪人や弱者の苦悩を救う教えであるとする。
 また信楽氏は真宗の信心を、毎日の暮しの中で、教えを聴聞し称名念仏することによる、「めざめ」体験とされている(「念仏の利益」20090601参照)。  
 「めざめ」体験 とは、自己意識のもっとも根源的な部分における自覚で、超越的・宗教的な経験をいう。この体験により、新しい人格主体を確立し、現実の人生におけるさまざまな苦難・障害を、よく済度し克服していくことができるとする。またその「めざめ」とは、自分の生命が、仏の生命につながっていることに、深く気づくことを意味する。
 現代における真宗の念仏は自然科学の知見に違わず、日々「めざめ」体験により、自他の生命が繋がっている事実に気づいて、人格的に成熟し世界平和を願い、人々の苦悩を救うものにほかならない。これは、「気づき」の瞑想が目指す在り方と、酷似している。

 念仏することで、「気づき」が促される。また「気づき」の視点により、念仏の心理的メカニズムを、解明することもできるだろう。あえて極論すれば、「南無阿弥陀仏」とは、「気づき」をよび起す、呪文・合言葉とさえ考えられる。
 これからは、より自覚的な仏教瞑想の方法として、「気づきの念仏」を実践したい。






  「妄想しない」 20120901   ⇒【目次】

 瞑想とは要するに、妄想しないことをいう。
 そんなことはたわいもない、と思う人もいるだろう。ならばかるく十分ほど時間を決めて、ほんとうに何ひとつ妄想しないでいられるか、試してみるとよい。十分ならできた人でも、丸一時間まったく妄想しないでいるのは、不可能にちかい。
 意識していてもそうなのだから、ふだんは誰でもほとんど妄想ばかりしている。
 ところで、少々反省すれば明白なとおり、妄想すると十中八九、悪念・悪感情が起こる。薔薇色の幸せな空想など、めったに訪れてくれない。嫌な出来事、満たされない思いばかり湧き出て、ひとりで怒ったり悲しんだりしなければならない。
 まったく、むだな時間なのだ。
 妄想さえしなければ、精神衛生に良いだけでなく、日々充実した生活が、営めるようになるだろう。
 アルボムッレ・スマナサーラ師は言う。
 妄想を制御する実践は、最上の善行為です。
 「妄想する」というのは、感情をかき回すということです。とんでもない悪なのです。そして、妄想をストップさせよう、ストップさせようとする力は、ものすごくパワーがあるのです。ですから、最上の善行為です。
※「お釈迦様が説いた『業(カルマ)』の真実」
 『サンガジャパン Vol.10』サンガ 2012 51p
 このように妄想とは、人の感情を不用意にかき乱し、心の平安を妨げる悪行為にほかならない。それでただ妄想しないだけでも、この上ない善行為になるという。
 また、江戸時代の傑僧・至道無難禅師も、
「常に何もおもはぬは、仏のけいこなり」
※『至道無難禅師集(新装版)』公田連太郎編著 春秋社 1989 31p
と言っている。
 いつも妄想しないようにすることが、まさしく仏になるための修行となる。
 心さえ正していれば、体を使わず頭の中だけでも、最高の修行ができるのだ。






  「念仏の実践と呼吸」 20120818   ⇒【目次】

 仏教では、先々まであれこれ考えず、今すぐ実践することが重んじられる。
 無常迅速であり、余計なことで頭を悩ませているうち、機会を逸して、一生教えを実行できなくなる。
 ちなみに、非現実的な事柄について、むだに思索することを戒めた有名な経典に、「箭喩経」がある。
 釈尊が舎衛城にいた時、摩羅鳩摩羅がこの世は常・無常か、有辺・無辺かなどの疑念を起した。これを釈尊に告げたところ、それは毒矢を受けた人が、治療する前に矢の由来を追及するあまり、命を落とすようなものであるとして退けられた。こうした事柄にどれだけ拘わっても涅槃へは至らず、それより苦の滅尽について、注意を払うべきであると教示している。
※『仏説箭喩経』(大正新脩大蔵経 第一巻 阿含部上 917b)による。『中阿含経 巻第六十 例品 箭喩経第十』(同書804a)も参照。

 念仏においても、教義などをあまり穿鑿せず、とにかく今ここで実際に、称えてみることが大切であろう。毎朝起きてから夜寝るまで、ていねいに日常生活を営みつつ、怠らずただ念仏さえしていれば、それでいい。
 しかし心乱れ、平静でいられない時など、平生とは別な工夫が必要かもしれない。
 たとえば、呼吸を調えながら念仏すると、めざましい精神的効果がある。
 比叡山の御堂で、90日間寝ずにひたすら念仏を称えぐるぐる回る、常行三昧を修めた酒井雄哉師は言う。
「人は息を吐くときは、前向きの格好になるんだね。息を吸うときはそり気味になる。呼吸のことはよく知らなかったけれど、呼吸に意識を集中していたら気持ちが静まってきた。
 やがてしんどかった体から、かすかすに念仏の声が聞こえてきたんだ。まーとか、うーっとかね。最初はたよりない声だったのに、だんだん腹に力が入っちゃって、響くような声になってきた。
 その声でぐるぐる回ったら、心が落ち着いてきた。落ち着いた心でぐるぐるぐるぐる念仏を唱えながら歩いているうちに、なにかしらんが、もしかして自分の体の中に仏様がいるんじゃないかっていう気持ちにさえなってきた。
 それが、呼吸の大きな力を知った瞬間だったんだ」
 ※『一日一生(朝日新書)』朝日新聞出版 2008 107p
 呼吸に集中して念仏するうち、自分の体の中に、仏様がいるような心境にさえなる。
 これはまさしく、厳格な修行の成果としてもたらされた、見仏体験だろう。常人が体験できる境地ではないとしても、念仏行のお手本として、見習いたいものだ。
 元来、瞑想と呼吸は、切っても切れない関係にある。
 また呼吸と感情も、密接に関係する。姿勢と感情にも、深い関係がある。姿勢を正せば、呼吸が調い、自ずと感情も安定する。
 タイのスカトー寺副住職、プラユキ・ナラテボー氏は言う。
「調身。姿勢というものが私たちの気分に大きく影響している。…(中略)…しっかりと腰を入れ、床面から身体を垂直に立て、背筋を伸ばし、胸は広げる。明るく爽やかに生きる基本姿勢。やってみるとわかるが、このような姿勢で暗いことを考えるのはなかなか難しい。深い呼吸が伴えば、穏やかさや落ち着きといったものがさらに加わってくる。
 調息。とりわけ呼吸を調えることは大事だ。なぜなら、気分や感情は呼吸と常に連動しているからだ。焦っているときの呼吸、怒っているときの呼吸、安らいでいるときの呼吸。その時々の呼吸に意識を向け、観察してみよう。呼吸と気分の連動性にすぐに気づくことだろう。その時々の気分に伴って、息は浅かったり、深くなったり、乱れたり、安定したりしている。それぞれの気分に応じた呼吸が一瞬一瞬生じている。日頃から深く安定した呼吸を心がけておけば、気分や感情もおのずと安定した安らぎを伴うものになってくる」
 ※『「気づきの瞑想」を生きる』佼成出版社 2009 66p
 身体を正し、深く安定した呼吸をすると、瞑想の効果は格段に上がる。
 もちろん念仏は、原則としてなにも計らわず、ただ称えるものだろう。修行として念仏する意識が、あまりにも強くなれば、せっかく具わっている他力の功徳が生きてこない。
 しかし人生には必ず、自力ではどうしようもない、苦境に陥ることがある。そんなひどく苦しい時、神だのみでもするように、強力な念仏の効用にすがり、心穏やかにしていただいたとしても、決して罰は当るまい。






  「自浄其意の幸福」 20120802   ⇒【目次】

 タイの高僧であるアーチャン・チャー長老は、仏教における幸福について、次のように語った。
 気づきを保ち、物事をその自然なままにさせておきなさい。そうすれば、どんな環境にいようと、あなたの心は透明な森の池のように静まっていきます。その池には珍しい動物が水を飲みにやってきたり、あらゆる種類のさまざまなことが生じるでしょうが、あなたはこれらの現象のありのままの姿を明晰に観察します。さまざまな、奇妙で不思議な現象が去来しますが、あなたは澄み切って静寂なままです。これこそが、ブッダの説いた幸福なのです。
※『手放す生き方 タイの森の僧侶に学ぶ「気づき」の瞑想実践』
 アーチャン・チャー著 ジャック・コーンフィールド ポール・ブレイター 編 星飛雄馬 花輪陽子 花輪俊行 訳 サンガ 2011(4p cf.219p)
 気づきを保ち、物事を自然なままにさせておけば、どんな環境にいようと、心は透明に静まっていく。あらゆることが生じても、そのありのままの姿を観察して行けば、さまざまな現象が去来しながら、心は澄み切り静寂なままでいる。
 これこそ、仏の説く真実の幸福であるという。
 それは、諸仏に通じる根本的な教戒・「七仏通戒偈」における、「自浄其意」という一句の真意を、解き明かしたものといえる。
 七仏通戒偈
「諸悪莫作 衆善奉行
 自浄其意 是諸仏教」
 —諸悪は作すことなく 衆善は奉じて行い
  自ずからその意を浄くす これ諸仏の教えなり
  ※「自浄其意」20101020参照。
 「自浄其意」は仏教の極意であり、諸宗派における様々な教義も、究極的にはこれに尽きる。心が浄らかになることで、しみじみと実感できる、満たされた幸せ。真実の幸福は、これ以外に考えられない。
 ただし、ここでいう幸福は、ありきたりの幸・不幸で、感じるようなものではない。心の清浄も、ふつうに経験する、清濁・浄穢の感覚とは異なる。
 あるときは清々しく晴れわたり、幸せを感じても、しばらくすればどんより曇って、不幸な気分になる。そのように、日々目まぐるしく変わるようなものは、本物ではない。こんな種類の感情は、すべて手放してしまう方がよい。
 ほんとうの幸福は、そうした相対的な次元を超え、あらゆるものに執着せず、ただありのままでいる意識によりもたらされる。
 たとえば、雲より低い下界では、晴れたり曇ったり、雨や嵐になったりする。けれども雲を超えた上空は、いつも快晴で、澄み切っている。
 浄らかな心がもたらす真実の幸福は、天候の変化と関係ない、晴々とした上空のようなものだろう。
 気づきを保ち、物事をありのままに観察し、あらゆるのもを手放して、澄み切った心で生きること。
 そうした「自浄其意」の在り方が、仏教の極意であり、究極の幸福をもたらすにちがいない。






  「捨て去る生き方」 20120721   ⇒【目次】

 あらゆる苦しみの原因は、執着にほかならない。捨てたくないと、切に感じるものは、すべて例外なく苦しみを生む。
 財産・地位・名声・恋愛など、誰でも欲しがる幸福の対象。また、より処となる友人・家族や、よって立つ思想・宗教、等々。それらを失いたくない思いが強いほど、無常の風にあおられ、激しい悩みにさいなまれる。
 そして最大の執着とは、自分自身に対するものだろう。
 自分さえ好い目にあえたら、わが身だけ助かったら、他人はどうでもかまわない。外見は善良でも、心の底では誰もが、ほとんど自分のことばかり考えている。いつかその自分が、無くなってしまうとすれば、これ以上の恐怖と苦悩はない。
 このようにあらゆる執着は、一時の幸福が得られても、最後に苦しみしか生まない。ほんとうの幸せは、それらを捨て去らなければ、現れてこないのだ。
 苦しみを克服するため、決意して何かを捨て去るとき、中途半端ではいけない。すべて手放す覚悟がなければ、なに一つほんとうに捨てられないだろう。
 煩悩の執着は強固であり、自分につごうの良いものだけ、選んで残せるわけがない。手放すときは、善いものも悪いものも、あらいざらいすべて投げ出す。断ち切って、捨て去って、遠く離れる。
 幸せすら、執着の対象となるなら、手放した方がよい。
 タイのテーラワーダ仏教を代表する高僧の一人、アーチャン・チャー長老は、次のように語った。
 修行をする中で、私たちは自分が体験したことに執着したり、体験そのものを「自分のもの」にしようとする傾向があります。もし、あなたが「自分は穏やかだ」「イライラしている」「自分は善だ」「悪だ」「幸せだ」「不幸だ」などと考えるのなら、このような執着は、より多くの渇愛を引き起こします。幸福が終わるとき、苦しみが始まります。そして、苦しみが終わるとき、幸福が現れます。やがてあなたは、自分自身がとどまることなく、天国と地獄の間を行ったり来たりしているのに気づくでしょう。ブッダは、自身の心の構造がこのようになっているということ、そしてこの渇愛のせいで、解脱が得られないことを理解しました。
※『手放す生き方 タイの森の僧侶に学ぶ「気づき」の瞑想実践』
 アーチャン・チャー 著 ジャック・コーンフィールド ポール・ブレイター 編 星飛雄馬 花輪陽子 花輪俊行 訳 サンガ 2011(39p)
 ともすれば自分を善い・悪いと思ったり、幸せ・不幸せだと感じたりすること。それらに執着したら一喜一憂して、日々天国と地獄の間を、さまよわなければならなくなる。こうした自分の内的な体験にもこだわらず、ことごとく捨て去るよう努める。そうすると最終的には、なにものにも捉われない、浄らかな心が現れる。
 この心で自己と世界をありのままに観、我執を雑えず、すなおに受け入れ、なすべきことを怠らず行う。そのようにして一日一日を、無為自然に過せるなら、これ以上の生き方はないと思う。
 アーチャン・チャー長老は、また言う。
 心に生ずるものは何であれ、手放すようにしてください。賞賛や見返りを期待してはいけません。もし、少しだけ手放すのなら、あなたは少しだけ平安を得るでしょう。もし、多くのものを手放すのなら、あなたは多くの平安を得るでしょう。もし、あらゆるものを手放すのなら、あなたは完全な平安と自由を知るでしょう。そのとき、この世界におけるあなたの闘いは、終わりを告げることになるのです。(前掲書104p)
 あらゆるものを、「捨て去る生き方」。
 これが実践できれば、幸不幸の次元を超えた、真実の幸せが、目の前に現れる。またそのとき、この世の悩み苦しみも、ようやく終りを迎えることになる。





  「今できる一つのこと」 20120707   ⇒【目次】

 過去はすでに終了した。未来は妄想にすぎない。現在にのみ生きている。
 過去と未来は、心が生んだ幻想にほかならない。実際に体が感じ取っているのは、現在の瞬間だけ。
 だから現実と呼べるのは、「今ここ」以外にない。過去と未来は、現在と峻別すべきであろう。
 ※「過去・現在・未来」19970104参照。
 そして「今ここ」で、きちんとできることは、一つしかない。同時に二つのことを、行っているように見えても、実際は短時間で、交互にうまく切り替えているだけらしい。
 この点を、アルボムッレ・スマナサーラ師は、次のように指摘している。
 いつでも今の時間で、瞬間で、できることは「一つ」しかありません。いつでも今の一分で、一秒で、できる仕事は一つしかないのです。二つ、三つ同時にはできません。
 たとえば、過去や将来に気持ちがいったり、妄想に耽ったりすると、今やるべきことを行えません。
 ※『悩みと縁のない生き方「日々是好日」経』サンガ 2009 39p
 したがって、ある一つのことを、常時念頭においているなら、つまらない妄想に耽らなくなる。たとえば、いつも念仏しているなら、あらゆる妄想の束縛から解放される。
 この点を板橋興宗師は、次のように分かりやすく語っている。
 何か一つ、
 自分の信じる言葉を見つけて
 口ずさむ。
 愚痴が出るときに唱えると、
 頭の中でグルグル巡っている
 余計な考えを
 追い出すことができる。
 気持ちがすっと静まって行く。
 それが、愚痴をグチらず、
 心の平安を保つ秘訣です。
 ※『息身佛 ただ、息をする。ただ、生きる。(角川SSC新書)』
  角川マガジンズ 2011 154p
 言葉でも心象でも、かまわない。自分が納得して、いつでも心の中に留めておける、なにかを決めておくべきであろう。
 そうすれば心が静まって安らぎ、幸せになれる。






  「一分間の幸せ」 20120624   ⇒【目次】

 幸せは、過去にも未来にも、他所にもない。
 今ここで、幸せでなければ。
 いつかどこかで、幸せになろうと夢みても、必ずあてが外れる。
 この瞬間が、幸せでなければ。

 「今ここ、この瞬間」を実感しやすくするため、まず一分間に区切ってみる。
 今の一分間、しっかり注意し、また次の一分間もそうして行く。
 慣れたら、30秒、15秒、5秒と、さらに短い時間を設定する。
 より短い瞬間に気づき、たえまなく意識し続けられるよう努力する。

 その一分間、幸せでないなら、いつそうなるのか。
 この一分間、幸せになる努力をしないで、いつするのか。
 今の一分間、満たされず不幸であり、また幸せになる努力もしていない。
 それなら確実に、この先もずっと不幸だろう。

 真実の幸せとは、心が浄らかになることだと思う。
 怒り貪る愚かな感情や、頭を悩ます妄想が、ほとんど起らない。
 物事に執着せず、日々静かで安らかな、落ち着いた気持でいられる。
 そうして心から他を慈しみ、ほんとうに人のため、行動できるようになる。
 これ以外の、どんな幸せを願い求めても、まず長続きはしないだろう。
 財産・地位・名声・恋愛など、人が羨むようなものは、すぐ失われてしまう。
 永遠の幸せとは、心が浄らかになることにちがいない。

 とにかく今の一分間は、浄らかな心でいられるよう、注意したい。
 そして次の一分間も、それが維持できるよう、怠らず努力したい。
 「今ここ、この瞬間」以外、幸せになれる機会は、ありえないのだから。

 こうした「一分間の幸せ」を、実践するために、念仏などの瞑想がある。
 瞑想とは、妄想を捨て、ただこの瞬間瞬間を、一所懸命に生きることであろう。
 そうすれば心が浄らかになり、真実で永遠の幸せが、今ここに出現する。

 ※アルボムッレ・スマナサーラ著『不安なこの世を生き抜くために』
  PHP研究所 2011
 「いまの一分で何をすればいいのかを意識してみよう」(72p)
 「幸福は明日得られるものではない」(128p)






  「新しい念仏」 20120609   ⇒【目次】

 今まで独自に、あれこれ念仏について思索し、実践してきた。
 しかしその結果、どうやら身についたものは、少々従来の念仏と、性質が異なるものになってしまった。
 いっそ思い切って、既成教団の教義から離れ、浄土教の伝統を踏まえつつ、新しいかたちの念仏を提唱したい。
 その名も主旨のとおり、「新しい念仏」とする。
 とくに気負わず、これまで実践してきた事柄を、思いつくまま簡潔に列挙すると、次のようになる。

 「新しい念仏」でも「南無阿弥陀仏」という名号を、口で称えることに変わりはない。
 ただ称える名号に、神話的意味は一切含まず、たんなる決まり文句とする。
 「南無仏」「南無釈迦牟尼仏」や「ありがとさん」など、ほかの言葉を使っても良い。
 心から納得して永く変わらず、数多く称えられるなら、どのようなものでもかまわない。
 ただ「南無阿弥陀仏」はもっとも普及した名号で、伝統があり称えやすく、原則としてこれを用いる。

 「新しい念仏」において、「南無」とは帰依、「阿弥陀仏」とは自然(じねん)の様相を意味する。
 つまり自我の執着から離れて、自己も世界も包括した真理・法則に、心から従うことにほかならない。
 伝統教学における「浄土」や「往生」も、あくまで現世において体験可能な範囲内で解釈する。
 「浄土」とは、「阿弥陀仏」のはたらき(本願)によって、浄らかになった場所(精神世界)をさす。
 「往生」とはそうした「浄土」へ、自分が到達することを意味する。

 「新しい念仏」は、端的に言えば、仏教瞑想の一種にほかならない。
 さらに唯一の瞑想法というわけでなく、自分に合うと思う人だけが行えばよい。
 それは実践上、止の瞑想と、観の瞑想を統合した、止観行となる。
 ながい一息で一回ほど、おそく念仏すれば、止(サマタ)の瞑想となる。
 また一息で十回ほど、はやく念仏すれば観(ヴィパッサナー)の瞑想となる。
 おそい念仏により感情が静まり、心も落ちついて、悩み苦しみを脱することができる。
 はやい念仏により妄想が収まり、今ここにある心を観察し、自己をよく知ることができる。
 こうした止・観の念仏により、我執から離れて、怒り貪る愚かな気持ちが、起こらないようになる。
 そうして、浄らかになった心が映し出す、ありのままの世界に、目覚めるようになる。

 「新しい念仏」は、おおむねこのような意味あいのもとに、日々の生活上で実践する。
 とにかく「南無阿弥陀仏」と、「今ここ、この瞬間」に称え、以後もずっと継続する。
 要するに、ただ念仏し続けることが大切で、後の意味づけなどはどうでもいい。
 すべてを捨てて念仏すれば、あらゆる妄想が消え去って、かならず心が浄らかになる。
 心が浄らかになることこそ、仏教の極意であり、真の幸福は、それ以外にほとんどありえない。
 こうした主旨がひろく理解され、多くの人が幸せになれるよう、切に祈ってやまない。
  人は人吾は吾なり
   とにかくに吾行く道を吾は行くなり
   -『西田幾多郎歌集(岩波文庫)』岩波書店 2009 46p






  「心の深い底」 20120603   ⇒【目次】

 人の意思は、必ずしも言葉で思考し、論理的に決定されているとはかぎらない。
 むしろ言葉自体がその決定に関与している比率は、意外に少ないかもしれない。
 言葉による思考結果は、参考にされる程度で、人の意思決定は、もっと深い部分で行われているようだ。

 言葉はいつもはっきりとした意識下で、思いどおりに用いられている。
 ただときおり強い感情を伴い、押さえがたいものが現れる場合もある。
 しかしそれは、言葉そのものが強い力を持っているわけでなく、感情が激しいからであろう。
 言葉はどれだけ辛辣なものでも、それ自身に力はない。
 情緒に結び付いてはじめて、人を動かす力を持つ。
 だから言葉でどれほど妄想しても、しょせんは上滑りし、空回りしているにすぎない。

 また思考は、言葉だけで行われているわけではない。
 映像や音声などの、心象(イメージ)も駆使されている。
 その性格から、言葉より心象で、感覚的に物事を判断する人も多い。
 むしろ、発達という視点に立てば、心象で思考する方が先だといえる。
 ある程度成長し、言語能力をしっかり獲得した後、言葉が主体となる。
 とりわけ感情は、心象と密接に関係しているようだ。
 妄想も心象が絡んでくると、より強固になり、脱け出しにくくなる。

 しかし、ほんとうの意思決定は、もっと深い前意識的な部分で行われている。
 ここでは欲求・気分・体調などとして、心や体の様々な情報が集積されている。
 それらと頭で行った思考が、総合的に検討され、直感的に意思が定まる。
 はっきりとは意識できないにしても、なにか心の底でうごめく、暗い泉のような場所。
 言葉・心象や感情がいくら上で吹き荒れようと、まったく動じない心の最深部。

 この部分をしっかり見つめなければ、いつまでたっても自分の気持ちを、正しく理解できない。
 妄想は、こうした微妙な心の動きを覆い隠し、自己理解を大きく妨げている。
 日々瞑想するときに、言葉・心象や感情は受け流し、心の深い底を観るようにしたい。
  わが心深き底あり
   喜も憂の波もとヾかじと思ふ
   -『西田幾多郎歌集(岩波文庫)』岩波書店 2009 25p






  「昼念仏(ひるねんぶつ)」 20120525   ⇒【目次】

 これまで職場の休み時間に、昼寝ばかりしていた。かんたんな食事をした後で、椅子にもたれ、30分ほどうとうとしていた。それはそれで、眠気がすっきりし、仕事の能率も上がってよい。
 ただ欲を言えばもう少し、有意義な時間の使い方をしたい。
 しかしいつも、パソコンに向かって仕事しているので、目は休めたい。読書したり、作文したりするのも、かんべんしてもらいたい。
 なにか良いことがないかと、ずっと模索していた。

 そこでふとこの時間、じっくり念仏したらどうだろう、と思いついた。
 ゆっくり念仏したら「止」の瞑想効果により、心身のリフレッシュをはかれる。またはやく念仏したら、「観」の瞑想効果により、心身の状態をチェックできる。これほど有意義な休み時間の過し方は、ちょっとほかに考えられない。
 なぜ今まで、こんなかんたんなことに気づかなかったのかと、悔まれるほどだ。
 ところでこの頃ずっと、夜就寝前に次のような文句を称え、お祈りしている。
「南無阿弥陀仏 …
 ありがとさん …
 生きとし生けるものが 幸せでありますように …
 いついかなる時も 心が浄らかでありますように …
 ありがとさん …
 南無阿弥陀仏 … 」
 ※その時の気分で、各文句を適宜くり返す。
 それぞれの言葉に込められている意味を、簡潔に説明しておく。

 「南無阿弥陀仏」
 浄土教の歴史上、「南無阿弥陀仏」には、多種多様な語義がある。とりわけ、「阿弥陀仏」とは何者かが問題で、ここでは親鸞聖人の解釈(「自然法爾章」)に従う。
 「阿弥陀仏」とは無上仏であり、究極的には自ずから然る、真理・法則そのもののすがたを意味する。これに「南無」(帰依)するのが「南無阿弥陀仏」であり、特定の人格を信仰するのではない。
 ※「わたしの五聖教」20090515参照。

 「ありがとさん」
 板橋興宗師の提唱による。
 これは単なる感謝の意ではなく、妄想しないための空念仏として称える。いやなときも、いいときも関係なく、一日千回は言い続ける。
 すると自ずから、人相も変わってくるという。
 ※「坐りませんか」20060107参照。

 「生きとし生けるものが 幸せでありますように」
 四無量心を修める「慈悲の瞑想」の一節であり、上座仏教でさかんに用いられている。
 全文は次のとおり。
「私は幸せでありますように
 私の悩み苦しみがなくなりますように
 私の願いごとが叶えられますように
 私に悟りの光が現れますように
 私は幸せでありますように(3回)

 私の親しい人々が幸せでありますように
 私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
 私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
 私の親しい人々にも悟りの光が現れますように
 私の親しい人々が幸せでありますように(3回)

 生きとし生けるものが幸せでありますように
 生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
 生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
 生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
 生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)」
  ※「日本テーラワーダ仏教協会」
    HOME→初期仏教の世界→慈悲の冥想
 気力が許せば、すべて称えたい。

 「いついかなる時も 心が浄らかでありますように」
 愚案による。
 ほんとうの幸せとは、心が浄らかになることだと思う。自分だけでなく、あらゆる人々の心が浄められ、幸せになることを祈る。
  ※「自分が幸せであること」 20111118参照。

 これを「昼念仏」の際に、必ず称えたい。さらに朝起床後すぐ、寝ぼけていても忘れずに実行したい。
 そうすればどれほど憂いに沈んでいるときでも、毎日三度は正気に戻って念仏できる。うまく継続して行けば、今より少しは妄想も静まり、心が浄らかになるかもしれない。






  「老いの自覚と悲哀」 20120510   ⇒【目次】

 あるときふと、自分が老いていることに気づく。
 白髪としわが増え、体があちこち調子悪く、疲れもなかなかとれない。
 心身ともに全力を尽くし、なにかに取り組むことが、難しくなってきた。

 体力と残り時間を考えると、これから大きな仕事は、始められないだろう。
 いろいろ成し遂げる可能性が、もうほんの少ししかないと、はっきり分かる。
 人生の盛りは、すでに過ぎ去っており、あとは落ちて行くばかり。
 生涯の実績は、これまでに達成できた、ごくわずかな事柄のみ。
 これから懸命に努力し、なにかで成功するなど、たぶん無理にちがいない。

 財産・地位・名声・恋愛等々、誰もが欲しがるものはすべて満たされなかった。
 しかしもう今さら、それらを得ようとあがく歳ではないのだ。
 なんとかけじめを付けてあきらめ、捨て去って行くしかない。
 少々つらくとも決して実現しないものに、いつまでも恋々としてはいられない。

 満たされない思いが、ときおり怒りや悲しみの感情を伴い、わき起ってくる。
 なだめすかしたり、叱りつけたりしながら、気持を消化させようとする。
 けれどもこうした妄想は、実に根深く、自分の力だけでなかなか始末できない。
 あらゆるものを捨て去ろうと、日々念仏に励んでも、一進一退するばかりだ。

 それでもしばらくすればかつて執着したものも、捨て切れるようになるだろう。
 心の中で、猛り狂っていた想いを、懐かしく感じるくらいに。
 しかしたぶん、そのとき自分は、すっかり老人になっているのだ。






  「捨てて生きる」 20120428   ⇒【目次】

 半生を振りかえると、失敗ばかりだった。
 いまさら惜しむべきものなど、なにもない。
 平々凡々とした仕事に就き、ごくふつうの家庭で暮らす。
 子どもの頃に望んだ、華やかな夢は、なに一つかなわなかった。

 ちょっとばかりこだわって、得たもの、持ったもの。
 それらも人から見れば、大して価値のない知識や、単なる中古品にすぎない。
 大切に残しておく必要など、まったくない。
 すでに人生の秋を迎え、この先できることも限られてきた。
 それならもう、なにかを蓄えようとせず、みな捨て去ってしまいたい。

 まず自分のまわりを見わたすと、いらないものが溢れている。
 積読しているおびただしい本、数回聴いただけのCD、もう観ることのないDVD。
 体に合わなくなったシャツ、色あせたジャケット、似合わないセーター。
 余った机と椅子、調子悪いステレオ、ブラウン管のテレビ、古いパソコン。
 箱にしまったままの皿、茶碗、カップ、グラス、何年も使わない道具類。
 とにかく不要品は、折々こまめに捨てていく。

 つぎに自分の体をながめると、かなり太っている。
 飽きもせず食べている証拠で、正直なところみっともない。
 資源のむだであり、病気のもとでもあり、見逃すわけにはいかない。
 健康を維持する程度に食事し、余分なものは口にしない。
 努力してなんとか、贅肉は捨ててしまおう。

 さらに自分の心を見つめると、妄想でいっぱいだ。
 むかしの悔しかった出来事や、これから訪れる細々とした心配事。
 いやな奴の不愉快な態度に怒り、すきな人のつれない言葉に悲しむ。
 終日、次から次へと頭に浮かんで、憂鬱な気持ちになってしまう。
 そんなものはすべて、後生大事に抱えているべきでない。
 今まで過した人生など、まったく取るに足らなかった。
 またこれから念願がかない、成功した明日が来る可能性もない。
 自分の過去や未来などたわいなく、みな捨ててしまって全然問題ない。
 現在、目の前にある物事に注意し、ていねいに生きてさえいれば。

 そう思うと、なにか気持ちが、不思議に清々しくなる。
 大したことなかった人生だから、あまり執着する理由もない。
 病気で苦しみたくはないけれど、老いることにそれほど違和感がない。
 その果てにある死も、若い時分ほど恐怖の対象でなくなった。
 身も心も捨ててしまえば、いつ死んでもかまわない。

 要するに人の生も死も、それほど悩ましいものではないらしい。
 あらゆるものを捨て去る、覚悟さえあれば。






  「思秋期の危機」 20120414   ⇒【目次】

 「思秋期」という言葉がある。これは、著名なカウンセラーだった故・河合隼雄氏が、言いはじめたらしい。
 周知のとおり、子どもが大人になるための、試練が訪れる時期を、「思春期」という。これに対し中年になって、自らの老・死と向き合い、それをしっかりと受容できるようになるまでの期間が、「思秋期」らしい。
 この「思秋期」という考え方は、まだひろく認知されていないようだ。それで、中年期に起こる、様々な心理的危機の本質と意義が見極められず、むやみに悩み苦しんで、神経症や鬱病などに罹ったりする人も多い。
 自分もちょうどこの時期にあたり、いろいろな苦労を経て、ようやく最近、精神的に落ちついてきた。その際、たいへん参考になった文献から、重要な箇所を抜き出し、感謝の意味を込めて紹介したい。
1.河合隼雄『働きざかりの心理学(新潮文庫)』新潮社 1995
 人生に思春期があるように思秋期があるように思われる。思春期に人間が受け容れることに苦労するのが「性」という厄介なものであるのに対して、思秋期の方は「死」という厄介者を背負うことになる。四十歳—五十歳の間に思秋期は来るのだが、多くの人は思春期の子どもたちと同じく、「死」のことなど意識しない。彼らはまだまだ若くて健康だと思っている。しかし、心の深いところでは死への準備が始まりかかるのである。このときも、人間は不可解な問題を起こしやすい。ギャンブル、女、酒、いろいろなことが登場する。(77p)
※主として「思春期」が「性」の、「思秋期」が「死」の問題を扱う。このように、概念を対比させると、確かに分かりやすい。ただし「性」は「生」と密接に関係し、死ぬまでこの問題が、なくなることはないだろう。
2.河合隼雄『中年クライシス(朝日文芸文庫)』朝日新聞社 1996
 心理学で中年を大切に取りあげたのは、スイスの分析心理学者、C・G・ユングである。彼は自分のところに相談に来る人に、中年以後の人が多いと言っている。…(中略)…彼らのすべてが「何かが足りない」と感じたり、「不可解な不安」に悩まされたりして、ユングのところを訪れたのである。
 ユングはこのような人々に会い、また自分自身の体験をも踏まえ、中年において、人間は大切な人生の転換点を経験すると考えるようになった。彼は人生を前半と後半に分け、人生の前半が自我を確立し、社会的な地位を得て、結婚して子どもを育てるなどの課題を成し遂げるための期間とするならば、そのような一般的な尺度によって自分を位置づけた後に、自分の本来的なものは何なのか、自分は「どこから来て、どこに行くのか」という根源的な問いに答えを見いだそうと努めることによって、来るべき「死」をどのように受けいれるのか、という課題に取り組むべきである、と考えたのである。(7p)
※ユングが中年期の危機について、詳細に考察していることは、案外知られていない。中年期が、来るべき老いと死を見すえつつ、真摯に自己を究明すべき時であると捉えるのは、たいへん説得力がある。
 エレンベルガーという精神科医は、フロイトやユングなどの深層心理学者の人生を丹念に調べ、その結果、「創造の病」という考え方を提唱した。つまり、偉大な創造的な仕事をした人は、中年において重い病的体験をし、それを克服した後に創造活動が展開される、というのである。…(中略)…
 このような偉大な人に比べるとわれわれ凡人は別に大した「作品」を残すわけでもないのだが、人間誰しもそれぞれの個性をもち、他とは異なる人生を生きるという事実に注目すると、われわれにとっては、自分の人生そのものが「作品」であると言うこともできる。つまり、かけがえのないひとつの人生を、われわれは「つくり出す」のであり、そのような意味で、どのような人間であれ、「創造活動」にかかわっていると考えられる。そのように考えると、どのような人にとっても、「創造の病」にかかる可能性は高いわけである。(8p)
※また、自分のような凡夫でも、人生そのものを作品として、創造活動をする必要がある、というのも卓見であろう。人生の意味や生きがいとは、そうした活動を通してしか、得られないにちがいない。
3.河合隼雄『こころと人生』創元社 1999
 「人間は、青年期の悩みを超えてちゃんと社会的に地位が確立しても、中年になって、自分はいったい何のために生きているのかとか、本当の自分とは何かという問題がもう一度やって来る」。そしてそれは、青年期のようにちゃんと就職したとか、結婚して子どももできたとか、それからだんだん中年まで頑張ってきて地位も確立したとか、そんなことではない、ということをユングは言っています。…(中略)…それとは関係なく「私は私なんだ」ということを本当にはっきり言おうと思うと、「中年からの問題は次元が違う」ということをユングは言っているわけです。
 ユングは、それをひじょうに割り切った言い方で、「人生の前半の悩みと、後半の悩みとは違う」と言いました。いうならば、人生の前半というのは「いかに生きるか」ということがすごい問題なんだけれど、人生の後半はむしろ「いかに死ぬか」ということのほうが大事なんだ、と。(106p)
※ここでは2の前半部分を、講演調で分かりやすく言い換えている。
 医学が発達して物が豊かになり、みんな長生きできるようになった。だから、そう簡単にお迎えが来なくなりました。それとともに、老いて死んでいくという大変なことを、みんなが一人ひとりやらなくちゃならなくなったわけです。ということは、一人ひとりが、何らかの意味で「自分の人生を創造する」ということをやらなくちゃならない。この「創造をする」というのは、どんな会社をつくるとか、どんな金儲けをするかということではないというところが、ものすごく大事なことです。そうしたことは、もう今までに一応やってきた。今度の創造は、それとは全然次元が違うんですね。そうでしょう。「何をつくるか」じゃなくて、「どう死ぬか」という話ですから。またそういう意味でこそ、本当の創造だというふうに思います。つまり、人に任しておけないわけです。私は、現代という時代は、一人ひとりがある程度この「創造の病」ということを体験しなくてはならない時代ではないか、と思っています。(136p)
※ここでは、2の後半部分をふまえて、医学などの進歩で長寿になった現代人が、「創造の病」を免れなくなったという点について、鋭く指摘している。
4.氏原寛 東山紘久 川上範夫 共編『中年期のこころ その心理的危機を考える』培風館 1992
 要するに、中年期は、「後がない」、「先が見えてきてしまう」年齢である。そして、このような冷厳な事実は、必然的に中年男子に対して、「今までの人生は、これまでの所、これでよかったのか」、「この仕事とこの会社を選んでよかったのか」、「この先、出世できてもこれぐらいだとして、今の地位のままでいいのか」、「この妻を選んでよかったのか」といった、人生の再吟味と総括とが迫ってくることになる。これは、残りの可能性と時間が青年期に比べて少ない分だけ、よけい深刻である。(53p)
※中年期は、人生の再吟味と総括を迫るものであると、端的かつ的確に捉えている。
 人間が人間としてあるためにはしばしば衝動的なものをコントロールしなければならない。しかし衝動とは本能につながり、それは個人を超えた本来自然のものである。そのため、あまりに”人間的”であることはこうした内なる自然の抑圧をもたらす。たましいへの道とは、こうした自然への回帰だともいえる。しかし、自然ということは一面動物的ということでもある。ここに他者との柔らかい関係を求める衝動が、しばしば動物的な単なる性愛満足に堕する危険が常に存在する。性愛衝動の底には、人間の場合、実はエロスの衝動がある。これが道具的でない、人と人とのつながり、より大いなるものとの一体感、大げさにいえば永遠につながる体験をもたらす。それがたましいに至る道である。抑圧された本能を自覚め(ママ)させ、エロスを通してたましいへ、というコースである。それをちっぽけな人間という舞台に実現させるためには、人並みはずれた分別と聡明さが要る。(201p)
※「思秋期の危機」が、自然な人間性を恢復するため、「魂のこと」をする時期である、という指摘はきわめて重要であろう。また性愛衝動に流されない真のエロスが、たましいへ至る道には必須である、という考え方も見逃せない。エロスは自我よりはるかに巨大で、衝動を抑えめざす方向へ進むには、かなりの分別と聡明さが求められる。
5.藤沢周平『海鳴り 上(文春文庫)』文藝春秋 1987
 いまになって振りかえれば、バカなことをしたものだと思う。だがそのころは、懸命に働いたその先に、老いと死が待っているだけだという事実に馴染めなかったのだ。
 いずれは来る老いと死を迎えるために、遊ぶひまもなく、身を粉にして働いたのかという自嘲は、振りかえってみればあまり当を得たものではなかったが、そのころの新兵衛を、一時しっかりとつかまえた考えだったのである。ひとは、まさにおだやかな老後と死を購うためにも働くのだ、という考えは思いうかばなかった。
 見えて来た老いと死に、いくらかうろたえていた。まだ、し残したことがある、とも思った。その漠然とした焦りと、ひとの一生を見てしまった空しさに取り憑かれ、酒と女をもとめてしきりに夜の町に駕籠を走らせた。
 ―だが、救いなどどこにもなかったし…。(22p)
※『海鳴り』は、「思秋期の危機」について、まっ向から取り組んだ名作であり、とりわけその心理描写がすばらしい。結末も悲惨なものではなく、読後になにか余韻が漂うようで好ましい。

 この前に綴った「心の出家」は、「思秋期の危機」に対する、自分なりの解答であった。
 在家のまま、あらゆる執着を捨て、ただ念仏し信心すれば、心は浄土へ往生し、この身がいつ死んでもかまわなくなる、というものだった。
 確かにこれが実現できれば、「思秋期」の課題はほとんど解決するだろう。
 しかし、それはあくまでも、念仏がしっかり身につき、心が浄らかになったら、という仮定のはなしだ。この先、自分がどれほどそうなれるかは、まったく分からない。なんとか見通しがついたとしても、目的地はまだはるか彼方にある。自分が死ぬまでに到達できるかどうか、正直言っておぼつかない。
 老と死の問題は、けっして一筋縄で済むようなわけにいかず、今回の答が正解か誤解か判明するのは、ずっと後のことにちがいない。






  「心の出家」 20120404   ⇒【目次】

 このごろ俗事に翻弄されて、なかなか心が落ちつかなかった。
 年甲斐もなく、愛憎がらみの出来事があり、さまざまな妄想が、頭にこびりついて離れない。それが家族にも影響し、家庭的な問題も、いろいろ再燃しつつある。
 もうほとほと困りはて、どこかへ蒸発でもしたくなった。

 そうこうするうち、ちょっとした転機があり、「心の出家」をすることに思い至った。
 本来なら勇気をふるい、「体の出家」を敢行すべきだろう。しかし、まだ家庭と社会に、少々義務が残っていて、今すぐにそうはできない。
 ただ必ずしも家を出奔し、どこかの御寺へ入らなければ、出家できないわけでもない。心が世俗からまったく離れていれば、在家の俗人でも、事実上は出家者となんら変わりなくなる。
 むしろ体は出家していても、心が世俗に執着し恋々としているより、はるかにましだと思う。

 ところで曽我量深師の言葉に、
「往生は心に、成仏は身に」
 ※津曲淳三編『曽我量深先生の言葉』大法輪閣 2011 7p
 という名言がある。
 これを詳しく説き明かせば、次のようになる。
「往生は生活の名前である。本当に生きる、何時でも成仏の出来るように生きる。生きている中は成仏できないが、生きている時の日暮らしが何時でも成仏の出来る生活が営まれるから、成仏間違いない。往生という一つの証拠を握っているから成仏間違いない。いつ死んでも成仏間違いない。…(中略)…
 生きている時、念仏によって、本願の念仏によって、心に浄土を与えられる。そこに初めて自由がある。その自由を与えられたところに、そこに往生がある。
 浄土を与えるのが本願である。浄土を与えられたのが往生である。
 往生によって成仏する。往生することによって成仏することが出来る」
 ※『曽我量深先生の言葉』33p
 愛欲にまみれた煩悩の塊である、この自分が生きているかぎり、成仏などはできない。それでもただ念仏し、信心していれば、心に浄土が与えられ、いつ死んでも成仏まちがいなくなる。
 それは体が今のままでも、心は俗世から離れて、得度し涅槃へ至ったに等しい。日常生活する自分が、種々の修行に励み成仏をめざす出家者と、境地において少しも変わりない。

 在家で、日々の務めをこなしながら、物事に対する、あらゆる執着を捨て去る。これまでに得た、持った、と思ったものはすべて捨て、ただ念仏し信心する。
 この世に自分のものなど何ひとつなく、すべて実体のない仮の存在にすぎない。この真実を説き、実践する仏教のほかに、疑いなく納得できる思想などない。
 まさしく、「世間虚仮 唯仏是真」であろう。
 ※「せけんこけ ゆいぶつぜしん」天寿国曼荼羅に記された聖徳太子の言葉とされる。
 そうして心はすでに浄土へ往生し、いつ自らの体を失い死に至っても、まったくかまわなくなる。浄土へ往生するというのは、ほんとうの意味で心が浄らかになることの、神話的表現なのだろう。

 自分は今日からこの意味で、「心の出家」をすることにしたい。たとえそれが、「体の出家」にも増して厳しい、孤独な茨の道であろうとも。
 ちなみに、いま頭から離れない人間関係の悩みは、端的に言って、愛執が原因だろう。
 出家者らしく、愛憎の気持を慈悲心に入れ替えられたら、この問題もすべて解消するにちがいない。ただそれは、英雄的に立派であるだけ、きわめて困難な行為なのだけれども。






  「悩みと念仏」 20120402   ⇒【目次】

 なにかに悩んでいる心を、じっと深く探ってみる。
 善悪の、ありとあらゆる言葉が乱れ飛んでおり、一寸先も見えない。
 自分と他人を責めまくる悪口に、なんとか良心が対抗しようとしている。
 けれども暗い感情をともない、止めどなく湧きおこる雑言に、防戦一方だ。

 心の中に、言葉と感情を坩堝に入れたような、黒々とした塊がある。
 そこから暴風にまさる妄想が吹き荒れ、理性で抑えようとしても、一蹴される。
 知るかぎりの教義や思想、理論を駆使して、なんとか一時、嵐を静める。
 しかし数時間もすれば、元の木阿弥で、あいかわらず悩みの渦中に戻っている。
 どうやら自力では、魔物のような悩みに立ち向かうことなど、不可能なようだ。

 そのように煮え詰まったある時、ふと思い立ち、なにげなく念仏してみた。
 どうしようもなくて、まったく期待せず、南無阿弥陀仏と心で称えてみた。
 一か八か、黒々とした坩堝の中へ、名号を投げ込んだ。
 その瞬間、言葉の嵐が止んだ。
 それでも吹き荒れようとするので、また称名すると、やはり鎮まる。
 念仏していれば、言葉が暴走することはない。
 名号が念頭にある間は、悩みも起らない、と分かった。
 これを継続して行けば、とりあえず悩みに苦しめられることはない。

 ただそれで、悩みの原因が、解消したわけではない。
 外因・内因を見極め、有効な対策を講じない限り、根本的に解決しない。
 しかしまず念仏すれば、嵐のような妄想に、責め苛まれることはなくなる。
 そこで、精神的余裕を取り戻し、心を少しでも癒すことができる。
 それからじっくり時間をかけ、具体的な問題の解決に、取り組んで行けばよい。

 念仏のような行法を知らずに、現代人のほとんどは、悩みをすべて自力で解決しようとする。
 けれども心中から湧き出る妄想を、思うままに抑えられる人など、稀有だろう。
 自らの力だけを頼るかぎり、必要以上にひどい苦しみを、味わうことになる。

 ※「信心の救済的効能―清沢満之『我信念』をめぐって」20080818参照。






  「悩みの意義」 20120325   ⇒【目次】

 いま苦しんでいるこの悩みは、現在の自分が、ぜひとも取り組むべきことであるらしい。

 心を深め、精神を練るために、避けて通れない問題が、悩みとしてここに現れている。
 だから逃げても逃げても、それはしつこく追いかけて来る。
 人間的に成長し問題を根本から解決しない限り、けっして消え去ることはない。

 まず恐れずに自分の悩みが、どこからどのように起っているか、しっかりと見つめる。
 社会的状況や生活状態、人間関係などの、外因ばかりにとらわれてはならない。
 むしろ悩みは、性格や思考、感受性などの、内因によるものが多い。
 その過程で自分をよく知り、ものの見方・考え方や、感じ方の誤りに気づく。
 そうしてじゅうぶんに反省すれば、態度やふるまいも、おのずから改まるようになる。

 このように成長すると、無理なく悩みの対象へ、積極的に働きかけられる。
 ここまで来れば、かつての悩みは、ほとんど霧散しているだろう。
 人は、悩むに値しないことで、わざわざ苦しんだりはしない。
 カウンセラーの東山紘久氏は言う。

 自分のしていることは、たとえそれが否定的なことであれ、自分では不必要に思われることであれ、自分の「今の存在」には必要なことである。
※『悩みのコントロール術』(岩波アクティブ新書)岩波書店2002 19p
 つらい悩みにとらわれているとき、まさに自分は大切なことに取り組んでいる。
 悩んでいる心を、しっかりと受容し、よく理解して、前むきに進んで行きたい。
 ともあれ悩みは、安易に取り除くのでなく、深めてコントロールするのが、人生のコツらしい。






  「人生三分論」 20120205   ⇒【目次】

 今日の誕生日で、人生五十年が過ぎた。もういつこの世を去っても、夭折とは言われないだろう。
 この間、人並に進学・就職・結婚等々の節目があり、それなりに一所懸命努力した。けれども正直言ってなに一つ、ほんとうの希望がかなうことはなかった。なんとか日々の生活に、困らない程度のものは得られても、満足できる水準まで到底達していない。
 それでもじゅうぶん幸福なのであり、愚痴などこぼせば罰があたる。ただ本心を明かせば、決して成功した半生などではなく、むしろ不本意な失敗の連続だった。残された人生でどれだけあがいても、それを挽回するのはもう無理だろう。
 そう思うと、ちょっと悲しくなる。

 ところで、立命館大学総長をつとめた故・末川博博士(法学)は、大まかに人生を三分して、それぞれ次のように生きることを提唱している。
 私は、人間の一生を通じても、このように三分して生きることができたら結構だと考えている。かりに人生七十五年としたら、最初の二十五年間はだいたい人の世話になって一人前の人間にしてもらう期間であり、次の二十五年間は世の中のためというか人のためというかとにかく働いてくらす期間であり、最後の二十五年間は自分のため自分の好むところに従って消費することのできる期間である。
※「夢の人生三分論」『考える精神 わが人生観』大和書房 1971 35p
 この「人生三分論」によれば、自分も人のために仕事する期間は、もう終ったようだ。これからは、過去に犯した数々の失敗などあまり気にせず、自分の好きなことを中心に、生活しても許されるらしい。
 それが可能ならこの先、老いさらばえて行くだけでも、少しは生きることに、意欲が湧こうというものだ。






  「今ここ、この瞬間」 20120115   ⇒【目次】

 最近、日本でも定着してきた上座仏教では、日常生活の心得として、「今ここ」に注意するよう、厳重に教える。過去でもなく、未来でもなく、どこでもない、この場所で、いま生きている感覚に気づき、意味のない妄想にふけらないよう戒めている。
 タイの深い森にある寺 で、二十数年も修行してこられた日本人僧である、スカトー寺副住職のプラユキ・ナラテボー氏は、「今ここ」で「気づきの瞑想」とともに生活するなら、苦しみが滅し心やすらかに生きられると説いている。
 こうして、気づきとともに生活する習慣が身についてくるにつれ、「今ここ」をイキイキと生きる感覚がよみがえり、世界もみずみずしく感じられるようになってくることでしょう。心は徐々に落ち着き、やすらぎ、安定してくるのを感じ始めるでしょう。同時に、今ここにある法(ダンマ)が、明晰な意識であるがままに捉えられるようになってくるでしょう。そして何よりも、悩み苦しみが、次第次第に小さく軽くなっていくのをリアルタイムで実感されることでしょう。
※『苦しまなくて、いいんだよ。 心やすらかに生きるためのブッダの智恵』 PHP研究所 2011 163p
 これはきわめて重要な心がけであり、ほんとうに「今ここ」に集中して生活することができれば、心が浄らかになり、幸せな毎日をおくることができるだろう。
 また同書では、こうして得られる「内発的な幸せ」の内容を、5項目にまとめて紹介している。
  1. 煩悩や世間の風評に翻弄されず、いつも清々しい心でいられる
  2. 心配や不安に心を騒がせることがなく、いつも落ち着いていられる
  3. 一切のものごとをあるがままに見て、広くて深い理解を得られる
  4. 不満や孤独、さびしさを感じることがなく、元気溌剌として、満たされている
  5. 他人の幸せを願い、他の繁栄を喜べるような、成熟した心を持てる
 これらはまさしく真の幸福であり、人生の目的とは、こうした事柄の一つでも実現することだろう。
 ただし、自分でもいささか「気づきの瞑想」を実践してみたところ、「今ここ」と意識するだけでは、やや心が散漫になるようだった。そこで我流では「今ここ、この瞬間」に、できるだけ注意するよう心がけている。
 まずこの1分間、妄想に陥らず、やるべきことをていねいにやる。次の1分間もそうして、また次の1分間もそうする。これをできるだけ長く続け、ついつい妄想しても、すみやかに気づいて、また1分間に注意して生きる。慣れてきたら、その1分間を30秒とし、さらに15秒、5秒と、可能な限り短くしていく。そうして最終的には、瞬間瞬間の気づきを、死ぬまで失わない。
 しかしこれは、文字どおり蛇足であり、本来の趣旨を取り違えているかもしれない。今後よく心を観察して、物事に対する感じ方や考え方がどのように変化するか、経過をみていきたい。






  「捨ててこそ」 20120105   ⇒【目次】

 また念仏の要点に関する、貴重な言葉に接することができた。
 少々長文ながら、全文を挙げておきたい。
「興願僧都、念仏の安心を尋申されけるに、書てしめしたまふ御返事」

【原文】

 夫れ、念仏の行者用心のこと、しめすべきよし承候。南無阿弥陀仏とまうす外、さらに用心もなく、此外に又示べき安心もなし。諸の智者達の様々に立おかるゝ法要どもの侍るも、皆誘惑に対したる仮初の要文なり。されば念仏の行者は、かやうの事をも打捨て念仏すべし。
 むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかゝ申べきやと問ければ、
「捨てこそ」
とばかりにて、なにとも仰られずと、西行法師の撰集抄に載られたり。是誠に金言なり。
 念仏の行者は智慧をも愚痴をも捨、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるゝ心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切の事をすてゝ申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかなひ候へ。
 かやうに打あげ打あげとなふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界、皆浄土なり。外に求べからず、厭べからず。よろづ生としいけるもの、山河草木、ふく風、たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預にあらず。
 またかくのごとく愚老が申事も意得にくく候はゝ、意得にくきにまかせて愚老が申事をも打捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任て念仏したまふべし。
 念仏は安心して申も、安心せずして申も、他力超世の本願にたがふ事なし。弥陀の本願に欠たる事もなく、あまれることもなし。此外にさのみ何事をか用心して申べき。たゝ愚なる者の心に立かへりて念仏したまふべし。
 南無阿弥陀仏。
 ※『一遍上人語録』(岩波文庫)岩波書店 1985 33p

【抄訳】

 念仏の行者は、南無阿弥陀仏と言う以外、さらに用心することもなく、ほかに示すべき安心もない。諸々の智者達が様々に立てた教義なども、みな誘惑に対する仮のものである。それなら念仏の行者は、このようなことを打ち捨てて念仏すべきである。
 むかし空也上人へある人が、念仏はどのように言ったらいいか問うと、
「捨ててこそ」
というばかりで、なんとも仰られなかったと、西行法師の撰集抄に載っている。これはまことに金言である。
 念仏の行者は、智慧も愚痴も、善悪の境界も、貴賤・高下の道理も、地獄を恐れる心も、極楽を願う心も、また諸宗の悟りも捨て、一切のことを捨てて言う念仏こそ、阿弥陀仏の超世の本願に、もっともかなうのである。
 このようにくり返しとなえれば、仏もなく我もなく、ましてこの内にことさら道理もない。善悪の境界、みな浄土である。ほかに求めず、厭うべきでなく、生きとしいけるもの、山河草木、ふく風、たつ浪の音までも、念仏でないものはない。人ばかり超世の願に預かるのではない。
 またこのように自分が言うことも心得にくければ、心得にくいにまかせて、そのことも打ち捨てて、何やかやとあてがってはからわず、本願に任せて念仏するべきである。
 念仏は安心(信心)して言っても、安心しないで言っても、他力超世の本願にたがうことはない。阿弥陀仏の本願に欠けたことも、あまったこともない。このほかに何を用心して言うべきだろうか。ただ愚かな者の心に立ちかえって、念仏するべきである。
 妄想が次々と湧き出て、心中穏やかでないことがある。過去の失敗に対する悔恨、将来の生活に対する不安、厳しい現実から逃避した甘美な夢物語、等々。
 それらが頭から離れないとき、是非を問わず、とにかく思いをすべて捨ててしまうように努めると、なんとか治まる。執着するものから離れるには、決心して断固それを捨て去るしかない。
 つらい思いを断ち切るのはひどく苦しく、あまい思いから離れるのもすごく残念で、なかなかできることではない。しかし、いったん捨て去った後は、いつも清々しい思いに満たされる。相手が何であれ、執着は苦しみの根源であると、心底納得できる。
 空也上人が端的に、一遍上人が詳細に語るとおり、念仏においても、捨て去ることが第一であろう。智慧も愚痴も、善悪も、地獄も極楽も、悟りも、あらゆるものをとにかく捨てる。そうすると念仏を妨げるものが、なにひとつなくなり、ただちにこの世が浄土になるという。
 ほんとうに、
「山川の 末に流るるとち殻も 身を捨ててこそ 浮かむ瀬もあれ」(伝空也)
ということだろうか。